中島敦「小笠原紀行」を読む①
去年の暮れだったか、中島敦が小笠原に関する短歌を100首近く残している、という主旨の記事を書いた。
今年三月の小笠原での滞在中は結局、中島にかんする情報はなにも得られなかったのだが、せっかくのなので中島敦「小笠原紀行」を何回かに分けて詳しく紹介してみようと思う。
中島が小笠原を旅したのは昭和11(1936)年。3月23日朝7時に霊岸島(いまの新川)を出帆し、翌日に八丈・青ヶ島を経て、翌々日朝8:50に父島二見港に入港した。その日に奥村、農業試験場、奥村帰化人部落を見学して夜八時に船に戻り、翌26日未明に出帆したと手帳には記録されている。帰りには八丈に上陸し、28日午前に沼津港から自宅の横浜に帰ったらしい。小笠原にいたのは一日だけだが、北原白秋の歌とはまた違う、眩しい小笠原の日差しが中島の歌から反射してくるような、鮮明な印象が詠み込まれている。
当然、著作権は切れているのだが、青空文庫にも所収されていないので、ここではちくま文庫版『中島敦全集 Ⅰ』を底本として書き起こす。
はじめは航海中の光景が続きます。
大正初期から昭和20年まで、小笠原航路は東海汽船の船がいくつか定期的に運航していたらしい。中島が乗ったのは橘丸(おそらく2代目)。丸二日かけて島についているが、現在はその半分の25時間半(今夏には24時間になる)で島に着けてしまうのだから、相当の進歩だ。
八丈島も青ヶ島も私はいったことがない。八丈島と隣接する八丈小島の瀬戸の流れを詠んでいるが、現在には臨時便を除いて八丈に寄港することはないのでこの様子は小笠原航路では見られない。ちなみに当時は八丈小島は有人島だったらしい。
青ヶ島は現在でも接岸しづらいことで有名で、条件付き出航だけと接岸できずに目前で引き返す、ということもしばしばだとか。青ヶ島はその出で立ちから、どこに人が住めるのか、と思うような起伏に富んだ島である。島と言うより、海の上に降ってわいた切り立った崖の塊という感じ。
今でも25時間半掛かるのだから、やることといったら酒を飲むか海を見ているかしかない。波を見ている内に地獄の青鬼が眼の中に躍るような錯覚に陥るのも無理はないし、アホウドリに悲しさを覚えることもあるかもしれない。。
アホウドリも戦前は、伊豆や小笠原を含む日本各地に生息していた。アホウドリはその名の由来であるように警戒心が非常に弱く、捕獲が容易であった。したがって、食肉や羽毛のために乱獲の対象になり、絶滅寸前にまで陥った。今では日本でも鳥島と尖閣諸島にしか生息しておらず、それを小笠原諸島の聟島に移住させる計画も順調に遂行されている。
さて、ようやくここで小笠原に到達する。
兄島は父島の真北にある島で、当時は人も住んでいたはず。小笠原には固有種(つまり小笠原にしかない種類)のノヤシという椰子がある。ココ椰子も街路樹として移入されているが、中島が見たのがココ椰子なのかノヤシなのかは不明。
小笠原の、少し緑がかった深い青の独特の海の色は、いまではボニンブルーと言われている。「二見」は父島の一番大きな湾で、港がある。
小笠原のトマトは美味しい。戦前からトマトが栽培されていたことは知らなかったが、旬は今も三月はトマトの時期で、農協にはトマトを買い求める人の行列ができる。今は味の濃いミニトマトが人気だが、桃太郎などの普通のトマトも美味しいですよ。椰子の葉には包んでくれないけど。。。
三月でも最高気温は20°Cくらいにはなるので、たしかに水無月くらいの陽気かもしれない。特に病弱で南方に転地療養した中島にとって、小笠原の気候は天国だったのかもしれない。
前にも書いたが、街の大通りはかつて、舗装されずに珊瑚の屑で覆われていた。現在も、街から一番近い海岸(大村海岸、前浜)や製氷海岸は珊瑚の屑が山積みだが、それが町中にもあったのだ。いまは、「珊瑚通り」という歌だけが、当時の様子を伝えている。
つづきます。。。
今年三月の小笠原での滞在中は結局、中島にかんする情報はなにも得られなかったのだが、せっかくのなので中島敦「小笠原紀行」を何回かに分けて詳しく紹介してみようと思う。
中島が小笠原を旅したのは昭和11(1936)年。3月23日朝7時に霊岸島(いまの新川)を出帆し、翌日に八丈・青ヶ島を経て、翌々日朝8:50に父島二見港に入港した。その日に奥村、農業試験場、奥村帰化人部落を見学して夜八時に船に戻り、翌26日未明に出帆したと手帳には記録されている。帰りには八丈に上陸し、28日午前に沼津港から自宅の横浜に帰ったらしい。小笠原にいたのは一日だけだが、北原白秋の歌とはまた違う、眩しい小笠原の日差しが中島の歌から反射してくるような、鮮明な印象が詠み込まれている。
当然、著作権は切れているのだが、青空文庫にも所収されていないので、ここではちくま文庫版『中島敦全集 Ⅰ』を底本として書き起こす。
はじめは航海中の光景が続きます。
二日目の朝八丈を過ぐ
八丈と小島の水門(みと)の潮疾く青鯖色に激(たぎ)ちさやぐも
青ヶ島を望む 六首
岩岫(いはくき)に波たち煙り青ヶ島風しまく間(と)に峻嶮(こご)しくを見ゆ
