ネクタイのパラドックス
かねてより注目している人類学者にDavid Graeber(デビッド・グレーバー)氏がいる。新しいアナーキズムを提唱し、"We are the 99 percent" のスローガンでオキュパイ・ウォールストリートを煽動した気鋭の学者である。
ただ彼の言う新しいアナーキズムとは、ポスト資本主義のための反権威主義・自立的な直接民主主義の実践であって、旧来的なアナーキズムとは全く異なる。彼の思想について解説する力量も知識も私にはないので、著作を読んでほしい。日本語訳も3作ほど出版されている。
本人はアナーキズムとは実践であって、アイデンティティにはなり得ないという立場なので「アナーキスト人類学者」と呼ばれることには抵抗を示している。ただ、このレッテルは彼を表すのに一番分かりやすいことは確かだろう。
政治活動家として活動する彼は過激な政府批判やドン引きするような発言も色々としているのだが、今回紹介するのは人類学的エッセイなのでご安心を。
といっても、やはり、タイトルは"Dickheads"という、あんまり口に出したくないものだ。しかしここでは「ネクタイのパラドックス」という現象について説明されている。ネクタイの二面性というか、両義的な性格についてである。だから別に新年早々卑猥なことを書くわけではないですよ。
ネクタイは嫌いだという人は多い。ネクタイを締めなくていい生活を目指して苦心している人も多く、Graeberもその一人だ。。別にネクタイを締めれば温かいわけでもないし、むしろ邪魔である。ネクタイがフォーマルウェアの代名詞として用いられることも多く、ネクタイがスーツ全体を代表する存在であるかのようにも見える。なぜこれほどまでネクタイは象徴的な力を持つのだろう?
一方で、ネクタイはフォーマルウェアの中では唯一といってもいい、個性を表すアイテムでもある。最近はスーツのバリエーションも豊かだが、ネクタイほどに色や柄や形のバリエーションが豊かなものはなく、個性を発揮できる数少ないアイテムである。なぜスーツとは似ても似つかない存在たるネクタイが、フォーマルウェアを表象するような存在なのか?
ネクタイの、二つの対照的な性格——フォーマルウェアの堅苦しさの象徴と、個性——がここでいう「ネクタイのパラドックス」である。確かに、私もネクタイは好きで、たくさん持っているけれど、いざネクタイを締めるとなると鬱陶しさは否めない。非常にアンビバレントな厄介者だ。
このパラドックスを説明するため、Greaberはイギリスのフォーマルウェアの歴史から解説する。
エリザベス朝の時代では、男性の(貴族の)フォーマルウェアは女性同様装飾的で、カツラや化粧の利用も一般的だったらしい。変化が現れたのが18世紀で、装飾的要素は減り、暗い色の紋切り型の衣装が現れた。
近代的なビジネススーツは産業革命期に生まれたのだという。新興勢力のブルジョワジーは、貴族階級をパラサイトとして見下していたから、ブルジョワジーのアイデンティティを表す新しいタイプの服装が生み出された。貴族は既得権益によって不労所得を得ている階級だが、ブルジョワジーは行動するものであり、生産者であった。ここで貴族=消費者、ブルジョワジー=生産者という意識的区分ができた。一方、女性は消費者で居続けたから、女性の服装は産業革命を経ても装飾的なままである。
で、実はブルジョワジーの生んだビジネススーツというのは、貴族が着ていたものではなくて、ハンティングウェアが起源なのだという。つまり「アクション」の為の衣服であり、貴族との差別化が図られていることが分かるかと思う。
Graeberはハンティングウェアももとは甲冑のようなものが起源ではないかと推測する。ともかく、ビジネススーツは身体のあらゆる部分を可能な限り隠す。だから袖口はカフリンクスで、襟元はネクタイで締める。身体の輪郭線はできるだけ隠され、服装は個性を表さない。これが新しい、生産者たるブルジョワジーのアイデンティティ装置だったのだ。
一方で女性は身体の輪郭を強調し、「見られる」ことを前提とした装飾的な服飾が残った。これは今でもそうで、たとえば結婚式の服装を想像していただければ分かるかと思うのだが、男性はみんな同じような服装をしていて、女性の方がバラエティに富んでいる。まぁ、最近は量産型女子という言葉もあるのだが。。。
