シヤツ・ナブ『セエデク民族』
本屋に入ってみると、これは自分のためにここに存在しているのではないか、と思える本に出会うことがある。
シヤツ・ナブ『セエデク民族』(台灣東亞歷史資源交流協會、2015年)もそのひとつ。
「セエデク民族」とは台湾高地の先住民族であるセデック族のことで、映画『セデック・バレ』に取り上げられた霧社事件で有名だ。
霧社事件は一言で言えば、日本統治下の台湾で起こった先住民族による反乱だ。詳しくはWikipediaを読んでいただければわかるが、とある警官の殴打事件をきっかけにセデック族の有志が蜂起し、日本人を標的に百数十人を殺害した。
この事件は後になって英雄譚として取り上げられる。戦後台湾にやってきた国民党政権は日本統治時代を徹底的に否定する(その典型例として現れるのが二・二八事件などにみられる日本政府に教育を受けたエリート層の徹底的な弾圧である)。国民党政府にとって霧社事件は悪しき日本統治への対抗の象徴であるから、プロパガンダの材料としては都合がいいものだ。
一方で最近では、ポストコロニアルな文脈で、つまり先住民族の尊重という意味合いでも取り上げられる。セデックは2008年に台湾政府から公式に14番目の先住民として認定された。その政治性はともかくして、かれらの復権、そして伝統の尊重という意味合いが込められているのだろう。
しかし理解されたいのは、一般的に、台湾人の屈曲したアイデンティティがあるからこそ、この物語は意味を持つ、ということだ。
1895年から半世紀に亘る日本統治の、後期に高等教育を受けた世代(特にエリート)は日本語で思考をし、日本語を母語とする人たちだったのだ(だから戦後国民党による弾圧を受けた)。つまり彼らの自己認識は「日本人」であった。それが終戦を機に「中国人」あるいは「台湾人」に変容する。終戦を期に、台湾人の自己認識は一転せざるを得なかったのだ。でも、人の帰属意識なんて、そう簡単に変えられるものだろうか?そこに、台湾人のアイデンティティの曖昧さがあった。
現在でも宙づり状体のアイデンティティは残っているのかも知れない。大陸の中国との対比として、つまり否定でしか「台湾人」を定義できないという状態が、「中途半端な日本人」というアイデンティティに取って代わっただけで。。。
じじつ、映画『セデック・バレ』が制作された背景に、ポストコロニアルの文脈のほかに、大陸への反発が見て取れる。台湾の独立志向のナショナリズムを喚起することは同時に共産党へ接近しようとする現在の国民党政府への牽制とも考えられるのだ。中国人ではない台湾人としての自己意識を覚醒させることができるからだ。
ところで更に話をややこしくするようで恐縮だが、『セデック・バレ』に出演していた馬 志翔は「KANO 1931海の向こうの甲子園」の監督でもある。KANOは、今度は日本統治時代の美談であるが、これも日本に接近することで大陸側と距離を取ろうとするナショナリズムの現れである、という解釈も存在する。抗日も親日も反中国になりうるのだから、これはもう、何重にも捩れている。。。
前置きが長くなったが、『セエデク民族』はセデック人のシヤツ・ナブ牧師(日本名:原田信二、漢名:高徳明)牧師が日本語で書き下ろした、セデック人が語る物語だ。彼も日本語で育った世代なのである。
セデック人がどのようにその場所にやってきたのかという伝承から始まり、他民族やセデック内部での分離や対立の様子が語られ、その中に霧社事件が位置づけられるのは『セデック・バレ』のような英雄譚とはまた異なった歴史認識だ。
さらに重要なのが、霧社事件が、ある男が美しい娘に恋をして起きた離縁問題に端を発しているという婦人の噂が書かれていたり、民族分裂の原因が誰かが誰かをからかっただとか噂話だとか人間くさい話が書かれていることだ。真偽は確かめようがないが、映画や歴史学的な「大きな物語」には決して描かれることのない「小さな物語」が、セデック人の口から語られる、というのはきわめて重要だ。
シヤツ・ナブ自身が牧師であることから、罪を悔い改め、団結して神に帰依することの大切さが説かれてて、彼の語りは終わる。
そう、彼にとっては霧社事件は誇りではなくて、民族の持つ罪なのだ。民族が分裂し、憎み合って、血を流す結果となった。日本人みんなが敵であったのでもなく、日本人の牧師や医者には好感を抱き、絆を築いていた彼らにとって、抗日の英雄、独立運動の英雄としてセデックを捕らえることは、傷に塩を塗ることでしかないのかもしれない。
大きな物語を描くとき、そこに生きた個人の物語は埋没する。
学問にしろ映画にしろ、解釈を加えることは、私的領域を侵犯し、削除しようとする、ひとつの暴力なのかも知れない。
だから、こうしてセデックが自らの物語として霧社事件をとらえなおすことは、大きな意味がある。解釈の中に失われた自我を取り戻すのだから。
結論のない書評になってしまった。ところで最近では『断片的なものの社会学』が売れた。小さな物語を掘り起こし、個人の紡ぐ語りに寄り添う意味が見直されているのかもしれない。。。
********************
この本は西荻窪の忘日舎という書店でたまたま見つけました。出版元に問い合わせれば手に入るかもしれません。
