子どもの頃のことを、いろいろと思い出した。
去年の暮れ、大麻に関する記事を書いてから、そうだ、わたしは子どもの頃肌が弱かったんだ、、、そういえば食べ物も・・・繊細な子どもだったのに、いつの間にかその繊細な感覚が失われたんだ、と思い至った。そのことは、ここに書いた。
たまたま髙橋和巳先生の『子は親を救うために「心の病」になる』を手に取り、読んでみたのも何かのシンクロニシティだったのかもしれない。親が抱えていたこころの矛盾に影響されて、自らの感情を閉じ込めることを学んでいった結果、私の思春期は相当に辛いものだったことは、以前に書いた通りである。
その記事はインドに旅行中の日記を下書きとしており、一ヶ月掛けて書いたり消したりしながら完成させた。しかし、時間を掛けたぶん、どこかまとまりすぎている印象があった。自分の物語を綺麗に書き上げることには成功した分、誰もが抱えている生きづらさの種を掘り起こすことの助けにはなりにくいような文章だったと思う。一言で言えば、一般化できないのだ。
髙橋先生の文章は、問題がまずあって、カウンセリングの過程を描き、そこから原因が見つかっていくプロセスが描かれる。この、発見のプロセスが、読者の生きづらさの経験とシンクロすることで、読者自らの物語が生まれる。
私の文章は、原因→過程→結果、という語り口だったので、そこに探求の要素が含まれていなかったのだ。だから、辛かったんだね、がんばったねという印象にはなっても、勘の鋭い人でなければ自分のことを掘り起こせなかったかもしれない。という反省がある。今回はその書き直しとまではいかないが、アナザーサイド、B面の物語です。
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私がこの本で最も共感できたのは第一章「息子は親を救うために引きこもった」という部分。繰り返しの部分もあるけれどご容赦いただきたい。
子どもは親が大好きで頼りにしているから、つねに親のことを気に掛けている。親の機嫌はいいかとか、お母さんに褒めて貰えるか、必要とされているか、自分はお母さんの役に立っているか、怒られたりしないか。
そして、親を真似して生きるのだ。
だからこそ、親が抱えた「心の矛盾」(気持ちの偏りや悪い心、嘘、辛い気持ち、間違った生き方)までをコピーして生きるという。
そして、親から心が自立しようとする思春期に、それが爆発するという。
親に厳しく育てられ、自分を抑えてきた子どもは、今までの我慢を晴らしたい一方で、我慢が足りない自分を責めるというジレンマに陥る。母親の苦労を見てきた子どもは、我慢することを学んだ結果、自立したいという思いと親のために我慢すべきとの思いがぶつかり、自分を責め、親を恨む。
例として登場している中学二年生の駿一君という子に、私の経験が重なった。
駿一君は引きこもりで10ヶ月不登校になり、些細なことで母親に怒り、物を投げたり食器を割ったり、母親を叩いたりするという。
カウンセリングの数日前、駿一君は急に怒りだし、大声で叫んだという。「逃げるな! ママ、仕返しさせてよ。僕はずっとママに言われっぱなしだった。僕はこのままでは生きていけない!」といい、包丁を持ち出して自分の手首を切ろうとした。それが母の脛に当たり、血が滲むのを見て駿一君はしゃがみ込む。
駿一君は「僕が静かにしていると、ママは苦しさに気付かない。ママの苦しみを引き出すために、僕はもっと酷いことをしないといけない」という。
髙橋先生が、この事件の過程を詳しく聞き出す。
母が仕事から帰ってきて、買い物袋を開けていると駿一君が出てきた。
息子は近所の肉屋さんのハンバーグが大好きで、小さい頃から買ってくると喜んでいたので、「小川屋さんのハンバーグ買ってきたわよ、これ美味しいよねー」と言った。駿一君は何も言わず、顔を背けた。そして母が冷蔵庫を開けると、後から殴ってきたという。「何でこうさせるんだ!もっとこうしないといけないのか!」と言って。
カウンセリングで髙橋先生は推測する。「彼が怒ったのは、お母さんが自分のペースに持ち込もうとしたからじゃないかな。『これ美味しいよねー』といわれて嫌な気がしたのは、『うん』と同意しないといけないと思ったからでしょう。[...]彼はいい子だから、そう言われて辛くなった」
