Life Gets Messy —このブログについて
Life Gets Messy とは
先日、このブログの題名を「じゃんけんで負けて荒木に生まれたの」から「Life Gets Messy」に変えました。
お気づきになったかと思いますが、(正確に言えば、「気付いてほしかったのは、」)前のタイトルは池田澄子さんの俳句へのオマージュでした。本歌取りのルールには反していますけどね。
個人的には、このタイトルは結構気に入っていました。池田さんの句についてもいろいろな解釈ができるように、このタイトルにも色々な意味を込めていました。
たとえば、勝って人間に、日本に、この環境に生まれてきた訳じゃないのだから驕り高ぶってはいけないという自戒や謙遜を促す意味であったり。勝ち負けにこだわらないで自分らしく自分のできることを自分のペースでやって生きて行きたいとか。ほんのじゃんけんのようなささいなことが人生を左右するのだとか。
それでも、なかなか理解の得られにくいタイトルだったかなぁ、とは思います。人生に悲観しているように受け取られてもおかしくないですよね。旅行や音楽の情報を求めてこのブログにやってくる人は私のことを知らない訳ですから、そんな陰々滅々としたタイトルのブログなんて読みたくないと思う方もいたでしょう。
もうちょっといいタイトルはないかなー、とはずっと思ってきたことでした。先日、たまたま思い出したのがこのLife gets messyという言葉でした。
この言葉は、特に変わった言い回しとかイディオムとかではないのですが、私の大好きな映画である、リチャード・リンクレイター監督のBefore Sunrise、Before Sunset、Before Midnightの三部作のレビューの中で見つけた言葉でした。以前Film Studiesという授業で、この映画の分析をした小論文を書いたことがあって、人生はmessyだから美しいのだということをこの映画は描いている、とかなんとか結論を出した気がします。
人生は手の着けようがないくらいゴチャゴチャしています。大切な人がいなくなったり、親の影響で心を病んだり、恋愛関係でこじれたり、自分の苦しみを誰にも分かって貰えなかったり、子どもが引きこもったり・・・
十代の頃は、大人になれば人生は楽になるのだろうと思っていました。だけどそんなことはなさそうです。余計な問題に巻き込まれたり、どうでもいいことに悩まされたり、解決しようのない問題に直面したりして、むしろどんどん人生は複雑になっていく。これがlife gets messyの意味するところだと思います。
そしてそのmess(ゴチャゴチャ)は、私たちを苦しめたり悲しませたりもします。
だけど、その苦しみや悲しみは、わたしたちが守ろうとしている大切なものがあるから生まれてくるのだと思います。大切な人と一緒にいたいとか、だれかに理解してもらいたいとか、いい生活がしたいとか、自分の子どもにいい人間に成長してほしいとか。目標も要求もなければ、苦しむこともないんです。
極端ないいかたをすれば、幸せを探そうとするから苦しむんだと思います。ゴチャゴチャのなかで、もがいたりあがいたりして苦しむのは幸せを探すプロセスなのだと。
わたしがリンクレイター監督の映画が大好きなのは、そのゴチャゴチャに向き合うからです。決して何かを成し遂げる訳ではないけれど、必死で答えを見つけようとするプロセスが描かれているからです。
幸せとは、なにかを達成したり、欲しい物を手に入れることではなくて、闘ったりもがいたり苦しんだりすることのなかにあるのだと思います。人生は完璧じゃないけど、わたしたちが今生きているこの人生以外の人生もありえないのだから。
Life Gets Messyというタイトルには、ゴチャゴチャした人生こそが美しいのだ、という思いを込めています。
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ことばの力を信じる
先日、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんの連載を読んでとても共感しました。人に与えられた言葉が、誰かを傷つけるためや、貶めるために使われているのはかなしい。せっかく持って生まれたことばなのだから、誰かのために使いたい。ことばは凶器にもなるけれど、人を癒やしたり元気づけたり楽しませたり安心させたりすることもできる。わたしは後者の目的で、言葉を使いたいと思いました。言葉をもっと大切にしたいと思いました。そして、日頃なにげない言葉でだれかを傷つけたりしていないかと思い、反省しました。
