分からないことは、人を不安にする
私がフられる時に言われた言葉で一番多いのが
だった。(注)
そもそも人が何考えてるのかなんて分かるものだろうか。
分かる人には分かるのかもしれないけど、私なんか鈍感なんで、理解なんて到底できない。分からなくて人を傷つけて平気な顔で生きている。それでも、理解できないからできないなりに、ありのままを受け容れようと努力するし、自分には見えてないもの、自分には理解できない物ものを、想像力と思いやりでなんとかカバーして、傷つけまいと必死なのだ。その程度しかできないのに、理解なんて、到底及ばない。
まあそれでも、心当たりはある。私は口数が少ない。自分から話しかけたりとか、なかなかできない。話したいと思っていることも、思っている人も、思っている内に、卒業とか会う機会がなくなったりとかで、話せないまま終わることも多い。そして、後になって後悔する。
どんなに言葉を尽くしたところで伝えられないものは伝えられない。ときに自分の言葉の拙さを呪いたくなる。言葉をもってしても自分の思いを伝えられないのに、何を考えているかなんて、そんなこと…
私事はともかく。
元日に「ネクタイのパラドックス」について書いた。イギリスにおける資本家の服飾の歴史と、ネクタイがいかにマスキュリニティを表象するかという、筋の通らない、結論のない冗長な文章だった。
ただ、そのなかで私が強調しておきたいことをもう少しここに書いておく。
産業革命期のイギリスの資本家ブルジョワジーの服装が貴族のそれと異なるのは、後者が趣向を凝らせた衣服を纏うことによって地位を見せびらかすのに対して、前者が身体をとことん隠すことによって、身体の能力を想像させることだった。ブルジョワジーの服装は狩猟が起源で、運動用のものであったから、「働く男」としてのアイデンティティを表すものであったのだが、同時に身体を覆うという機能も持っていた。
身体を見せていれば、その身体の持つ力は比較的容易に想像できる。しかし、それが隠されていれば、どれだけの潜在的な能力が備えられているのか、推測できない。だからこそ、見る者は潜在的能力を極限まで想像する。
分かりやすい例がサングラスだ。サングラスの向こうの眼差しは見えない。見られているのかすらも分からない。だから鋭い眼差しを想像し、畏怖を覚えるし、つねに見られている可能性を想像する。(パノプティコンと同じ構造ですね。)だからサングラスの向こうにある眼差しは恐ろしいのだ。
黒ずくめの衣装が恐いのはその中に何が隠れているのか分からないからなのだ。訪れたことのない場所が恐いのは、どこに何があり、どんな危険が潜んでいるのかが分からない、したがってどんな危険でも起こりうるからである。知らない人が恐いのは、その人がどのような能力を備えているか分からない、つまりどんな能力でも自分を攻撃しうるからなのだ。
わからないことは、人を不安にする。
「得体の知れない」ものは、ただ単に本性がわからないだけでなく、分からないがゆえに、想像しうる最も恐ろしい本性を越えた更に恐ろしい本性を持ちうるからなのだ。
同時に、わからないことは、力を引き出すから、尊さの表象にもなる。前述の記事では伊勢神宮について触れたけど、たとえば平安時代の貴族は顔を見せることが少なかった。顔が見えない、つまり得体が知れないからこそ、いかなる人間であるかも隠され、地位が更に高められるのだ。絵画の中で描かれた貴族は引目鉤鼻という様式化された通り一遍の顔立ちだが、顔が分からないから描けなかったのもあるだろうが、同じ顔立ちで個性が隠されているからこそ貴いのだと思う。
私をフってきた数々の(嘘です。数人の)女達は、「わからない」というわたしの「考えていること」に、何を想像していたのだろう・・・。
それはともかく。
私なんか分からない事だらけで、自分のことですら分からないのに、他人のことなど分かるわけがない。分かるってことが、まず、なんなのかが分からないんだけど…
一方で、分からない事と付き合うことはやっぱり大事だと思う。世の中は、そんなに分かりやすいものではない。
Wikipediaなんかを見れば、簡単に情報は手に入るし、分かった気になるのは簡単だ。でも、そんなうわべだけのものを見て、たとえばノートルダム大聖堂の呼吸さえ忘れるような超越的な美しさの、バングラデシュのスラムに生きる人々の歓びと苦しみの、三島由紀夫の文学の、一体何を分かるというのだろう?