こうした衣服の変遷と差異がどのような機能を果たしたかを説明するため、Graeberはまずフーコーを引く。
フーコーによれば、18世紀以前の権力は"見られる"ことによって裏付けされたものであったという。王や貴族は儀礼や装飾などを通して権力を可視化していた。簡単に言うと、たとえば織田信長が豪華絢爛な安土城を建設したり、家光がギンギンギラギラの趣味の悪い日光東照宮を建立させたような、権力と財力を持つものにしかできない行為を見せることで権力を維持・再生産していった。ところが18世紀になり、顔の見えない、個性のない人間が、周囲の人間を絶え間なく監視し、評価し、判断することで権力を手にするようになった、とフーコーはいう(とグレーバーはいう)。
このフーコーの説明を、Graeberは権力を表すための二つの方法——見せることと見せないこと——の違いから解説する。18世紀になって生まれたのは、「見せない」ことによる権力の誇示だったのである。たとえばイスラム教やプロテスタントは偶像崇拝を禁止しているし、伊勢神宮でも覆いが掛かっていて中が見えないようになっている。こうやって見えない状態にすることによって、権力が不可知なもの、表しようようのない大きなもの、無制限に大きく感じられるものになるのである。つまり、権力がどれだけあるか表されないがために、どれだけでもあるように見えてしまうのだ。
一方で、「見せる」方の権力はといえば、「周囲の人間は私をこのように扱います。だからあなたを私をこのように扱いなさい。」というメッセージの発信として考えられる。これが見せられなかった場合、どのような扱いをすればよいのかわからない(ほど大きい)ことになる。
男性のブルジョワジーの服装というのは行動的で、生産的、かつ権力のあることを示すものである。一方で女性の服装は見られることを前提としており、受け身の(passive)存在であることを表象する。Graeberは"Man Does; Woman Is"という言葉を引き合いに出して説明している。
さて、ここまで見てみると、謎は余計深まったように思える。見せないことによる権力の誇示であるなら、ネクタイってむしろ逆ではないか・・・
一つの説明は、カフリンクスと同様にネクタイも肉体を隠すという役割を持っている、という点である。
だが、もう一つGraeberが強調するのは(そしてタイトルに関係している重要な点は)、服のもう一つの役割から説明できる。
それはつまり、生殖器を隠すというものだ。排尿の際には不便なく出せるようにし、なおかつ普段は隠しておく必要がある。実はズボンの前チャックはブルジョワジーの発明であるらしい。
それで、Greaberの説明というと、ネクタイというのは、隠された生殖器に対して、代わりに男性性(masculinity)を表象するものなのだという。Graeberによれば、ネクタイとは股間ではなく首から垂れ下がる、"intellectualized penis"なのだという。だから、ボウタイはなんとなく「ダサい」感じ(=無力)がするし、マフィアはカラフルでデカいネクタイを、カウボーイはひもネクタイでボウタイとネクタイ両方の効果を、ジェームズ・ボンドはボウタイだけど現物が・・・とか。あ、全部Graeber先生の説明ですよ。
もちろん、これは父系制で男性が生産に携わる社会であるから成り立つものであって、人類普遍の現象ではないであろうともGraeberはいう。
自然な状態、つまり服を着ない世界においては、女性には隠された生殖の能力がある。だが文明化された社会においては、それが正反対になるのだ。とGraeberは締めくくる。
つまり、ネクタイの両義性に話を戻せば、それは男性性(masculinity)の表象であるために装飾的であり個性の表現になりうる。一方でネクタイを締めないという選択は、男性性を隠す事によってその力を増長させたいということになるのだろう。
この、ネクタイをペニスの象徴と考えるやり方がどれだけ適当か、そしてそれがどれだけパラドックスを説明できるかについては慎重な検討を要するところがあるし、西洋の服飾を輸入しただけの日本でも同じ事が言えるかも疑問の残るところではある。フーコーの権力論を都合よく解釈している感じもする。