できることなら誰も傷つけずに生きたいけど、どう生きたって誰かを傷つけてしまします。
だから、せめてそのぶんでも、誰かを安心させてあげたり、癒やしたり、楽しませたり、そばにいたり、そんなことで埋め合わせができるような人間でありたい。できることなら、自分が傷つけた以上に、だれかを幸せにしたい。
ずっと、自分にできること、を模索してきました。
音楽だったり写真だったり映画だったりしたけど、どれも中途半端で、自己満足で、自分の感情をぶつけているだけのような気がしていました。受け取る側の視点をもつほど、広い視点を持って扱う事ができませんでした。
唯一のこったのが「ことば」を使うことでした。これだって最初は自己満足だった。いまでも大して変わっていないかもしれませんが。高校では小説を書いたり、新聞部に入りコラムを書いたりしていました。ぜんぜん書き上げられなかったけれど。そのときはことばは、自分の感情を発散する手段であり、他人に自分のことを認めてもらう手段でした。
だけど、自分が読者として美しくて繊細な文章、たとえば池澤夏樹とか、人類学者の西江雅之さん、作家の田中真知さんの文章を読んで、こんな文を書ける人間になりたい、と思いました。かれらの書く言葉は、澄み切っていて、視覚から直接こころに語りかけるようなまっすぐで、過度に飾ったりひねったりしない端正な文章でした。
読む人を意識して書くことを覚え(たのかは分からないけれど、今でもそれを心がけて)、読む人にとって何のためになるのか、を考えて書くことを心がけてきました。かれらのように洗練された文章は書けないけれど、無駄のない、シンプルなことばを心がけて書いていました。そして、なるべく型にはまった、お行儀よい言葉は避けて、自分のこころにぴったりくる表現を使いたいと思っています。
そしてまた、書くことを通じて、いままでできなかった、自分の内面をことばにする、ということに挑戦しています。自分のことばを取り戻しつつあります。
あいかわらず喋るのは苦手ですが、いまのところ書いてことばを紡ぐことしか、わたしにはできない。
私にはわたしにできることしかできない。だけど私にできることは一生掛かってもやりつくせないほどある。だから私は書くことを選んでいます。
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たいせつな人たち=すべての人たち に寄りようこと
私にとって一番の宝物は、今まで出会った人たちです。これは仲のいい友達だけを指すのではなくて、自分にとっていい人だと思った人も、悪い人だと思った人も。バイト先のお客さんだって、それも私に親しく話しかけてくれた人だけじゃなくて私を怒鳴りつけた人も、もう覚えていない人も。道ばたで見かけた変な人(だと私が思った人)も。なにかしら自分に影響を与えてくれているはず。今の自分がいるのも、かれらが私を育ててくれたおかげだと思っています。ひとりひとりは、もしかしたら、大海に真水を一滴そそぐくらいの影響しかなかったかもしれないけれど、そのひとりひとりがとてもいとおしい。このブログにたどり着いた、面識のない読者の方も、わたしにとっては大切な人です。
かれらのお陰で自分がいるのだから、自分も誰かの支えになれたらうれしい。たぶん、それが私にとって一番の幸せかもしれない(お酒を飲むことを除けば。)。
支えになる、というのはむずかしい。
自分の感情はだれもわかってくれない、と思って生きていました。親の影響もあるでしょう。
いまでもあまり変わっていません。
自分の感情、それとまったくおなじものを、だれかと共有することは、できないと思います。その感覚は自分の中にしかなくて、同じ悲しみや苦しみは2つと存在しない。
似たような経験のある人なら、共鳴してくれるかもしれません。でもこれだって難しい。たとえ親友であっても、親を亡くした辛さは、彼(女)も親を亡くしていなければ共鳴はできないでしょう。ひとそれぞれいろいろな苦しみ方があって、共鳴できるひともできないひともいて。共鳴の度合いもちがう。
でも、共有も共鳴もできなくても、そのひとの感じていることに思いをはせ、尊重し、理解しようと努めることはできます。わたしはこれを共感と呼びたい。あるいは「寄り添う」ともいえるでしょう。
辛いときはただそばにいて、話を聞いてくれる人というのが大切です。実は、わたしはそのことに最近まで気付きませんでした。両親がわたしの気持ちを理解してはくれなかったということの影響もあるでしょう。ただ一人で抱え込み、だれも分かってくれない…と苦しんでいました。自分の気持ちを話し、ただ評価も意見もせずに聞いてくれる人がひること、それだけのことがどれだけ人を癒やし、安心させるか。