シヤツ・ナブ『セエデク民族』(台灣東亞歷史資源交流協會、2015年)もそのひとつ。
「セエデク民族」とは台湾高地の先住民族であるセデック族のことで、映画『セデック・バレ』に取り上げられた霧社事件で有名だ。
霧社事件は一言で言えば、日本統治下の台湾で起こった先住民族による反乱だ。詳しくはWikipediaを読んでいただければわかるが、とある警官の殴打事件をきっかけにセデック族の有志が蜂起し、日本人を標的に百数十人を殺害した。
この事件は後になって英雄譚として取り上げられる。戦後台湾にやってきた国民党政権は日本統治時代を徹底的に否定する(その典型例として現れるのが二・二八事件などにみられる日本政府に教育を受けたエリート層の徹底的な弾圧である)。国民党政府にとって霧社事件は悪しき日本統治への対抗の象徴であるから、プロパガンダの材料としては都合がいいものだ。
一方で最近では、ポストコロニアルな文脈で、つまり先住民族の尊重という意味合いでも取り上げられる。セデックは2008年に台湾政府から公式に14番目の先住民として認定された。その政治性はともかくして、かれらの復権、そして伝統の尊重という意味合いが込められているのだろう。
しかし理解されたいのは、一般的に、台湾人の屈曲したアイデンティティがあるからこそ、この物語は意味を持つ、ということだ。
1895年から半世紀に亘る日本統治の、後期に高等教育を受けた世代(特にエリート)は日本語で思考をし、日本語を母語とする人たちだったのだ(だから戦後国民党による弾圧を受けた)。つまり彼らの自己認識は「日本人」であった。それが終戦を機に「中国人」あるいは「台湾人」に変容する。終戦を期に、台湾人の自己認識は一転せざるを得なかったのだ。でも、人の帰属意識なんて、そう簡単に変えられるものだろうか?そこに、台湾人のアイデンティティの曖昧さがあった。
現在でも宙づり状体のアイデンティティは残っているのかも知れない。大陸の中国との対比として、つまり否定でしか「台湾人」を定義できないという状態が、「中途半端な日本人」というアイデンティティに取って代わっただけで。。。
じじつ、映画『セデック・バレ』が制作された背景に、ポストコロニアルの文脈のほかに、大陸への反発が見て取れる。台湾の独立志向のナショナリズムを喚起することは同時に共産党へ接近しようとする現在の国民党政府への牽制とも考えられるのだ。中国人ではない台湾人としての自己意識を覚醒させることができるからだ。
ところで更に話をややこしくするようで恐縮だが、『セデック・バレ』に出演していた馬 志翔は「KANO 1931海の向こうの甲子園」の監督でもある。KANOは、今度は日本統治時代の美談であるが、これも日本に接近することで大陸側と距離を取ろうとするナショナリズムの現れである、という解釈も存在する。抗日も親日も反中国になりうるのだから、これはもう、何重にも捩れている。。。
前置きが長くなったが、『セエデク民族』はセデック人のシヤツ・ナブ牧師(日本名:原田信二、漢名:高徳明)牧師が日本語で書き下ろした、セデック人が語る物語だ。彼も日本語で育った世代なのである。
セデック人がどのようにその場所にやってきたのかという伝承から始まり、他民族やセデック内部での分離や対立の様子が語られ、その中に霧社事件が位置づけられるのは『セデック・バレ』のような英雄譚とはまた異なった歴史認識だ。
さらに重要なのが、霧社事件が、ある男が美しい娘に恋をして起きた離縁問題に端を発しているという婦人の噂が書かれていたり、民族分裂の原因が誰かが誰かをからかっただとか噂話だとか人間くさい話が書かれていることだ。真偽は確かめようがないが、映画や歴史学的な「大きな物語」には決して描かれることのない「小さな物語」が、セデック人の口から語られる、というのはきわめて重要だ。
シヤツ・ナブ自身が牧師であることから、罪を悔い改め、団結して神に帰依することの大切さが説かれてて、彼の語りは終わる。
そう、彼にとっては霧社事件は誇りではなくて、民族の持つ罪なのだ。民族が分裂し、憎み合って、血を流す結果となった。日本人みんなが敵であったのでもなく、日本人の牧師や医者には好感を抱き、絆を築いていた彼らにとって、抗日の英雄、独立運動の英雄としてセデックを捕らえることは、傷に塩を塗ることでしかないのかもしれない。
大きな物語を描くとき、そこに生きた個人の物語は埋没する。
学問にしろ映画にしろ、解釈を加えることは、私的領域を侵犯し、削除しようとする、ひとつの暴力なのかも知れない。
だから、こうしてセデックが自らの物語として霧社事件をとらえなおすことは、大きな意味がある。解釈の中に失われた自我を取り戻すのだから。
結論のない書評になってしまった。ところで最近では『断片的なものの社会学』が売れた。小さな物語を掘り起こし、個人の紡ぐ語りに寄り添う意味が見直されているのかもしれない。。。
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この本は西荻窪の忘日舎という書店でたまたま見つけました。出版元に問い合わせれば手に入るかもしれません。
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