このブログについて(自己紹介)


一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2018年5月15日火曜日

はじめて小笠原に行った17歳の時のこと



もう全てを終わりにしてしまいたい、と思っていた17歳の夏。わたしは船に乗った。行き先は小笠原で、手に持っていたのは必要最低限の荷物だけを詰め込んだ鞄ひとつだった。


同調圧力の強い学校には居場所がなかった。誰もが「普通」であろうとし、普通からはみ出さない程度の自己主張のが個性として認められるような「個性あふれる」空間ではわたしは自分らしく生きることができなかったし、「自主自立」を謳う校風のなかで放牧される自分たちの姿のグロテスクさに気付かないでいられるほど鈍感ではなかった。誰もが「良い」大学に行くことを疑わない場所、しかも大学の選び方なんて偏差値リストの上の方を有り難がる程度のやり方でしか決めないようなカチカチに固まった価値観の場所で、そもそも大学に行く意味がわからない、勉強する意味がわからない、自分が何をやりたいのかわからない、なんて声に出して言えるはずなかった。右向け右! の号令に抗うのももう疲れ(回れ右なんて左回りしたって変わらないのになんで右回りじゃないと怒られるの? 小さく前へならえなんてもっと意味不明だ)一生だれかのかけ声に答えて、誰かが作った理由の分からないルールに従って生きていくだけの体力は残されていなかった。


家に帰っても居場所はなかった。つねに母の感情におびえて、自分の気持ちを表現できないで育ったのだから。誰も分かってくれない、と思っていた。他人へ共感することもできなくて、他人の優しさも信じられず、人の好意や感謝の言葉をすべて拒否していた。それは共感されたことが少なかったから共感を学べなかったのか、それとも共感できないから共感されることも信じられなかったのかはわからない。自己否定感が強くて、自分を誇示しようとし、人を平気で振り回し、傷つけて、それでいて他人に否定されることを受け入れられなくて、余計振り回した。あ、これって憎しみから元恋人を殺害する男によくあるパターンだ。池永チャールズトーマスとか、始末に負えない悪人の様に書かれることが多いけど、わたしはとても共感できる。

ともかく、人との関わり方が分からなかった(いや、今でも分かっていないけど…)。友達はいたけれど、満たされない孤独感にいつも襲われていた。誰とも分かり合えない。誰も分かってくれない。恋や友情に、憧れることはあっても、それは自分とはほど遠いものに思われた。そしてそれが近くにあったとしても、扱い方はさっぱりわからなかった。

あのときにのわたしにあったのは、「将来に対する唯ぼんやりした不安」だけだったかもしれない。いや、不安というほどあいまいなものではなくて、将来に対する強い拒否感、だったのかもしれない。


死にたい、と思ったことは、子どもの頃から何度もあった。それは焼きそば食べたい、と同じくらいの頻度で訪れる、さまざまな欲求のひとつでしかなかった。「死にたい」と「死のう」は違うことだし、死ぬのには気力も体力も準備もいるし、死ぬって結構めんどくさいことだし、そんなわけで17歳までは生きてきた。


それでも、17歳、高校3年の夏、もう死んでしまおうと思った。

もう高校には行っていなかった。ある日どうしても高校に行きたくなくて、高田馬場駅で降りずにずっと西武線を往復して一日過ごした。その日を境に行けなくなった。でも、家族にも友達にも先生にも、何でもないような顔をして、何も考えていないような顔をして過ごした。辛いとか死にたいなんていうことは、決して人には言わなかった。言えなかった。自分の感情は自分の心の中だけに留めて、押し殺して生きてきたから。感情を表出すると、怒鳴られたり怒られたりしたから、いつの間にかなにも言えない子になってしまっていたから。
学校には行かず、バイトと自宅の往復をして過ごしていた。そのうち、夜眠れなくなって、深夜ラジオを聞くようになり、朝も起きられなくなった。7月初旬、1学期の期末試験を受けなかったから、卒業できるかもわからないけど、そんな将来のことはどうでもよかった。試験休んじゃった、どうしようかな、という焦りも、ないではなかった。それ以上に、もうこれ以上生きるのは辛かった。だからもう、終わりにしたかった。

もう死んでしまおうと思ったとき、同時に、「もっと生きたかったな」と思った。もっと美味しい物を食べて、恋をして、友達に恵まれて、楽しい人生を過ごしたかった。でももう、自分にはそれが手に入らないものなのだと思った。

死のうと思った、というのは正確ではないかもしれない。厳密には、小笠原に行っても生きる希望を見つけられなければ、帰りの船から海に飛び込んでしまおう、と思った。


なぜ小笠原に行こうと思ったのかはわからない。

なぜ最後に旅に出ようと思ったのかもわからないし、なぜ行き先が小笠原だったのかも、わからない。きっと呼ばれたからだ。言葉にできない、説明できないなにかに引き寄せられたからだ。