一方で、この記事は服飾の役割を端的に示しているように思える。つまり、装飾による権力の誇示ともてなしの要求、隠す事による力の表現、男性性と女性性の差異、そして装飾品の役割についてなどである。
人は、おそらく、見せることと隠す事の間を行き来しながら服装を選ぶ。私なんか見せたってどうしようもない身体なので隠す方だが、隠す事によってまた見せ、見せることによってまた何かを隠し… そこに権力と、相手への要求が隠れていることも確かである。
着飾ることはそれ相応のもてなしを要求することにもなる。(だから女性ってデートの時、着飾るんですね。。。)黒ずくめでバッチリ決められてきたら、確かに恐いけれど、それは相手の強さが見えないからなのだ。想像はいくらでも膨らむ。
私も普段は割と目立つ格好をしているので、無意識のうちに相手にいろいろなことを要求していたのかもしれない。それが時には暴力的だったかもしれない。イメルダ婦人ではないけれど、服飾は暴力にもなりうるのだ。
服装に限らず、装飾は権力とつながっている。天守閣もそうだが、武家に好まれた狩野派の障壁画、茶道具や硯箱に至るまで。それは政治権力だけではなくて、自分はこれだけの教養や地位を持っていますよとか、技術があるとか、地位があるとか。
服飾は、端的に、自分はこんな人間ですよ、と示すことができる。一方で示す意図がなくても相手にメッセージを与えてしまうのも確かだ。そんな表面だけの情報で、人のことを分かったつもりになったり、面白がったりもする。
ところで、着飾ることで色々なことを語る事ができるひとはたくさんいるが、生まれたままの姿で立っているだけで多くを語れる人は少ない。何かで着飾ったりしなくても、個性と魅力を表現できるような人に、私はなりたい。
2016年は、着飾らなくても素敵な人間になれるように努力します。
ところで、明けましておめでとうございます。
正月から下品な話になってしまい、しかも結論のないまとまらない話でした。申し訳ない。。。。
大学に入って三年ほどになり、今年は学部生活の締めくくりとして卒業論文やら大学院進学のために一層の努力を重ねてゆきます。今年は全力で学問に身を投じていくつもりです。
ブログも月に一回は更新したいと考えています。。が、どうなることでしょう。
みなさまも、今年一年歓びに満ちた美しい一年になりますように。
今年も一年間、荒木と荒木のブログをどうぞよろしくお願い申し上げます。
ただ彼の言う新しいアナーキズムとは、ポスト資本主義のための反権威主義・自立的な直接民主主義の実践であって、旧来的なアナーキズムとは全く異なる。彼の思想について解説する力量も知識も私にはないので、著作を読んでほしい。日本語訳も3作ほど出版されている。
本人はアナーキズムとは実践であって、アイデンティティにはなり得ないという立場なので「アナーキスト人類学者」と呼ばれることには抵抗を示している。ただ、このレッテルは彼を表すのに一番分かりやすいことは確かだろう。
政治活動家として活動する彼は過激な政府批判やドン引きするような発言も色々としているのだが、今回紹介するのは人類学的エッセイなのでご安心を。
といっても、やはり、タイトルは"Dickheads"という、あんまり口に出したくないものだ。しかしここでは「ネクタイのパラドックス」という現象について説明されている。ネクタイの二面性というか、両義的な性格についてである。だから別に新年早々卑猥なことを書くわけではないですよ。
ネクタイは嫌いだという人は多い。ネクタイを締めなくていい生活を目指して苦心している人も多く、Graeberもその一人だ。。別にネクタイを締めれば温かいわけでもないし、むしろ邪魔である。ネクタイがフォーマルウェアの代名詞として用いられることも多く、ネクタイがスーツ全体を代表する存在であるかのようにも見える。なぜこれほどまでネクタイは象徴的な力を持つのだろう?
一方で、ネクタイはフォーマルウェアの中では唯一といってもいい、個性を表すアイテムでもある。最近はスーツのバリエーションも豊かだが、ネクタイほどに色や柄や形のバリエーションが豊かなものはなく、個性を発揮できる数少ないアイテムである。なぜスーツとは似ても似つかない存在たるネクタイが、フォーマルウェアを表象するような存在なのか?
