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一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2017年3月24日金曜日

元気じゃなくてもいいじゃない

 ひさびさに友達に会ったとき、「元気だった?」と聞くことが多い。手紙の書き出しも、深く考えることなく「お元気ですか」と書いてしまう。
 大切な友達(友達はすべて大切である)には元気でいてほしいとおもう。健康で病気なく過ごしていてくれたらうれしい。逆に、元気がなければ心配だし、なんとかしてあげたいと思う。


 だけどね。
 人には、元気になれないときがある。

 そんなときに届く「元気ですか」という悪気のない問いは、元気のなさに罪悪感をおぼえさせる。元気にならなくてはいけない、という圧力になる。
 それは、理想の押しつけという、ひとつの暴力になりかねない。


 元気じゃなくてもいいじゃない、と、わたしは思うのだ。


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 一般的に使われる「元気」には、①病気がなく、健康でいることという意味と、②「元気な人」という時に使われるような、性格としての意味がある、と思う。実は他にもあるが、ここでは関係ないので省略。


 そして私は、どちらの意味にしても、元気である必要などないと思うのだ。

 まずは、1つ目の意味。

 私だってできれば病気にはなりたくない。健康でいたい。
 しかし病気になることだって意味のあることなのだと思う。

 病気になると、元気がなくなる。実はこれって大切なことなのだ。
 たとえば、風邪を引く。熱が出る。咳やくしゃみが出る。頭が痛い。ぼーっとする。身体がだるい。
 これらは身体が病原体と闘おうとしているから出るものであって、いわば、治るために出る症状である。咳やくしゃみは異物を外に出すためだし。熱が出るのは免疫を賦活して、ウィルスを死滅させるため。身体がだるかったりぼーっとするのは、不必要に身体や頭を動かしてエネルギーを消費してしまわないためだったりする。
 だから解熱剤を飲んだり冷えピタを貼って無理に熱を下げたりとか、風邪薬を飲んで症状を抑えてはいけない。
 「元気になろう」として無理をすると、かえって体力を消耗して寿命を削ってしまうかも。。。

 最近、このブログに辛かった青春時代のことを書いた。17歳の荒木は、ぜんぜん元気じゃなかった。それも、たぶん意味のあることだったのだと思う。他人の痛みを知るために。家族との関係を見直すために。自分の生き方を見直すために。
 その痛みと真摯にむきあうことで、わたしは成長していまの自分になったのだと思う。


 どんなに頑張っても元気になれないときがある。
 そんなとき、「元気になってね」という言葉は、どんなに善意に満ちた言葉であったとしても、さらなる負担を迫る。白々しささえ感じてしまう。努力すれば元気になれるかのような言い方。努力に努力を重ねさせる。そして、元気になるには努力が足りないような。
 人は、元気を失いたくて失うのではない。そして、その回復は、したくてもできるわけではない。「がんばれ、怠けるな」と迫る。元気になれない人に、それが、どれだけ負担になることか。。。
 元気になることが大切だという、、強引にいえば「元気至上主義」みたいな考え方は、元気になるべきだと要求する。そして、元気ではない現状との乖離に悩むのだ。

 元気ですか?という問いは、どこか成果主義的で、自己責任論の匂いがする。

 もちろん、元気であれと迫るのは、外からの働きかけばかりではない。「元気至上主義」みたいな社会的な規範を人は身に付けるから、「元気にならなきゃ」と思う。
 だけど、○○しなきゃ、というのも、(自分に対する)命令でしかない。自分の意思でコントロールできないものを命令する。自分への暴力。

