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一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2016年4月16日土曜日

中島敦「小笠原紀行」を読む②



   今日は小学校の終業式なりけり、校庭の周辺には柵を打たずして熱帯植物もて囲めり、木の名を問へばタマナというふ。如何なる字を宛つるならむ
通信簿人に見せじと争ひつゝ子ら出できたるタマナの蔭ゆ
今日はしも終業式ぞ紋付の子も打交り白き道行く
紋付も半ズボンもありおのがじし通信簿もち騒ぎ連れ行く

タマナとはテリハボクの島名。島にはどこにでもあり、堅い木なので木材として建材やカヌーに使われたらしい。
戦前は小笠原諸島全体で人口が7000人近く(現在は2500くらい)いたから、島も賑やかだったのかもしれない。



   農業試験所及びその裏山にて 八首
硝子透(とほ)し陽はしみらなり水を出て鰐魚(アリゲーター)の仔ら眠りゐる
護謨の葉にとまる小虫の名も知らず日の豊けさに黒光りゐる
空に海に光の微粒粉(こな)をぶちまけて明るきかもよ丘べに立てば
見かへれば檳榔(びらう)の葉越しキララキララ海の朝靄はれ行くが見ゆ
道の上の崖の端にして巨(おほ)いなる竜舌蘭の葉の厚き見つ
赭粘土(あかつち)の崖の崩れにたかだかと章魚木(たこ)の気根の根節(ふし)あらはなり
墓地へ行く道のかたへの崩崖(くえがけ)に章魚木の根引けどさ揺るぎもせず

   防風林にて 五首
立枯の防風林のヤラボの根根上り著く歩き難しも
暫(しま)しくを防風林にまどろみぬ覚めておどろおどろ海の蒼さや
目覚むればヤラボの影のだんだらの縞に染められわがい寝てゐし
海の上を青き炎が燃えゆれて今し日は午後に移らんとする
顫へ光る蒼さの中を一文字カヌーにかあらむ過り馳せくる

農商務省の試験地は清瀬とコーヒー山(現在の農業センター)の二箇所にあったらしい。中島が滞在したのは一日だけだから、おそらく前者を指すのだろう。
鰐とは鮫を指すが、島には鮫は珍しくない。よく見かけるのは体長1〜2メートルほどのネムリブカで、人に危害はまず加えない。夜行性だから、昼間は睡っている。小さいから「仔」に見えたのだろう。
当時は島には今よりも虫が多かったのだろう。というのは外来種のトカゲ(グリーンアノール)の流入で島の虫が激減したから。
竜舌蘭は熱帯植物で、小笠原でよく見かけるのはアオノリュウゼツラン。数十年に一度だけ開花し、その後枯れて死ぬという神秘的な花。繊維質が多いので、線維を取るために移入されたらしい。写真の一枚目が線維の多い葉の部分で、二枚目は花茎。葉に栄養を蓄えてから、花茎を伸ばすそうです。


章魚木(タコノキ)はタコみたいにたくさんの根を脚のように生やしている木。和名「タコノキ」は小笠原の固有種を指すが、一般的に沖縄のアダンを含めて南方の近縁種をひっくるめて章魚木と読んでいたらしい。中島には「章魚木」という随筆があるが、舞台はパラオ。
タコノキの実は、中がナッツみたいになっていて食べられる。でも、繊維の多い実を割らないといけないので結構大変。ナタがあれば楽だけど、昔の人はナイフで器用に割ったのかな。
ヤラボもタマナと同じくテリハボクを指す。ガジュマルなどと同じく防風林として使われたらしい。



   奥村に帰化人部落あり、もと捕鯨を業とする亜米利加人なりしといふ
奥村のパパイヤの蔭に帰化人の家青く塗り甘蔗植ゑたり
小匣(こばこ)もち娘いで来ぬブルネット眼も黒けれど長き睫毛や
紅き貝茶色の貝と貝つ物吾にくるゝとふ帰化人娘
   更に奥村を行けば十歳ばかりの少年馴々しく話しかけわが為に章魚木の実をとらむとて木に攀ず
章魚木にのぼる童の眼は碧く鳶色肌の生毛日に照る
ナイフ光り実は落ちにけり少年もとびおりたれど砂にまろびぬ
根上がりし章魚木の気根に背を凭たれやゝに汗ばむ少年の顔

小笠原諸島に最初に住み着いたのは捕鯨のために訪れたアメリカやヨーロッパの人であった。日本の統治が確定してからも彼らは「欧米系」として島に住み続ける。その末裔は今でも島に住んでいるし、”欧米系”らしい外見で独特の言葉を話している。奥村という地域はヤンキータウンともいわれ、欧米系住民が多く住んでいた。
昭和初年までは学校でも日英バイリンガルで教育が行われていたみたいだけど、この頃からは英語が禁止される。同時に欧米系住民のアイデンティティも非常に曖昧なものになり、それは戦後の米国統治下ないし日本返還(1967)後も続く。日本人でもなく、アメリカ人でもないと思った彼らの中には、自ら志願してベトナム戦争に米兵として出征した者もいた。

まだ、つづきます