そして、わたしの書く言葉が、苦しみを抱えた人、救いを求めている人、どこかに生きづらさを抱えた人に寄り添うことができたらいい。わたしの言葉にどこか居心地の良さを感じてくれたらしい。居場所を作り出すことができたらいい。ほんのわずかでも、心の支えになれたらいい。どこかで言葉にできてもやもやを抱えた人のかわりに私がことばにすることで、そのもやもやをスッキリさせることができたらいい。
近くにはいられなくても、一緒にいることはできる。わたしは、ことばを使って、共感を必要としているひとに寄り添い、一緒にいたいと思うのです。
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みんなのためではなく、必要としている誰かのために書く
だけどわたしにとってやりたいのは、読む人すべてのためになるような文章を書くことではありません(そんな種の文章が、もしあるとしたら、の話ですけど)。
わたしがいわゆるメインストリームの人生を歩んできていないから、という理由もあるでしょう。もともとひねくれた性格なので、最大公約数的なもの、凡庸なものにはどこか忌避感があるのも事実です。誰が読んでも役立つ知識、というのは、なんとなく自分らしくない気がするのです。それらを馬鹿にしているわけではありません。自分よりもっと適した人がいると思います。彼らに任せたいと思います。郊外の商店街の隅っこの出店でやってるようなブログでいい、と思います。
簡単に言えば、99人に読み飛ばされてもいいから、100人に1人、私の言葉を必要としている人がいれば、その人のためになるようなことばを書きたいのです。私が歩んできた人生があって、私だからこそ見えている世界がある。それを必要としている人は、たぶん私のように奇特な方だと思います。だけど、私にしか語れない言葉、私にしか聞けない言葉、私にしか共感できない気持ちが、あるのかもしれない。それらに応えるために、書きたいと思うのです。
このブログのアクセス数は、少ないです。1日10~40PV、更新するとたまに100を超える程度です。それでいいと思います。増えようが減ろうが、あまり気にしていません。
以前にも引用しましたが、夏目漱石先生はこんなことを書かれています。
だけど相場と価値は違います。相場なんて所詮は移ろいゆくものです。自分には相場とは別に、確固とした価値があるはずです。わずかであっても、それを必要としてくれる人がいて、自分の居場所がある。それでいいじゃないですか。相場が上がろうが下がろうが、自分は揺るぎない。
評価されること、まわりに褒めて貰うことを目的にして行動していると、自分がスカスカになってしまう気がします。有名なもの、周囲の友達や世間が評価しているもの、値段の高いもの、それらに過度に同調することはない。自らの感性を磨き、自分の審美眼を信じることが大切だと思います。人とちがうことを気にする必要はないと思います。
情報と広告の波に埋もれて、自分の感性を失いやすい時代だと思います。みんなが持っている物を買わないと時代遅れになるような気がして消費に走らされる。テレビや雑誌に取り上げられる物が美しくて魅力的だと信じてしまう。だけどそれらに同調していると、自分らしさが失われていくような気がします。マスメディアの中で語られる「個性的」って、すごく無個性だと思いませんか? それは多くの人に受け容れられる、最大公約数の範囲での個性でしかないような気がするのです。
いまだに多くの大学でミスコンが開催され、女性とはこうあるべき、(控えめに言っても「女性にはこうあってほしい」)みたいな姿が想定されている。男性も同じでしょう。若者、社会人、ミュージシャン、大学生、日本人・・・それぞれに理想の姿のようなものが、なんとなく浮かびます。それらを作っているのがすべてメディアにあるとは思いませんけど。
一方で、人それぞれの良さというのが尊重されていない気がします。"こうあるべき"の枠から大きく外れると、女なのにとか若いのにとか言われてしまう。"女性らしく"ないと…たとえば、体毛が濃かったり気が強かったりすると、女性として魅力的ではないように言われてしまう。
色んな人がいて、それぞれに魅力があるから、この世界は美しいのだと思うのですが。わたしはそれぞれが持っている独特な魅力を大切にしたい。そして、それぞれが持っている魅力が個人に受け入れられるかどうか、すなわち、好みも、人それぞれです。それぞれの魅力がそれぞれの好みにマッチするって、素晴らしい出会いだと思いませんか?
