中島敦「小笠原紀行」を読む③


   この少年を伴ひて裏山にのぼる

この島の山の案内(あない)をせむといふ少年の名を問へばロバァト
灌木を分けて巌根(いはね)を攀ぢ行けば汗流れたりロバァトも我も
上衣脱ぎ手に持ち行けど汗しとゞにじみて来るも三月といふに
メリメ書くコルシカの山も思はるゝ日は豊なれど岩の峻(こご)しさ
岩畳のぼりのぼりて要塞の鉄条網に行当りたり
大き雲過ぎ行くなべに岩山も斜面(なだり)の椰子もしまし翳りつ
真日わたり南国(みなみ)の空に雲なくて見入ればしんしんと深き色かも
山峡(やまかひ)の谷に家あり家裏に豚飼ひにけりバナナも植ゑつ
豚の背に銀蠅あまた唸りゐてバナナ畠に陽はうらゝなり


小笠原の山は険しい。海も深い。深い海から突然現れた岩の塊みたい。海底火山の爆発で生まれたのだから、当然といえば当然だが、岩山ばかりである。といっても面積は屋久島の20分の1くらいだから、山深い、という訳ではないのだが。
父島は当時から要塞化されていたが、太平洋戦争時には更に軍備が進み、昭和19年には島民が疎開。よって島には今も戦争遺跡が多く残されている。だが、硫黄島の陥落によって米軍の本土攻撃が可能になったため、そこまでの激戦地ではなかったらしい。
島では何種類かのバナナが栽培されているけど、キングバナナは絶品です。
↑この岩は朝立岩といって、あの、えっと、、、、なんでもありません。。。。




   以下五首 大村街上所見
僧衣著(ころもけ)す僧が竿もて木瓜(パパイヤ)の実をとりにけり立ちて食(を)しけり
小笠原支庁の庭に椰子伸びて島の役所の事無げに見ゆ
みんなみの島の理髪店(とこや)の昼永くうつらうつらとひげ剃らせけり
父島の二見細江の渚べに赤ら眼河豚が打ちあがりゐる
午後(ひるすぎ)の石垣の上に尾の切れし石竜子(とかげ)を見たり金緑の背(せな)

この舞台の大村が昔から一番大きな集落で、役所などがある。
「赤ら眼河豚」が何を指すかは不明。なんだろう。。。
ここで書かれている石竜子は固有種で天然記念物のオガサワラトカゲを指す。金色の背中で、結構かわいい。最近ではあまり見かけなくなってしまった。

   捕鯨船なりといふが北方に進み行くを見る
いすくはし鯨魚(くぢら)漁(いさ)ると父島の海人(あま)の猛夫(たけを)ら今船出する
白浪の恐(かしこ)き海を鯨船巌の門過ぎて漕ぎ行くが見ゆ
ザトウクジラが冬から春先にかけて、マッコウクジラが7,8月に、それぞれ島の近くにやってくる。島ではホエールウォッチングが楽しめる。かつては捕鯨が行われていたが、今では島ではやってません。



夕の椰子の歌
 薄暮大村より南方に通ずる峠を上る、峠を越ゆれば即ち、見はろかす巉岩(ざんがん)の累積の彼方、昏れ行く太平洋の渺淼(べうべう)たるを見る。巉岩の傾斜のところどころ椰子樹佇立して夕風に鳴る、わがかたはらにも亦一本あり
夕されば孤島に寄する波の音岩の上にてひとり聞きたり
岩の上に夕潮騒を聞き立てる一本(ひともと)椰子の葉ずれ寂しも
潮騒のやゝに離(さか)れば荒磯辺(ありそべ)の青枯椰子も眠りに入るか
夕坂を籠もつ翁のぼり来て内地の人かと慇懃に問ふ
八丈より移りてここに五十年(いそとせ)を乏しき土に生くるとふ翁
五十年の生きの寂しさしみじみと翁は嘆く椰子の下にして

大村から南に進むことは出来ないから、おそらく大根山か三日月山のあたりを指すのだろう。いずれも太平洋に沈む夕日を眺めることが出来る。
島に移り住んだ日本人も、もとは八丈や青ヶ島の人間が多い。だから島では微妙に八丈方言の交じった言葉が話されていたりもする。
ところで、島で過ごしていると、今でも人工の音が少ない。エンジンとスピーカーが発明される前は、人々はこんな音を聞いて過ごしていたのかな、と思うことがしばしばだ。特に夜、星を眺めながら、波の音と葉擦れの音だけが響く浜辺で、寝っ転がって考え事などをしていると、島ではサウンドスケープまでが別世界なのだと気付くのだ。


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