死者をめぐる物語
人づてだから本当かは分からないが、去年この世を去られた文化人類学者・言語学者の西江雅之さんは、「人は他者の記憶の中でしか死ぬことができない。また、その死は、残された者たちの中で生きる多様な物語が続く限りのものなのだ」と書かれていたらしい。(出典をご存知の方がいたら教えてください)
一方で、彼は、「死んだらどうなりますか」という問いに対して、いつも「死んだらゴミになる、それだけです」と答えていたらしい。(『写真集 花のある遠景』)
西江さんは『花のある遠景』のあとがきに、「過ぎ去れば、すべてが無か思い出かだ」と書かれている。肉体は無の側に属し、物語は思い出の側に属する。過ぎ去ってしまったあとでは、実体を求めても返事は戻ってこない。あるのは自分の中にある頼りない物語の断片だけだ。
ただ、残った思い出だけは、思い出される限り、なくならない。なくならない限り、死者は死者として人々に語りかけ続ける。だから、西江さんと親しかった山下洋輔さんは、「人は、他者の記憶の中でなら、永遠に生きられる」と言われたのだ。
死を、「生命がなくなること(大辞泉)」と定義するならば、人は死を経験することができない。死とは何も経験することができない状態だからだ。死は、死者の側ではなく、生き残った人間と、これから死に行く人間にとっての問題なのかもしれない。
はじめに引用した言葉に戻れば、死ぬことは他者の認識においてだけ遂行される。死んだことを記憶する人がいなければ、その人の死はこの世から消えてしまうのだ。逆に言えば、記憶する人がいる限り、人はこの世からなくなったりはしない。死んだ人間として私たちの物語の中で生き続けるだけで。
死が生者に委ねられた問題であるからこそ、死をどう定義するかは、いつも曖昧になる。人間を生きた人間たらしめているのは、単に生命の活動だけではない。思考、感情、個性、友情、苦悩、恋……ひとつでも欠ければ、人間性の断片を失うことになる。生と死の境界は重層的で、生き残った人間が、どこで線を引くかに委ねられている。
四十九日たって他界への旅立ちが完了すると考えてもいいし、医者が臨終を告げた段階と考えてもいい。「すばらしい新世界」や「わたしを離さないで」に描かれたような人たちが、生きた人間であるかの判断も、答えは一つじゃない。
聖書には、「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイによる福音書8:22)」
とある。私にこの節の解説などできるはずもないけれど、山浦玄嗣先生の解説を引用する。
そういえば先日、クローズアップ現代で「終末期鎮静」の特集が放送されていた。終末期の苦しみに耐えかねる、助かる見込みのない患者に、鎮静剤を投与して最期を安らかに迎えさせる、という処置だ。問題は、遺族や医師の中に、これが積極的安楽死と変わらないのではないか、という悩みがあることだ。
もちろん、積極的安楽死と明らかに異なるのは、終末期鎮静は鎮静剤を投与して自然な死を迎えることを目的にしているのに対して、積極的安楽死は毒を投与して死に至らしめる処置であるということだ。耐えられない痛みに苦しむ患者に、同意の上で鎮静剤を与えることは、道徳的にも医学的にも決して間違ったことではないと思う。
だけど、鎮静剤を打たれて何も感じられず、ただ生命活動をしているだけの人間が果たして「生きた」人間であるのか、という疑問を持てば、鎮静剤を投与したことが殺したのと変わらないのではないかと悩む医師や遺族の気持ちも、十分理解できる。だからこそ安易に、あなたは間違ったことをしていない、とも言えなくなる。
理想の死に方を実現することがここまで難しいのに、重要な意味を持っているのは、死後の世界の問題だけではないのかもしれない。死は、本質的に生きている人間の問題だ。死んでいった人は、生きている人の物語の中でしか生きられない。もうどんなに言葉を尽くしても、どこまで歩いて行っても、言葉を交わすことはできない。だから、残ったわだかまりをほぐすこともできなければ、謝ることもできないし、許して貰うこともできない。
人は、苦しみを抱えたまま、ひとりで死んでいくことしかできないのに、その苦しみは生き残った人のなかで、永遠に生き続ける。人が、他人の苦しみを感じることのできる存在である以上、死者の苦しみは生き残った人の苦しみであるからだ。
そう、この冬は、たくさんの偉人が亡くなった。
デビッド・ボウイ、アラン・リックマン、桂春団治師匠、グレン・フライ、中村梅之助……
喪失という、圧倒的な悲しみを前に、自分がどうしたらいいのかもわからない。悲しみに浸り涙を流す人たちに、掛ける言葉のひとつも思い浮かばない。死者に対しては、何の働きかけもできない。
ただ、生き残ってしまったわれわれの中にある物語を整理してかたづけていく仕事しかできないのだから。。。
だけどまた、物語を紡ぐことができること、そして何より、物語は永遠に消え去らないことが、救いなのかもしれない。
山下洋輔さんは、オーネット・コールマンの死に際して、次のように書いている。もう、余計なことは言わず、ここで筆を擱く…
一方で、彼は、「死んだらどうなりますか」という問いに対して、いつも「死んだらゴミになる、それだけです」と答えていたらしい。(『写真集 花のある遠景』)
西江さんは『花のある遠景』のあとがきに、「過ぎ去れば、すべてが無か思い出かだ」と書かれている。肉体は無の側に属し、物語は思い出の側に属する。過ぎ去ってしまったあとでは、実体を求めても返事は戻ってこない。あるのは自分の中にある頼りない物語の断片だけだ。
ただ、残った思い出だけは、思い出される限り、なくならない。なくならない限り、死者は死者として人々に語りかけ続ける。だから、西江さんと親しかった山下洋輔さんは、「人は、他者の記憶の中でなら、永遠に生きられる」と言われたのだ。