ここで、母は駿一君を「お人形のようにしてきた」ことに気付いた。
子どもは母親が大好きなので、いい子になりたい、母親を助けたいと思う。だけど親から離れて自立したい気持ちがある。この対立がストレスを生む。いつまで母親に合わせて生きなければならないのか。まだ我慢しなければならないのか、と。
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簡単に言えば、自分の感情を表現できず閉じ込めていく傾向と、両親に合わせた生き方、の2つがセットになってわたしを苦しめていたのだと思う。
そう考えてみると、いろいろなことを思い出した。
たとえば、中学校の部活。
私は吹奏楽部でトランペットを吹いていた。しかしこれは自分で選んだ訳ではないことに気付いたのだ。
私の兄は吹奏楽部で、彼はクラリネットを吹いていた。彼が本当にやりたかったのかは知らない。
私も親と、部活なにやるの、という話になると、私は(何をやりたいとかは言えない子どもなので)黙っていた。両親は勝手に相談を始めて、兄がクラリネットだから金管楽器、やっぱりトランペットだよね、とか言い始めて、すっかりそういう話ができあがっていた。わたしは曖昧にうなずくだけだったのに、いつの間にかそういう決着がついていて、いつの間にか顧問にも「今度弟の方も吹奏楽部に入りたがっているのでよろしくお願いします。」とかいわれていた。
本当はパソコン部にも興味があったのだが、それは結局言い出せずに吹奏楽部に入った。吹奏楽部は楽しかったし、嫌ではなかったのだが、やっぱり自分で決めさせてほしかった。
服とか自分の部屋の家具とか、何かを買うときはいつも親が間接的に決めていた気がする。
こういうの好きでしょ、って言われて、うんと言って決める。だけど自分の好みは変わる。いつまでも同じ色、同じタイプの服が好きなのではない。でも自分の好みと違う物を「これにする?」と言われても、いやとは言えなかった。
それでも日々目にするものだから、その度に思い出して、本当は別のが欲しかったのにと、辛い思いをしたのだけれど。
わたしは両親に、あれがほしいとかあれがしたいとか要求はできない子どもだった。ごくたまに要求しても、気まぐれとしか思われないか、受け流されるかのどちらかだったのでなおさら不満は募るだけだったし。
何か要求したいときはいつも遠回しに言っていたのだな、と、ふと思い出した。
たとえば。私は少年野球チームに入っていた。これはめずらしく自分がやりたいと思ってやった。だけど野球がやりたいとは言わなかった。言えなかった。
友達S君の家に遊びに行ったとき、彼が野球をやっていることを知った。私もやりたいと思ったのだが、やりたいとは言い出せない。(どうせ言っても無駄だという思いと、怒られたら怖いという思いと、それに要求を伝える事への長年積み重なった抵抗感がある。)
だから、今日S君の家に行ってきた。キャッチボールをした、S君野球やってるんだって。と言うだけ。これで「あなたも野球やりたいの?」と言われればいいのだが、そうもいかないので。「今度の土曜日練習があるから来てって言われたんだけど」と冗談めかして言ってみる。「誘われた」だと自分の「やりたい」という気持ちを伝えることになるからできなくて、「来てって言われた」という決定事項でないと言えなかったのだ。これだってすごく勇気がいったのだけど。
これでさえ、ふーんと受け流されたり、話題を変えられたり、土曜日には忘れられたり、というのがいつものパターンだった。この時は運良く覚えていてくれて、金曜の夜に父が古いグローブを出してくれた。
こういう、関係のある話題を振ってみる→自分の意思に沿うように流れを作る、というやり方はだいたい5回に1回くらい成功したと思う。つまり8割は失敗して、不満だけが蓄積していくのだけど。
中学三年生で急に部活を辞めたくなった。理由はよくわからないが憂鬱感に襲われたのだ。だけど「部活を辞めたい」とは言えなくて、たんに部活をサボっていた。顧問から連絡が来たりして、ようやく辞めたいという意思が伝えられる。
高校を辞めるときだってそうだった。行きたくなくて、行くのがどうしても辛くても、ただ学校をサボるだけ。西武線に乗って、ひたすら西武新宿と本川越の間を行ったり来たりしていた。山手線をぐるぐるまわっていた。(もう時効だが、これは不正乗車にあたる)
