嘘とは変化だと思えば、恋愛も政治も似たようなものだ
もう1年ほど前のことになるだろうか。Su*Te*Ki Africaという団体の主催で行われた、作家の田中真知さんと医師の杉下智彦先生のトークイベントに行ったことがある。
田中真知さんは長らくカイロに暮らし、アフリカの各地に幾度も訪れている。なかでもコンゴ川(旧ザイール川)を丸木舟で二度に亘って川下りした体験は、『たまたまザイール、またコンゴ』(偕成社、2015年)という本に纏められている。愉快なエピソードに溢れていながら、それらをみつめる著者の恬澹なまなざしによる指摘の数々は、原石から磨き上げた宝石のように冷静で純粋で、貴い輝きに満ちている。
一方の杉下先生はJICA国際協力専門員としてアフリカで長らく医療支援を行ってきた医師であるが、SOAS(東洋アフリカ研究学院、ロンドン大学)で医療人類学を学んだ経験もあり、アフリカの現状への多角的な視点を持って情熱的に活動されている。現在は東京女子医大の教授としてより幅広く精力的に活動されているようだ。
このふたりによるアフリカの、一見すると破天荒で不条理にみちた世界の話はそれだけで十二分に面白かったのだが、それらと向き合うことで抽出された数々のことばたちには胸を打たれた。
学びはいろいろとあって書ききれないのだが、先日ふと思い出したのが、田中真知さんが言われた「嘘というのは変化」という話だ。
いわく、ある瞬間におけるその人にとっての真実というのは、別の瞬間も真実であるとは限らないという。われわれを構成している細胞や、それを構成している分子や、脳ニューロンの結合など……それらはつねに入れ替わっていて、同じであることはないのと同じように。
つねに変化しながらバランスを維持しているという、「動的平衡」という概念は分子生物学者の福岡伸一先生が世に広めた概念だ。私たちの身体的な要素だけではなくて、コスモロジー(世界観)もおなじように、つねに変容しながら一定の全体を形成しているということなのかもしれない。
この話を聞いたときは納得しつつも消化しきれなかった部分があったのだが、最近思い出してみると、ストンと腑に落ちるところがあった。長年のなくしものが急に出てくるかのように。
わたしは、真知さんや杉下先生のようにアフリカで暮らしたことはおろか、アフリカに足を踏み入れたことさえないのだが、それでも旅をしていると、"嘘"を単純に真実でないとは断定できない、と思うことがしばしばある。
たとえば。
役所や警察で手続をするとき、窓口に行ってみると「今日はダメ、明日。」と言われる。しかたなく翌日行ってみると「今日は担当者がいない、明日来い」と言われる。。。。
前日に「明日」と言われたのは嘘だったのかと怒りたくなるのだが、たぶんその時は役所の都合だか日取りの問題で手続を受け付けていなくて、(物事が上手く運べば)明日には申請できるようになってるんじゃないか、という意味で「明日だ」と言ったのかもしれない。そのとき、彼の見ている世界では確かに、「明日(今日じゃない未来、という意味も込められているのかも…)」になれば手続ができる、と思っている。その言葉は嘘ではなくて、その瞬間の彼の真実なのだ。
あるいは。
船着き場に行こうとして、大体の方向は分かるんだけどどこにあるのかわからない。近くにいる人に「船着き場はどこ?」って聞いてみると、「この道を5分くらい歩くと着くよ」って言われる。だけど10分歩いても15分歩いても着かず、仕方なくリキシャを拾って5分で着いた、とか。
あの野郎、嘘つきやがって、5分って言ったじゃねぇか。。と怒りたくなるのだが。もしかしたら彼の頭の中では、「うーんわかんないけど、あっちの方角だった気がする。この外国人疲れてそうだから5分くらいって言ったら頑張って歩くだろうな。」と思い至って優しさを込めてそう言ったのかもしれない。「分からない」と言うと失礼になってしまうから適当な答えで済ましてしまうような文化もあるのだから。そのとき彼の見ている世界では「この方向に歩いて5分」はひとつの真実だ。それを、他の人間が嘘つき呼ばわりして彼の世界を否定するのは、暴力だ。
ひとの数だけ真実があるし、その時々で真実は異なる。
だってそうでしょう。見えている世界が違えば、大切にしたいものも違うし、考え方も違ってくる。