死を、「生命がなくなること(大辞泉)」と定義するならば、人は死を経験することができない。死とは何も経験することができない状態だからだ。死は、死者の側ではなく、生き残った人間と、これから死に行く人間にとっての問題なのかもしれない。
はじめに引用した言葉に戻れば、死ぬことは他者の認識においてだけ遂行される。死んだことを記憶する人がいなければ、その人の死はこの世から消えてしまうのだ。逆に言えば、記憶する人がいる限り、人はこの世からなくなったりはしない。死んだ人間として私たちの物語の中で生き続けるだけで。
死が生者に委ねられた問題であるからこそ、死をどう定義するかは、いつも曖昧になる。人間を生きた人間たらしめているのは、単に生命の活動だけではない。思考、感情、個性、友情、苦悩、恋……ひとつでも欠ければ、人間性の断片を失うことになる。生と死の境界は重層的で、生き残った人間が、どこで線を引くかに委ねられている。
四十九日たって他界への旅立ちが完了すると考えてもいいし、医者が臨終を告げた段階と考えてもいい。「すばらしい新世界」や「わたしを離さないで」に描かれたような人たちが、生きた人間であるかの判断も、答えは一つじゃない。
聖書には、「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイによる福音書8:22)」
とある。私にこの節の解説などできるはずもないけれど、山浦玄嗣先生の解説を引用する。
「これは、[イエス]様の口癖で、生きているのに生きる目当ても喜びも見失い、小暗き闇に心を沈めている情けない姿を「死人」、つまりは生きているのに死んでいるような「生き死人」と呼ぶ」(『ガリラヤのイェシュー』)
そういえば先日、クローズアップ現代で「終末期鎮静」の特集が放送されていた。終末期の苦しみに耐えかねる、助かる見込みのない患者に、鎮静剤を投与して最期を安らかに迎えさせる、という処置だ。問題は、遺族や医師の中に、これが積極的安楽死と変わらないのではないか、という悩みがあることだ。
もちろん、積極的安楽死と明らかに異なるのは、終末期鎮静は鎮静剤を投与して自然な死を迎えることを目的にしているのに対して、積極的安楽死は毒を投与して死に至らしめる処置であるということだ。耐えられない痛みに苦しむ患者に、同意の上で鎮静剤を与えることは、道徳的にも医学的にも決して間違ったことではないと思う。
だけど、鎮静剤を打たれて何も感じられず、ただ生命活動をしているだけの人間が果たして「生きた」人間であるのか、という疑問を持てば、鎮静剤を投与したことが殺したのと変わらないのではないかと悩む医師や遺族の気持ちも、十分理解できる。だからこそ安易に、あなたは間違ったことをしていない、とも言えなくなる。
理想の死に方を実現することがここまで難しいのに、重要な意味を持っているのは、死後の世界の問題だけではないのかもしれない。死は、本質的に生きている人間の問題だ。死んでいった人は、生きている人の物語の中でしか生きられない。もうどんなに言葉を尽くしても、どこまで歩いて行っても、言葉を交わすことはできない。だから、残ったわだかまりをほぐすこともできなければ、謝ることもできないし、許して貰うこともできない。
人は、苦しみを抱えたまま、ひとりで死んでいくことしかできないのに、その苦しみは生き残った人のなかで、永遠に生き続ける。人が、他人の苦しみを感じることのできる存在である以上、死者の苦しみは生き残った人の苦しみであるからだ。
そう、この冬は、たくさんの偉人が亡くなった。
デビッド・ボウイ、アラン・リックマン、桂春団治師匠、グレン・フライ、中村梅之助……
喪失という、圧倒的な悲しみを前に、自分がどうしたらいいのかもわからない。悲しみに浸り涙を流す人たちに、掛ける言葉のひとつも思い浮かばない。死者に対しては、何の働きかけもできない。
ただ、生き残ってしまったわれわれの中にある物語を整理してかたづけていく仕事しかできないのだから。。。
だけどまた、物語を紡ぐことができること、そして何より、物語は永遠に消え去らないことが、救いなのかもしれない。
人間を生きた人間たらしめているのは、心臓が動いてるとか、脳が活動しているとか、そんな簡単な事実ではない。ある意味では、人が関わり合い、物語を紡ぐことができる限り、人は死なない。過ぎ去ればすべてが無か思い出かだけど、思い出がある限り、人は決して無にはならない。本当に愛していれば、愛した人を失ったりしない。音の出なくなった楽器、読まれない本も、そこに物語があれば、ゴミにはならない。
人は、決して「ゴミ」なんかにはならない。西江さんも、それを分かっていて敢えて言ったのだろう…
記憶の中でなら永遠に生きられる、というのは、たんに記憶の中に留まることではない。本棚にしまわれた本は読まれなくてもゴミにはなっていない。弔いとは、もう二度と読まれることのない本を、そっと本棚にしまい、空くことのない鍵を掛けることなのかもしれない…
山下洋輔さんは、オーネット・コールマンの死に際して、次のように書いている。もう、余計なことは言わず、ここで筆を擱く…
チャーリー・パーカーもセロニアス・モンクもぼくの中では生きている。会う機会がないだけで、その音はいつもそばにある。オーネット・コールマンもそういう存在だ。そして、この人にぼくは出会うことが出来、一緒に演奏することが出来、話をすることが出来た。[中略]
訃報に接したからといって、その人が自分の中から無くなるはずはない。彼の出した全ての音が、ますます輝いて見える。全世界の「自由を求める」人々の記憶の中で彼は生き続けるだろう。
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