決めたのは出発の10日ほど前だったと思う。バイトはしばらく休みにしてもらい、島のユースホステルに電話して予約を入れた。船のチケットも買った。親切な友達Mさんが3万円ほど貸してくれた。

親には何も言わなかった。
出発の前夜、北海道行ってこようかなー、なんて冗談めかして言ってみたら、母親は激怒した。学校にも行かないで試験も受けないで北海道なんて何考えてるの。と大声で怒鳴った。父親も控えめに同調して、やめておきなさい、みたいなことを言った。そうしないと父もまた母の怒りを買うからだ。
普段なら怒鳴られると萎縮して悲しみに溺れそうになるけれど、このときだけは違った。冷静な頭で、この人は何も分からないのだ、もうこの人とは一生分かり合えないで終わるのだ、と思った。だからこれ以上なにを言うのも止めようと。
そしてみんなが寝静まった深夜、ボストンバックに最低限の荷物を詰めた。

翌朝は普段、学校に行くのと同じ時間に起きて、今日は学校行くの、と聞かれたからあいまいに返事をした。そうして家を出た。当時はそれでも旅行のつもりだった。今思えば家出以外のなにものでもないが。

当時小笠原は、softbankの携帯は電波が入らなかった。だから船に乗って、東京湾を出る頃、電波が弱くなったら、母に「いまからしばらく小笠原に行きます」とだけメールして、すぐに電源を切った。


母島・乳房山山頂。ニキビ顔とボブ・ディランのTシャツが青春を物語る

その頃のおがさわら丸は、東京港から父島までは25時間半。船酔いはしなかった。昼の時間の大半を外のデッキで、考えごとをしながら過ごした。不安と開放感の入り交じった気分で、夜もほとんど眠れなかった。


島での過ごし方、遊ぶ場所については、ほとんど何の情報もないまま、島に着いた。港には宿の人が出迎えに来てくれる。週に1回しか船が来ないから、着岸するとたくさんの宿がプラカードを掲げて出迎えるのだ。その端っこに「小笠原ユースホステル」の人たちはいた。宿のスタッフのかたがたはみんな優しく、明るく迎えてくれた。

チェックインを済ました午後、わたしはただすることもなく、あぁ、来ちゃったなぁ、と思いながら海岸で海を眺めていた。そんなわたしに、「よう、船で見たよ!」と声を掛けた陽気なおじさんがいた。



船で働いている人らしかったが、わたしの記憶にはなかった。仮にOさんとしておこう。
「一緒に飲もうよ!」と彼は言った。
「いや、まだ高校生なんで……」
「なぁに、この島じゃそんなの気にする奴なんていねぇよ!」

こうして、Oさんと愉快な仲間たちとともに、灯台の下で缶ビールや缶酎ハイを飲み始めた。夏の小笠原の日差しは強烈で、日焼け止めも付けず1時間も炎天下にいると肌が痛くなってくる。そんなことも気にならなくなるくらい、いろんな人がいれかわりたちかわりやってきて、私にいろいろなことを聞き、また話してくれた。学校をサボって来たこと、親に内緒で来たことを打ち明けると、みんな面白がってくれた。

後で聞いた話だが、Oさんは船でわたしの頼りなげな姿や、堤防で佇んでるのをみて「こいつ死にに来たんじゃないか」とおもって、ヤバいと思って声を掛けたらしい。まぁ、間違っちゃいない。

その日の別れ際、Oさんは「じゃ、明日は朝9時にここ集合な!」と言った。翌日、実際にOさんがクーラーボックスにいっぱいのお酒を持って姿を見せたのは9時半ごろだったが、その日は夜11時まで飲みっぱなしだった。もう一度言うけど17歳だ。
ほかにもOさんと仲間たちでちょっと離れたビーチに遊びに行ったり、12時間耐久バーベキューをしたり、知り合いの漁師の船で遊びに行ったりした。そうして島にも友達が増えていった。


Oさんや島民だけでなく、旅仲間のみんなや、ユースホステルのスタッフのみんなのことも忘れられない思い出だ。

今では世界遺産になって、メジャーな観光地の一つになったが、当時はテレビで特集されることすら稀だった。そして、週に1回しか船がない(来たら一週間は内地に帰れない)から、島に来る観光客も一風変わった人達ばかりだ。自己紹介のとき、「仕事を辞めて小笠原に来ました」なんていう人も、何人かいた。ほかにも、一年のうち10ヶ月働き、2ヶ月旅をして過ごしている人。ネットで一山当てて儲けてる人。何の仕事してるのか分からないけどやたらお金持っている人。早期退職して悠々自適に過ごしている人。就職に失敗した人。