たとえば、私の小学校の時の先生は、「世界中の金を集めても学校のプール一杯分くらいにしかならない。それくらい金は貴重なものなのよ。プラチナはもっと貴重なの」と言った。最近になって、それは正しくないと知ったのだが、小学生の荒木にとって世界の金の埋蔵量がプール一杯分というのは真実だったのだ。そして、現在の真実は違う。
だけどそれは、本に書いてあることや科学者が言っていることが真実なのであり、それらしい納得のいく説明があるから真実に思えるのであって、私が実際に確認した真実ではない。。小学校のときは親や先生の言うことがすべて真実だけど、大人になると違う。真実の成り立ち方はいろいろあって、知識や科学や経験や語られ方がそれぞれのひとの真実を作っている。そしてその真実は、その人の持っているコスモロジーによって支えられているし、そのコスモロジーは経験の蓄積と共に絶え間なく移り変わりながら、ひとつの総体を形成している。まさに動的平衡だ。
だからあるとき恋人に「好きだからずっとそばにいる」と言ったからって、実際にはその後もずっと好きでいる訳じゃない。時間が経って考え方も変わるし、その人の見えていなかった部分が見えるようになるし、周りの人に「なんであんなの彼女にしたの?」とか言われて考え直し、もっと魅力的な人に出会ったりして、一緒にいても居心地をよく感じなくなって、、気持ちも考え方も変わっていってしまう、、、でも、あのとき好きって言ったのは嘘じゃない。ずっとそばにいると言ったのは本心だった。
私の細胞を構成している分子が入れ替わったのと同じように、わたしの世界も変わってしまったのだ。。
まだ納得されていない方がいらっしゃったら、あるいはまだこいつを最低な男だと思う方がいたら(……言っておくが私の体験をモデルにしている訳ではないよ)、政治にたとえてみよう。
安倍政権と朴槿恵政権が日本軍の慰安婦問題を「最終かつ不可逆的に解決する」ことで合意した。その後韓国で朴大統領はいろいろあって、罷免されて、再び選挙があって、他の大統領が日韓合意を撤回するときがくる。それと同じである。
「好き」だから「一緒にいる」と約束しても、私の中でいろいろな何かが起こって政権交代が起こればその約束は撤回することになるかもしれない。だからといって朴政権も次の政権もその時の国民に支持されて成立しているように、ずっと一緒にいると言ったのももう別れたいと言うのも、それぞれの時点での彼が世界の出した結論であり、真実だ。
民主党が普天間基地移設を最低でも県外といっておきながら辺野古に代わる移転先を見つけられなかったのも、トランプがオバマケアに代わる公的医療保険制度を実現できなかったのも、実現にあたって見えていなかった部分が見えるようになっていった結果なのであって、嘘というのは一面的な見方だ。(見通しが甘かったことが問題であるのは、言うまでもないが。)
ひとは、過去の自分(あるいは他人)の出した結論にこだわりすぎてはいないだろうか。一度言ったことは撤回しない、有言実行の精神は、崇高なものに見えるけれど、実はものすごく不自由なのではないか。わたしは絶えず変化する。あるいは成長と言っていいかもしれない。過去の決定を覆すことは、前進であるかもしれないのだ。あのときこう言ったからといって、それだけを根拠に行動するのは、半世紀も前に描かれた新幹線の計画を無批判に実現しようとするようなものだ(新幹線の延伸、リニアモーターカー、本当に今でも必要だと思います?)。自分の変化を認める勇気を持つことも大切だと思うのだ。
だからね、心変わりを責められたら、「あぁ、あのときの俺、朴槿恵政権だったからさ、罷免されちゃったんだよね。」くらいの気持ちでいいのではないか。(いや良くないけど。。)
そう思えば、恋愛とは政治みたいなものだ。。
公約を実行できないまま終わる民主党政権みたいな付き合いもあるし、東久邇宮内閣(鳩山内閣といってもいい)みたいに一晩限りの関係もある。終わらないままずるずると関係を続ける野田内閣みたいな付き合いもあるし、思わぬ所から終焉を迎える犬養毅みたいな場合もあるし。
過去の恋愛を振り返ったとき、○○内閣みたいな関係だったな、と思えば、そんなこともあるよねー、と少しは楽になりませんか? なりませんか。
思い返せば死票ばかりの私の人生だったけれど。
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