そういえば、珍しく自分の要求を伝えるときだって、いつも半泣きだった。それだけ勇気の要ることだったのだ。自分の気持ちを言葉にして話すというのは、むずかしい。
髙橋先生によれば、思春期以前でも、ストレスが大きければ身体のサインとして現れるのだという。それが夜尿症、指しゃぶり、神経症的な癖やチック、抜け毛、慢性的な腹痛などだ。
そういえば、わたしも10歳くらいの時、急におねしょをするようになったことを、昨日急に思い出した。もしかしたら、これはストレスの表れだったのかもしれないなぁ。
同じ頃、不登校になった。何か特定のことが嫌だったわけではないが、学校に行きたくなくなった。理由はよくわからない。これもそうなのかも。
中学生の頃、母親が、父が浮気をしていると疑いだし、毎晩喧嘩をするようになった。正確に言えば、母が一方的に怒鳴り散らすだけで喧嘩でも話し合いでもなんでもなかった。その母の怒鳴り声を聞くのが本当に辛かったのは、子どもの頃聞いた怒鳴り声を思わせたからだろうか。。騒動は何ヶ月かで収まったが、その後数年間、母の声を聞くのが苦痛で仕方なかった。
つい最近まで、別れ話をするのが本当に苦手だった。得意な人などいないと思うけれど。。。
自分の気持ちを言葉にして喋らないといけないからだ。自分が20年間できないまま育ってきたのだから。好き、なら簡単なのに。答えはイエスかノーだから。
でも別れるのは聞かれたことに答え、説明しなきゃいけない。自分の気持ちを説明するなどというのは、むしろやってはいけないと教えられたようなものだ。
だからいつも逃げてばかりいた。一方的に連絡を絶ったり、別れるように仕組んだりして。最低ですよね。
高校の時から19歳まで隠れて、でも完全には隠さないで煙草を吸っていたりとか、、それ以外にもいろいろと奇を衒ったことをして変人ぶって生きていたのも、きっと、自分がここにいるよって分かってほしいというメッセージだったのかと、今になって思う。
思えばいつも、他人の感情におびえながら生きてきた。
こうやったら怒られないか、不快な思いをさせないか、機嫌を損ねないか、と、つねに自分が行動する前に考えておびえながら動いたり話したりしていた。
その対象は、基本的には母親だった。何をするのも怖かった。母に怒られはしないかと。そうやって、他人の気持ちに怯えながら行動することを学んでいった。母親だけではなくて、誰に対しても。
だから何かをしようと思っても怖くて行動できないが多かった気がする。これ言ってもいいのかな、やってもいいのかなとどぎまぎしながら生きていた。
わたしの優柔不断さの一部は、そこからきているのかもしれない。
他人の感情を機敏に読み取る能力は、ある意味では役に立ったかもしれない。人と関わるとき、たとえば接客業、にそういう勘の鋭さを活かして上手く立ち回ることができる。
でも日々の生活でずっとそれをやっていたら、心がすり減ってしまう。自分の気持ちに正直になれないで周囲に合わせているのだから、自分がスカスカになってしまう。誰にも本当の自分を見てもらえないし、認めてもらえない。自分なんて、生きていても生きていなくても同じ人間になってしまう。なんで生きているんだろう、と思う。死んじゃってもいいんじゃないか、とも思うようになる。生きるのが辛い、と重なる。
もしかしたら17歳の私が抱いていた自殺願望は、こういうことだったのかもしれないなぁ。
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ひとは物語が好きだ。
混沌とした世界を理解するためには、一定の説明を与える、筋のある解釈を作り上げないといけない。だから物語…原因と結果があったり、理論的な枠組みがある説明の仕方のこと…に頼ってものごとを理解しようとする。
わたしの子どもの頃の体験談は謎に満ちていたけれど、髙橋先生の本を読んでスッキリした。これは私が、「自分の感情を表現できず閉じ込めていく傾向と、両親に合わせた生き方」という物語を使って解釈できるようになったからだ。
もちろんこの物語が正しいのかどうかはわからない。ただ、私にはとても役に立った。支えになったし、それをきっかけに前向きにもなれた。