ネクタイの、二つの対照的な性格——フォーマルウェアの堅苦しさの象徴と、個性——がここでいう「ネクタイのパラドックス」である。確かに、私もネクタイは好きで、たくさん持っているけれど、いざネクタイを締めるとなると鬱陶しさは否めない。非常にアンビバレントな厄介者だ。
このパラドックスを説明するため、Greaberはイギリスのフォーマルウェアの歴史から解説する。
エリザベス朝の時代では、男性の(貴族の)フォーマルウェアは女性同様装飾的で、カツラや化粧の利用も一般的だったらしい。変化が現れたのが18世紀で、装飾的要素は減り、暗い色の紋切り型の衣装が現れた。
近代的なビジネススーツは産業革命期に生まれたのだという。新興勢力のブルジョワジーは、貴族階級をパラサイトとして見下していたから、ブルジョワジーのアイデンティティを表す新しいタイプの服装が生み出された。貴族は既得権益によって不労所得を得ている階級だが、ブルジョワジーは行動するものであり、生産者であった。ここで貴族=消費者、ブルジョワジー=生産者という意識的区分ができた。一方、女性は消費者で居続けたから、女性の服装は産業革命を経ても装飾的なままである。
で、実はブルジョワジーの生んだビジネススーツというのは、貴族が着ていたものではなくて、ハンティングウェアが起源なのだという。つまり「アクション」の為の衣服であり、貴族との差別化が図られていることが分かるかと思う。
Graeberはハンティングウェアももとは甲冑のようなものが起源ではないかと推測する。ともかく、ビジネススーツは身体のあらゆる部分を可能な限り隠す。だから袖口はカフリンクスで、襟元はネクタイで締める。身体の輪郭線はできるだけ隠され、服装は個性を表さない。これが新しい、生産者たるブルジョワジーのアイデンティティ装置だったのだ。
一方で女性は身体の輪郭を強調し、「見られる」ことを前提とした装飾的な服飾が残った。これは今でもそうで、たとえば結婚式の服装を想像していただければ分かるかと思うのだが、男性はみんな同じような服装をしていて、女性の方がバラエティに富んでいる。まぁ、最近は量産型女子という言葉もあるのだが。。。
こうした衣服の変遷と差異がどのような機能を果たしたかを説明するため、Graeberはまずフーコーを引く。
フーコーによれば、18世紀以前の権力は"見られる"ことによって裏付けされたものであったという。王や貴族は儀礼や装飾などを通して権力を可視化していた。簡単に言うと、たとえば織田信長が豪華絢爛な安土城を建設したり、家光がギンギンギラギラの趣味の悪い日光東照宮を建立させたような、権力と財力を持つものにしかできない行為を見せることで権力を維持・再生産していった。ところが18世紀になり、顔の見えない、個性のない人間が、周囲の人間を絶え間なく監視し、評価し、判断することで権力を手にするようになった、とフーコーはいう(とグレーバーはいう)。
このフーコーの説明を、Graeberは権力を表すための二つの方法——見せることと見せないこと——の違いから解説する。18世紀になって生まれたのは、「見せない」ことによる権力の誇示だったのである。たとえばイスラム教やプロテスタントは偶像崇拝を禁止しているし、伊勢神宮でも覆いが掛かっていて中が見えないようになっている。こうやって見えない状態にすることによって、権力が不可知なもの、表しようようのない大きなもの、無制限に大きく感じられるものになるのである。つまり、権力がどれだけあるか表されないがために、どれだけでもあるように見えてしまうのだ。
一方で、「見せる」方の権力はといえば、「周囲の人間は私をこのように扱います。だからあなたを私をこのように扱いなさい。」というメッセージの発信として考えられる。これが見せられなかった場合、どのような扱いをすればよいのかわからない(ほど大きい)ことになる。
男性のブルジョワジーの服装というのは行動的で、生産的、かつ権力のあることを示すものである。一方で女性の服装は見られることを前提としており、受け身の(passive)存在であることを表象する。Graeberは"Man Does; Woman Is"という言葉を引き合いに出して説明している。
さて、ここまで見てみると、謎は余計深まったように思える。見せないことによる権力の誇示であるなら、ネクタイってむしろ逆ではないか・・・
一つの説明は、カフリンクスと同様にネクタイも肉体を隠すという役割を持っている、という点である。