だから、イケメンにはなりたくないし、かわいい女の子にも興味がない、と言ってきました。自分らしくないイケメンになってみんなに認められるより、私らしさを求めてくれるわずかな人と一緒にいたほうがいい。決して社会のメインストリームに反抗する訳ではなくて、それぞれを尊重しながら、自分は自分の居場所を作る、という意味です。
ちょっと話がそれてしまいましたが、ことばも一緒です。誰にでも受け容れられる言葉を書きたいわけではないのです。それをするのが得意な人はいるし、それは素晴らしい能力だと思います。みんなが必要としていることを考え、誰にでも分かるように、簡潔に、面白く伝えるというのは簡単ではないでしょう。それも尊敬しなければいけません。
だけど私の仕事じゃない。
だから私は片隅で細々と自分の言葉を語ってゆきます。
この世界の片隅に、わたしを見つけてくれる人がいると信じて。
わたしがいわゆるメインストリームの人生を歩んできていないから、という理由もあるでしょう。もともとひねくれた性格なので、最大公約数的なもの、凡庸なものにはどこか忌避感があるのも事実です。誰が読んでも役立つ知識、というのは、なんとなく自分らしくない気がするのです。それらを馬鹿にしているわけではありません。自分よりもっと適した人がいると思います。彼らに任せたいと思います。郊外の商店街の隅っこの出店でやってるようなブログでいい、と思います。
簡単に言えば、99人に読み飛ばされてもいいから、100人に1人、私の言葉を必要としている人がいれば、その人のためになるようなことばを書きたいのです。私が歩んできた人生があって、私だからこそ見えている世界がある。それを必要としている人は、たぶん私のように奇特な方だと思います。だけど、私にしか語れない言葉、私にしか聞けない言葉、私にしか共感できない気持ちが、あるのかもしれない。それらに応えるために、書きたいと思うのです。
このブログのアクセス数は、少ないです。1日10~40PV、更新するとたまに100を超える程度です。それでいいと思います。増えようが減ろうが、あまり気にしていません。
以前にも引用しましたが、夏目漱石先生はこんなことを書かれています。
教師に叱られたとて、己れの直打が下がれりと思ふ事なかれ、又褒められたとて、直打が上つたと、得意になる勿れ、鶴は飛んでも寐ても鶴なり、豚は吠ても呻つても豚なり、人の毀誉にて変化するものは相場なり、直打にあらず、相場の高下を目的として世に処する、之を才子と云ふ、直打を標準として事を行ふ、之を君子と云ふ、故に才子には栄達多く、君子は沈淪を意とせず。他の人に褒められたり、認められたり、アクセスが伸びたり「いいね!」を押されたりリツイートされたりすると、自分の価値が認められた気になってしまいがちです。
だけど相場と価値は違います。相場なんて所詮は移ろいゆくものです。自分には相場とは別に、確固とした価値があるはずです。わずかであっても、それを必要としてくれる人がいて、自分の居場所がある。それでいいじゃないですか。相場が上がろうが下がろうが、自分は揺るぎない。
評価されること、まわりに褒めて貰うことを目的にして行動していると、自分がスカスカになってしまう気がします。有名なもの、周囲の友達や世間が評価しているもの、値段の高いもの、それらに過度に同調することはない。自らの感性を磨き、自分の審美眼を信じることが大切だと思います。人とちがうことを気にする必要はないと思います。
情報と広告の波に埋もれて、自分の感性を失いやすい時代だと思います。みんなが持っている物を買わないと時代遅れになるような気がして消費に走らされる。テレビや雑誌に取り上げられる物が美しくて魅力的だと信じてしまう。だけどそれらに同調していると、自分らしさが失われていくような気がします。マスメディアの中で語られる「個性的」って、すごく無個性だと思いませんか? それは多くの人に受け容れられる、最大公約数の範囲での個性でしかないような気がするのです。
いまだに多くの大学でミスコンが開催され、女性とはこうあるべき、(控えめに言っても「女性にはこうあってほしい」)みたいな姿が想定されている。男性も同じでしょう。若者、社会人、ミュージシャン、大学生、日本人・・・それぞれに理想の姿のようなものが、なんとなく浮かびます。それらを作っているのがすべてメディアにあるとは思いませんけど。
一方で、人それぞれの良さというのが尊重されていない気がします。"こうあるべき"の枠から大きく外れると、女なのにとか若いのにとか言われてしまう。"女性らしく"ないと…たとえば、体毛が濃かったり気が強かったりすると、女性として魅力的ではないように言われてしまう。
色んな人がいて、それぞれに魅力があるから、この世界は美しいのだと思うのですが。わたしはそれぞれが持っている独特な魅力を大切にしたい。そして、それぞれが持っている魅力が個人に受け入れられるかどうか、すなわち、好みも、人それぞれです。それぞれの魅力がそれぞれの好みにマッチするって、素晴らしい出会いだと思いませんか?
だから、イケメンにはなりたくないし、かわいい女の子にも興味がない、と言ってきました。自分らしくないイケメンになってみんなに認められるより、私らしさを求めてくれるわずかな人と一緒にいたほうがいい。決して社会のメインストリームに反抗する訳ではなくて、それぞれを尊重しながら、自分は自分の居場所を作る、という意味です。
ちょっと話がそれてしまいましたが、ことばも一緒です。誰にでも受け容れられる言葉を書きたいわけではないのです。それをするのが得意な人はいるし、それは素晴らしい能力だと思います。みんなが必要としていることを考え、誰にでも分かるように、簡潔に、面白く伝えるというのは簡単ではないでしょう。それも尊敬しなければいけません。
だけど私の仕事じゃない。
だから私は片隅で細々と自分の言葉を語ってゆきます。
この世界の片隅に、わたしを見つけてくれる人がいると信じて。
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