ひとつの物語に固執すべきでない、とも思う。世界は混沌だから、ちょっとした物語をひとつふたつ作れた程度で理解した気になってはいけない。それはまた思考停止でもあるから。
だけどもやもやを長年抱えた人は、やはりスッキリして思考を停止させたいのではないだろうか。思考を一旦止めてみて、また新しい課題を見つけて、ふたたび考え始めるのだ。
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物語はたくさんあったほうがいい。頼りの綱は多い方がいいでしょ。
10代のときは、なにか決定的なもの、1つの答えを探そうとしていた。だからつらかったのかも。
こういう考え方もあるし、別の考え方もあるよね、と、、1つの答えにこだわらずに考えられた方が楽だし、楽しい。
1つの答え、を捨てることによって失ったこともあるかもしれないが、あれを続けていたら本当にすり減っていただろう。
むしろ世の中には決定的なものなんかなにもないのだ、、だから物語が必要になったときに引き出せるものがたくさんあった方がいい。答えはたくさんある方がいい。
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十代の頃は、25歳までに自分は死ぬと思って生きていた。大人になることを拒んでいた。
三島は老いに嫌悪を抱き、自害したという。
私は「成熟」という名で社会に適合するように枠にはめられ、鈍感になって、悩みも抱かずに熱い自我を持たずに生きて行くくらいなら死んだ方がマシだと思っていた。自分にとっての大人が、自分の周りにいるような…両親や教師のような大人しか想定していなかったからかもしれない。
今、26歳になってもまだ生きている。
十代の私が見たひとつの「大人」像を手放したからでもあるし、ひとつの生き方、ひとつの答えを探してひとつの物語にこだわって生きるのをやめて、ゆるゆると、柔軟に、恬澹に、しなやかに生きることを選んだからかもしれない。たくさんの物語を見つけたからだ。
だからこそ、わたしは人それぞれ持っている、それぞれの物語、それぞれの世界観、それぞれのことば、を否定したくはない。怖かった私の母も、母なりの世界像があって、それを守るために子どもに厳しくして生きていたのだろう。それが母の持つ物語だったと思う。
その物語を、わたしが理解することはできないけど、尊重することはできる。たいせつにすることはできる。人が怒ったり苦しんだりするの、それぞれに守りたい世界像があるからだ。母にはそれが強かったのだと思う。だから恨むつもりは全くない(と思いたい)。
すべての人がたいせつにしているすべてのものを、私もたいせつにしたい。
そうすれば平和になれると思うから。
三島は老いに嫌悪を抱き、自害したという。
私は「成熟」という名で社会に適合するように枠にはめられ、鈍感になって、悩みも抱かずに熱い自我を持たずに生きて行くくらいなら死んだ方がマシだと思っていた。自分にとっての大人が、自分の周りにいるような…両親や教師のような大人しか想定していなかったからかもしれない。
今、26歳になってもまだ生きている。
十代の私が見たひとつの「大人」像を手放したからでもあるし、ひとつの生き方、ひとつの答えを探してひとつの物語にこだわって生きるのをやめて、ゆるゆると、柔軟に、恬澹に、しなやかに生きることを選んだからかもしれない。たくさんの物語を見つけたからだ。
だからこそ、わたしは人それぞれ持っている、それぞれの物語、それぞれの世界観、それぞれのことば、を否定したくはない。怖かった私の母も、母なりの世界像があって、それを守るために子どもに厳しくして生きていたのだろう。それが母の持つ物語だったと思う。
その物語を、わたしが理解することはできないけど、尊重することはできる。たいせつにすることはできる。人が怒ったり苦しんだりするの、それぞれに守りたい世界像があるからだ。母にはそれが強かったのだと思う。だから恨むつもりは全くない(と思いたい)。
すべての人がたいせつにしているすべてのものを、私もたいせつにしたい。
そうすれば平和になれると思うから。
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