そういう人たちは、それまでわたしが当然のように思わされていた「普通」の生き方とはかけ離れた人であり、自由に自分らしく輝いている人であるように、17歳のわたしの目には見えた。
自分がいままで、いかに狭い人生の選択肢を見ていて、その狭さに閉じ込められた気になっていたかを、思い知らされた。


島には、理不尽な同調圧力も存在しなかったし、ルールに従わない人を黙殺するようなアタマのカタい人もいなかった。他人を「普通」の枠に入れたり、はみ出した者を無言の内に排除したりというようなことを、決してしない人たち。それどころか、とても柔軟で、優しく、いろいろな人がいることを自然なことだと思い、それを楽しむ人たちだ。17歳の高校生が学校をサボって家出して酒を飲んで煙草を吸っていても、たしなめられるどころか、歓迎されるような場所だ。学校とバイトしか知らないわたしは、そんな人たちに出会ったこともなかった。それだけで、島に来て良かった、と思った。

わたしは、ここに来て、解放された、と思った。生まれてはじめて、わたしはわたしでいることを許された気がした。はじめて存在を、ありのままの存在を、認められた気がした。いままで感じたことのない、生きることの喜びを初めて感じた。生きていて良かったと。そしてまだ生きたいと。

この日の夕日はずっと忘れられない

島での日々のことは、どれだけ言葉を尽くしても、形容できないと思う。ありふれた比喩だけど、でも本当に、天国のような日々。最高の日々だった。

多くの観光客は、小笠原に来ると、ダイビング、ドルフィンスイム、ホエールウォッチング、釣り、山のツアーなどに参加するけれど、わたしはただギターを弾いて、散歩して、海を眺めて、出会った人と話して、酒を飲んで、たまにビーチで泳いで、毎日を過ごした。それだけで満たされていた。ただそこにいるだけで、ほかになにもいらない。そんな場所だ。

当初、3週間の予定で予約していた宿は、できる限り延長した。お金も少なくなったから、3万円貸してくれた友達Mさんに電話した。でも出なかった。なのにある日、口座の残高が5万円増えていた。Mさんは公衆電話からの着信履歴を見て、荒木からだと察して、口座に5万円も振り込んでくれたのである。なんと素晴らしくお節介なのだろう。ありがとうMさん。

それでも、8月になると観光シーズンで、人が増えてきて予約も取れなくなる。キャンセル待ちもしたけれど結局キャンセルは出なかった。本当に本当に帰りたくなかったけれど、仕方なかった。
出発前夜、パーティーで仲間と「夢をあきらめないで」を歌って号泣した。出発の直前、ゆずの「夏色」を歌って号泣した。船のタラップを昇るときも、島に残る人たちに見送られるときもずっとずっと泣いていた。別れの寂しさと、出会いへの感謝が混ざって飽和していた。

そして、泣きながら、内地でもなんとか生きてみよう、と思っていた。

出発直前の集合写真。二列目やや左にいる茶髪のチャラいのが荒木です。
もちろん、小笠原に行ったことだけで、死にたかった思いが全て解消された訳ではない。その後も何度となく壁にぶち当たり、心折れそうになり、押しつぶされそうになり、無力感に襲われ、生まれてこなければよかったと思い、もう終わりにしたいと思った。それでも旅に出たり、旅から学んだことを反芻したり、旅仲間に再会したりして、生きていてよかったと思えるレベルまで持ち直してきた。


あのとき、おがさわら丸に乗る勇気がなかったら、きっと今わたしはここにいないだろう。いや、あれは勇気じゃなかったな。なんのきっかけもなく死ぬのが恐いから、試してみたくなったのかもしれないし、なげやりになっていたのかもしれない。もっと大きななにかに導かれていたのかもしれない。逃げる場所をさがしていたのかもしれない。

一人旅をする習慣のない人からは、勇気や行動力があるねと、言われることが多いけれど、わたしはそんなもの持っていない。臆病で、ものぐさで怠惰だ。わたしにとって旅とはあまりに息苦しく理不尽な圧力と規範とルールから逃げるためのものなのだろう。逃避と言ってもらっても構わない。

わたしにはたぶん、それしか残されていないのだ。だからやむにやまれず旅に出る。それだけのことだ。




東京に戻ってからも何回か、高校には顔を出したけど、つまらない学校生活について行く気がないのを確かめただけだった。友達に会えたのは嬉しかったけれど。あの頃、友達は学校に来ない荒木がどっかの島に行ったらしいとか捜索願が出たらしいとか、断片的な情報を伝え聞いていたらしい。