 元気じゃなければ治るまでじっくり時間をかけて休むなり、辛さと向き合うなりすればいいのになぁ。元気じゃないときもある。それが人生だもの。

 そして、元気じゃない人にたいして、周りにいる人は、励ましたり元気づけたりしようとせず、ただそっと寄り添うことも必要ではないかと思うのだ。


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②元気な人。

 明るくて、活発な人は、目立つし、なんだか輝いて見える。元気な人の対極にあるのは、内気で、引っ込み思案で、人見知りで、陰気で、、、あぁなんだか私のことみたいだ。

 だけど理想の性格とか、人はこうあるべきとか、そんな姿が果たしてあるのだろうか。。それは、人の多様性への尊重を欠いた暴力ではないのか。



 理想の性格を社会的に設定することが変容を迫る暴力であることに加えて、社会は「元気でない人」にたいして過小評価している。


 ご存知の方も多いと思うが、スーザン・ケインという作家が、元気じゃない人……厳密にいえばちょっと違って、内向的な人の能力に関する本を出している。彼女はユングのintrovert/extrovert(内向的・外向的)という概念を用いて、内向的な人間がいかなる優れた能力を秘めていて、かつ社会的に低く評価されているかを丹念に調べ上げて纏めている。以下のTEDトークが有名だが、まだご覧になったことがなければぜひ見てほしい。私もブログで以前、紹介したことがあったと思う。



 外向的な人というのは、他人と積極的に関わり、会話をすることが得意で、人とすぐに打ち解けあい、パーティーとか飲み会で騒いだりするタイプ。関心を引くことが得意で、自己アピールが上手。
 内向的な人というのは、1人でいることを好み、広くて浅い付き合いより狭くても深い付き合いをすることを好み、喋るよりも書くことが得意。パーティーとか大人数の飲み会は苦手でサシ飲みがいい。喋る前に考える。人が多いところは疲れてしまう。(でも決して人が嫌いとか、そういうわけではない)
 (もちろん人は白黒の2つに分けられるわけではないが、指標として。)
「ぜひ行きたいんだけど、今夜は予定が・・・」
(引用元はこちら


 外向的な人は自分の能力を上手く伝えられるし、目立つのでリーダーにされることが多い。セールスマンとかに向いているタイプ。
 一方で内向的な人は、孤独な環境で着実に仕事を進めるタイプ。寡黙なうちに多くのことを考えるし、人と話す間も周囲で起きていることを意識している。
「それでね、…ねぇ、ちょっと聞いてる?」
「うん、ごめん、色んな事が起こってて…」


 別に、どっちが優れているとかじゃない。リンカーンやザッカーバーグ、S.スピルバーグ、アインシュタイン、アル・ゴア、ビル・ゲイツなど、内向型にも優れた人はたくさんいる。日本人なら、宮崎駿さんや村上陽一郎先生は典型的な内向型だろう。彼らは一見すると寡黙で、目立たない。


 目に見えてわかる能力だけで、人のことを判断するのは早計だ。

 人と喋るのが苦手でも、自分のことを上手く伝えられなくても、人見知りでも、、そのために周りの人に評価されなくても、劣等感を感じる必要などないのだ。まして、体力を浪費してまで元気な人を振る舞う必要などないのだ。




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 自立とは、自分でなんでもできるようになることではなくて、自分のできることを精一杯やって、自分のできないことや苦手なことは、周囲のそれが得意な人にやってもらって、支えながら生きていけるようになることではないか、と思う。
 (ってこないだ飲みながら友達と喋っていたら思い至ったんだけど、ほとんど同じことがこの本にも書いてあった!)

 自分にできないことに悩んでくよくよしたり無力感を感じる必要はなくて、色んな人が持っている色んな能力を活かして支え合って生きていける社会っていいなって思う。そして、能力を持っていない人(言うまでもなく、これはその人の責任ではない)のことも助けつつ生きるのが理想の社会だと思う。

 前に「無力感の正体」というのを書いたけど、あわせて読んでいただけるとうれしいです。


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 元気じゃなくてもいい。元気のなさになやむ必要もない。
 同時に、元気であることを、ひとに迫ることも慎みたいと思う。

 人は平等であるならば、
 人は、何かができるからとか、何かを達成したから、価値があるとか、存在意義があるわけではないだろう。なにもできない人、しない人にたいしても優しくしたい。
 そして、何かをしたり、できたりすることを、人に要求しないでいたい。






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おまけ

外向的な人と内向的な人のあたまのちがいを示したイラスト。


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