舟がかりせむすべもなし岩崩(いはくえ)に波捲き返り霧けぶり立つ
八丈の南二十里青鱶の棲むとふ海の荒き島かも
褶(ひだ)深き赭土崖の上にして青草生えぬ乏しかれども
岩垣の岩片がくれかつがつも道あるが如し人住むといふを
岩崩す荒き島根も人らゐて道をつくると訊けば哀しき
大正初期から昭和20年まで、小笠原航路は東海汽船の船がいくつか定期的に運航していたらしい。中島が乗ったのは橘丸(おそらく2代目)。丸二日かけて島についているが、現在はその半分の25時間半(今夏には24時間になる)で島に着けてしまうのだから、相当の進歩だ。
八丈島も青ヶ島も私はいったことがない。八丈島と隣接する八丈小島の瀬戸の流れを詠んでいるが、現在には臨時便を除いて八丈に寄港することはないのでこの様子は小笠原航路では見られない。ちなみに当時は八丈小島は有人島だったらしい。
青ヶ島は現在でも接岸しづらいことで有名で、条件付き出航だけと接岸できずに目前で引き返す、ということもしばしばだとか。青ヶ島はその出で立ちから、どこに人が住めるのか、と思うような起伏に富んだ島である。島と言うより、海の上に降ってわいた切り立った崖の塊という感じ。
朝暾破雲
わたつみの大東(おほひんがし)の五百重雲あからみ裂けて日は出でむとす
白たへの甲板の上に人集ひうづの朝日子をらがみてゐる
ひたすらに南航
南東風さと吹きくれば海の上皺立ち千々にきらゝけきかも
久方の空に光はみなぎらひ明るき海を白き汽船行く
みんなみの陽光(ひかり)うらうらとわたつみの円(まろ)く明るく満ち膨れゐる
目くるめく海の青さや地獄なる紺青鬼狂い眼内(めぬち)に躍る
午後三時雲やゝ出でて海の上一ところ白し軽きローリング
薄暮信天翁を見る
夕ぐるゝ南の海のはてにして我が思ふことは寂しかりけり
夕昏(ゆふぐ)るゝ南の海のさびしさを信天翁とぶ翼(はね)の大きさ
信天翁大き弧を画きとび来りまた飛びて去る夕雲とほく
日を一日(ひとひ)飛び疲れけむ信天翁しまし憩ふと浪に揺れゐる
夕浪に憩ひ揺るゝと黙(もだ)もゐるあはうどりといふものの愛(かな)しき
阿呆鳥と人いふめれど夕遠く飛ぶをし見ればうらがなし鳥
汝天を信ぜむとするか信天翁思ふことなく飛びゐる羨(とも)し
汝天を信ぜむとするか信天翁醜(しこ)の末世の懐疑者(ピロニスト)われは
今でも25時間半掛かるのだから、やることといったら酒を飲むか海を見ているかしかない。波を見ている内に地獄の青鬼が眼の中に躍るような錯覚に陥るのも無理はないし、アホウドリに悲しさを覚えることもあるかもしれない。。
アホウドリも戦前は、伊豆や小笠原を含む日本各地に生息していた。アホウドリはその名の由来であるように警戒心が非常に弱く、捕獲が容易であった。したがって、食肉や羽毛のために乱獲の対象になり、絶滅寸前にまで陥った。今では日本でも鳥島と尖閣諸島にしか生息しておらず、それを小笠原諸島の聟島に移住させる計画も順調に遂行されている。
さて、ようやくここで小笠原に到達する。
三日目の朝
日や出でし海の上(へ)の濛(もや)金緑にひかり烟らい動かんとする
兄島を榜(こ)ぎ回(た)み行けばちゝのみの父島見えつ朝明(あさけ)の海に
二日二夜南に榜ぎてココ椰子のさやぐ浦廻(うらわ)に船泊(は)てにけり
みんなみの浦に汽船(ふね)泊て白き船腹(はら)ゆ吐き出す水に小さき虹立つ
うす緑二見の浦の水清み船底透いて揺れ歪み見ゆ
群青と緑こき交ぜ透く水に寄り来し艀舟(はしけ)揺られてゐるを
兄島は父島の真北にある島で、当時は人も住んでいたはず。小笠原には固有種(つまり小笠原にしかない種類)のノヤシという椰子がある。ココ椰子も街路樹として移入されているが、中島が見たのがココ椰子なのかノヤシなのかは不明。
小笠原の、少し緑がかった深い青の独特の海の色は、いまではボニンブルーと言われている。「二見」は父島の一番大きな湾で、港がある。
小笠原の弥生はトマト赤らみて青水無月の心地こそすれ
父島にトマトを買へば椰子の葉に包みてくれし音のゆゝしさ
トマト提げてわが行く道は乾きたり測候所の白き屋根も見えくる
この道に白きは珊瑚の屑といふ海伝ひ行き踏めば音する
小笠原のトマトは美味しい。戦前からトマトが栽培されていたことは知らなかったが、旬は今も三月はトマトの時期で、農協にはトマトを買い求める人の行列ができる。今は味の濃いミニトマトが人気だが、桃太郎などの普通のトマトも美味しいですよ。椰子の葉には包んでくれないけど。。。
三月でも最高気温は20°Cくらいにはなるので、たしかに水無月くらいの陽気かもしれない。特に病弱で南方に転地療養した中島にとって、小笠原の気候は天国だったのかもしれない。
前にも書いたが、街の大通りはかつて、舗装されずに珊瑚の屑で覆われていた。現在も、街から一番近い海岸(大村海岸、前浜)や製氷海岸は珊瑚の屑が山積みだが、それが町中にもあったのだ。いまは、「珊瑚通り」という歌だけが、当時の様子を伝えている。
つづきます。。。
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