そして高校3年の3月、学校に呼び出された。
成績会議の結果、卒業は認められず、原級留置だと伝えられた。担任はその理由として、「小笠原に行く元気があったら学校に来られたんじゃないか」と説明した。やっぱり教師はなにも分かっちゃいないんだ。そもそも卒業するつもりもないし、わたしは鼻で笑ったが、議論もせず、そんな学校なら辞めてやると思って退学届を出した。

同級生はわたしの名前が卒業生名簿にないことに気付き、はじめて卒業しなかったことを知ったという。それから数年後の同窓会、わたしは最後まで行こうかどうか迷っていたが、顔を出して友達と再会し、それから高校の同級生の一部とは今でも仲良くやっている。





死にたかった頃のこと、なんて書くと、そんなネガティブなことを、と思う方がいるかもしれない。

でも、ものごとを「ポジティブ」と「ネガティブ」に分けて、後者を覆い隠そうとすることもまた、ひとつの圧力なのではないか、と思う。生産的で、元気で、活発で、生きることに無条件の価値を置くような、「前向き」なことばかりを求める一方で、死を肯定することや、悲しみや苦しみに向かわせることを封殺しようとするような言説も、わたしには息苦しく見える。

ときに人は「死にたい」と思うほど苦しい思いをすることも真実だ。そんなとき、「ポジティブ」と「ネガティブ」の二項対立の思考は、いたずらに「ネガティブ」の側の思考・感情・言葉を抹殺するようなものであり不誠実なものに見えるし、それが苦しむ人の声を沈黙させるとき、「誰も分かってくれない」という孤立感を深めることになるのではないかと思う。辛いことも元気じゃないことも、ひとつひとつがそのまま真実で、かけがえなのい、自然の発露だと思うし、意味のあることだと思う。

だからわたしは挨拶のとき、「元気?」とは聞かないことにしている。「元気です」という答えを期待したその問いかけは、「元気」であることへの圧力のように感じるからだ。元気じゃないとか、辛い、苦しい、死にたい、と安心して言えれば、少しは息苦しさに風穴を空けることもできるのではないかと思う。

元気じゃなくてもいいと、以前に書いたこともあった。死にたいと思うことを認めること、が大事だとも、ちょっと前に書いた。わたしは「ネガティブ」なことを安心して言えるような場所をつくりたいな、と思っている。

わたし自身、自分が死にたいと思っていたことを、ちゃんと言葉にして言えるようになったのはつい最近のことだ。自分の生きづらさの原因が子どもの頃の経験につながっていたことに気付き、それを言語化できたことが大きかったのだが、わたし自身もまた、「ポジティブ」と「ネガティブ」の二分法を知らず知らずのうちに身に付けてしまっていたからかもしれない。



わたしたちを取り巻く無言のプレッシャー、圧力、規範は山ほどあるけれど、そのまっただ中にいるとそれらの存在に気付くことはむずかしい。日本を出てから日本社会の息苦しさに気付く人も多いでしょう。
17歳だったわたしがいかに「普通」の生き方に縛られて苦しんでいたかに気付いたのも、「普通」の世界を脱出して小笠原にたどり着いたからだった。旅をすると、わたしたちが無意識のうちに身に付けてしまった価値観とは離れた価値観に出会うことで、自らの無意識の価値観の方をあぶり出してくれるのだ。

旅に出るのに理由なんていらない。でもね、もし理由のわからない生きづらさに悩んでいる人がいたら、旅に出てみてはどうだろうか。パックツアーだとか、観光地めぐりみたいなつまらない旅行ではなくて、まだ見たことのない景色、出会ったことのない人びとに出会えば、ちょっと引いた地点から自分が見えてくるかもしれない。

学校とか家族とか仕事とか、そんなことはどうにでもなるからさ。捜索願が出るとか、誰かが心配するとか、出席が足りないなんて、ぜんぜん大した問題じゃないと、旅は教えてくれるでしょう。迷惑掛けたっていいじゃない。どんなに無責任になったって、本当に大切なひとなら、決して見捨てたりはしない。他人のご機嫌を伺いながら生きるより、自分が幸せになることを選んだらいいんじゃないかと思う。義務とか責任とかよりも、人生にはもっと大切なものがあるのだから。きっと。。。



あれから何度も小笠原には行っているし、国内も海外も含めていろいろな旅をしてきた。だけど17歳の夏のような、心のぜんぶが漂白されるような、新しい命を受け取ったような、あれほどまで楽しくて刺激的な旅はなかった。文字通りの「最高」の旅は、あの一度きりだ。あの時出会った人びとには、本当に感謝している。

たぶんもう、人生をひっくり返すような旅は、今後ないだろう。今度はきっと、誰かの人生をひっくり返す番だと思っている。それがわたしにできる恩返しだから。

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