FacebookやTwitterを見て、人と関わったつもりになり、人のことを分かったつもりになって、勝手に傷ついたり喜んだり好きになったりして。
分かることには、本来時間と忍耐が必要なはずなのに、今は情報が溢れているお陰で、自分で努力しなくてもすぐに知識が手に入る。でも、私が思うに、誰かがすでに噛み砕いて消化した知識を、お裾分けしてもらって仕入れるなんてのは無意味だ。自分で咀嚼しなくても消化できる知識は、手を伸ばせば溢れている。でも誰か他の人が噛み砕いたものには、もしかしたら利権とか政治的意図とか憎悪とか悪意が隠れているかもしれない。
分からなくてもはき出さずに自分で消化しようとすることが大事なのだとおもう。検索して情報を仕入れて処理して提示するだけの能力なら、割と簡単に身に付けられると思うけれど、難しいことに立ち向かうための力はを身に付けるには時間が掛かる。
すくなくとも、分からないことを認めて、自分には見えていないもの、理解の及ばないものを想像する事は大事だ。想像力を働かせて、自分の枠組みで捕らえきれないものにも敬意を払うこと。分かった気になって勝手に批評して、他人を傷つけたりしないだけの思いやりと想像力は、持ち合わせていたい。
分からないことへの不安が、恐怖を煽り、時に誰かを傷つけたり、他者を抑圧したり、暴力につながることも多い。だが、暴力に走る前に、ぐっと耐えて、知性で不安に立ち向かうための努力が必要だと思う。
(注)
とはいえ、そんなに数えられるほど多くの人と恋をしてきた訳ではないです。パラフレーズも含みます。
「何考えてるのかわからない」
だった。(注)
そもそも人が何考えてるのかなんて分かるものだろうか。
分かる人には分かるのかもしれないけど、私なんか鈍感なんで、理解なんて到底できない。分からなくて人を傷つけて平気な顔で生きている。それでも、理解できないからできないなりに、ありのままを受け容れようと努力するし、自分には見えてないもの、自分には理解できない物ものを、想像力と思いやりでなんとかカバーして、傷つけまいと必死なのだ。その程度しかできないのに、理解なんて、到底及ばない。
まあそれでも、心当たりはある。私は口数が少ない。自分から話しかけたりとか、なかなかできない。話したいと思っていることも、思っている人も、思っている内に、卒業とか会う機会がなくなったりとかで、話せないまま終わることも多い。そして、後になって後悔する。
どんなに言葉を尽くしたところで伝えられないものは伝えられない。ときに自分の言葉の拙さを呪いたくなる。言葉をもってしても自分の思いを伝えられないのに、何を考えているかなんて、そんなこと…
私事はともかく。
元日に「ネクタイのパラドックス」について書いた。イギリスにおける資本家の服飾の歴史と、ネクタイがいかにマスキュリニティを表象するかという、筋の通らない、結論のない冗長な文章だった。
ただ、そのなかで私が強調しておきたいことをもう少しここに書いておく。
産業革命期のイギリスの資本家ブルジョワジーの服装が貴族のそれと異なるのは、後者が趣向を凝らせた衣服を纏うことによって地位を見せびらかすのに対して、前者が身体をとことん隠すことによって、身体の能力を想像させることだった。ブルジョワジーの服装は狩猟が起源で、運動用のものであったから、「働く男」としてのアイデンティティを表すものであったのだが、同時に身体を覆うという機能も持っていた。
身体を見せていれば、その身体の持つ力は比較的容易に想像できる。しかし、それが隠されていれば、どれだけの潜在的な能力が備えられているのか、推測できない。だからこそ、見る者は潜在的能力を極限まで想像する。