だが、もう一つGraeberが強調するのは(そしてタイトルに関係している重要な点は)、服のもう一つの役割から説明できる。
それはつまり、生殖器を隠すというものだ。排尿の際には不便なく出せるようにし、なおかつ普段は隠しておく必要がある。実はズボンの前チャックはブルジョワジーの発明であるらしい。
それで、Greaberの説明というと、ネクタイというのは、隠された生殖器に対して、代わりに男性性(masculinity)を表象するものなのだという。Graeberによれば、ネクタイとは股間ではなく首から垂れ下がる、"intellectualized penis"なのだという。だから、ボウタイはなんとなく「ダサい」感じ(=無力)がするし、マフィアはカラフルでデカいネクタイを、カウボーイはひもネクタイでボウタイとネクタイ両方の効果を、ジェームズ・ボンドはボウタイだけど現物が・・・とか。あ、全部Graeber先生の説明ですよ。
もちろん、これは父系制で男性が生産に携わる社会であるから成り立つものであって、人類普遍の現象ではないであろうともGraeberはいう。
自然な状態、つまり服を着ない世界においては、女性には隠された生殖の能力がある。だが文明化された社会においては、それが正反対になるのだ。とGraeberは締めくくる。
つまり、ネクタイの両義性に話を戻せば、それは男性性(masculinity)の表象であるために装飾的であり個性の表現になりうる。一方でネクタイを締めないという選択は、男性性を隠す事によってその力を増長させたいということになるのだろう。
この、ネクタイをペニスの象徴と考えるやり方がどれだけ適当か、そしてそれがどれだけパラドックスを説明できるかについては慎重な検討を要するところがあるし、西洋の服飾を輸入しただけの日本でも同じ事が言えるかも疑問の残るところではある。フーコーの権力論を都合よく解釈している感じもする。
一方で、この記事は服飾の役割を端的に示しているように思える。つまり、装飾による権力の誇示ともてなしの要求、隠す事による力の表現、男性性と女性性の差異、そして装飾品の役割についてなどである。
人は、おそらく、見せることと隠す事の間を行き来しながら服装を選ぶ。私なんか見せたってどうしようもない身体なので隠す方だが、隠す事によってまた見せ、見せることによってまた何かを隠し… そこに権力と、相手への要求が隠れていることも確かである。
着飾ることはそれ相応のもてなしを要求することにもなる。(だから女性ってデートの時、着飾るんですね。。。)黒ずくめでバッチリ決められてきたら、確かに恐いけれど、それは相手の強さが見えないからなのだ。想像はいくらでも膨らむ。
私も普段は割と目立つ格好をしているので、無意識のうちに相手にいろいろなことを要求していたのかもしれない。それが時には暴力的だったかもしれない。イメルダ婦人ではないけれど、服飾は暴力にもなりうるのだ。
服装に限らず、装飾は権力とつながっている。天守閣もそうだが、武家に好まれた狩野派の障壁画、茶道具や硯箱に至るまで。それは政治権力だけではなくて、自分はこれだけの教養や地位を持っていますよとか、技術があるとか、地位があるとか。
服飾は、端的に、自分はこんな人間ですよ、と示すことができる。一方で示す意図がなくても相手にメッセージを与えてしまうのも確かだ。そんな表面だけの情報で、人のことを分かったつもりになったり、面白がったりもする。
ところで、着飾ることで色々なことを語る事ができるひとはたくさんいるが、生まれたままの姿で立っているだけで多くを語れる人は少ない。何かで着飾ったりしなくても、個性と魅力を表現できるような人に、私はなりたい。
2016年は、着飾らなくても素敵な人間になれるように努力します。
ところで、明けましておめでとうございます。
正月から下品な話になってしまい、しかも結論のないまとまらない話でした。申し訳ない。。。。
大学に入って三年ほどになり、今年は学部生活の締めくくりとして卒業論文やら大学院進学のために一層の努力を重ねてゆきます。今年は全力で学問に身を投じていくつもりです。
ブログも月に一回は更新したいと考えています。。が、どうなることでしょう。
みなさまも、今年一年歓びに満ちた美しい一年になりますように。
今年も一年間、荒木と荒木のブログをどうぞよろしくお願い申し上げます。
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