分かりやすい例がサングラスだ。サングラスの向こうの眼差しは見えない。見られているのかすらも分からない。だから鋭い眼差しを想像し、畏怖を覚えるし、つねに見られている可能性を想像する。(パノプティコンと同じ構造ですね。)だからサングラスの向こうにある眼差しは恐ろしいのだ。
黒ずくめの衣装が恐いのはその中に何が隠れているのか分からないからなのだ。訪れたことのない場所が恐いのは、どこに何があり、どんな危険が潜んでいるのかが分からない、したがってどんな危険でも起こりうるからである。知らない人が恐いのは、その人がどのような能力を備えているか分からない、つまりどんな能力でも自分を攻撃しうるからなのだ。
わからないことは、人を不安にする。
「得体の知れない」ものは、ただ単に本性がわからないだけでなく、分からないがゆえに、想像しうる最も恐ろしい本性を越えた更に恐ろしい本性を持ちうるからなのだ。
同時に、わからないことは、力を引き出すから、尊さの表象にもなる。前述の記事では伊勢神宮について触れたけど、たとえば平安時代の貴族は顔を見せることが少なかった。顔が見えない、つまり得体が知れないからこそ、いかなる人間であるかも隠され、地位が更に高められるのだ。絵画の中で描かれた貴族は引目鉤鼻という様式化された通り一遍の顔立ちだが、顔が分からないから描けなかったのもあるだろうが、同じ顔立ちで個性が隠されているからこそ貴いのだと思う。
私をフってきた数々の(嘘です。数人の)女達は、「わからない」というわたしの「考えていること」に、何を想像していたのだろう・・・。
それはともかく。
私なんか分からない事だらけで、自分のことですら分からないのに、他人のことなど分かるわけがない。分かるってことが、まず、なんなのかが分からないんだけど…
一方で、分からない事と付き合うことはやっぱり大事だと思う。世の中は、そんなに分かりやすいものではない。
Wikipediaなんかを見れば、簡単に情報は手に入るし、分かった気になるのは簡単だ。でも、そんなうわべだけのものを見て、たとえばノートルダム大聖堂の呼吸さえ忘れるような超越的な美しさの、バングラデシュのスラムに生きる人々の歓びと苦しみの、三島由紀夫の文学の、一体何を分かるというのだろう?
FacebookやTwitterを見て、人と関わったつもりになり、人のことを分かったつもりになって、勝手に傷ついたり喜んだり好きになったりして。
分かることには、本来時間と忍耐が必要なはずなのに、今は情報が溢れているお陰で、自分で努力しなくてもすぐに知識が手に入る。でも、私が思うに、誰かがすでに噛み砕いて消化した知識を、お裾分けしてもらって仕入れるなんてのは無意味だ。自分で咀嚼しなくても消化できる知識は、手を伸ばせば溢れている。でも誰か他の人が噛み砕いたものには、もしかしたら利権とか政治的意図とか憎悪とか悪意が隠れているかもしれない。
分からなくてもはき出さずに自分で消化しようとすることが大事なのだとおもう。検索して情報を仕入れて処理して提示するだけの能力なら、割と簡単に身に付けられると思うけれど、難しいことに立ち向かうための力はを身に付けるには時間が掛かる。
すくなくとも、分からないことを認めて、自分には見えていないもの、理解の及ばないものを想像する事は大事だ。想像力を働かせて、自分の枠組みで捕らえきれないものにも敬意を払うこと。分かった気になって勝手に批評して、他人を傷つけたりしないだけの思いやりと想像力は、持ち合わせていたい。
分からないことへの不安が、恐怖を煽り、時に誰かを傷つけたり、他者を抑圧したり、暴力につながることも多い。だが、暴力に走る前に、ぐっと耐えて、知性で不安に立ち向かうための努力が必要だと思う。
(注)
とはいえ、そんなに数えられるほど多くの人と恋をしてきた訳ではないです。パラフレーズも含みます。
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