無力感の正体(ない袖は振れない)

都会で暮らしていると、無力感を感じさせられることが多い。

つねに、ハキハキと喋り、自分の意見を筋道を立てて説明し、上手に人付き合いをして、愛想も忘れずに・・・そんなプレッシャーの下に絶えず置かれている。時間を掛けてゆっくりわかり合いたい、そんな自分は、すぐに疲弊してしまう。そして結局、人と関わる事さえも億劫になり、また無力感が生み出される・・・

そうでなくても、絶えず権威の下にさらされて、自分の行動が実を結ぶ事なんて少ない。戦う相手が大きいほどそうだ。差別や戦争や難民の問題、あるいは原発でも安保法でもいいし、大学の勝手な運営、そういった理不尽にたいして、自分は何も出来ない。悔しい思いばかりが残る。

自分には何ができるんだろうって考えたときに、できないことのほうが圧倒的に多いのは、私だけではないとおもう。
でもね、たしかに、自分には、自分にできることしかできないんだけど、自分にできることって、一生掛かってもやり遂げられないくらい多いのかもしれない・・・。
そう、だから、考えれば自分にできることなんて、たくさんあるのだ。それもやらずに、偉そうなことばかり、口先だけで言ってる人は、恥ずかしい。

だけど、じゃあ、何かをやったからとか、何かができるから偉いのか、その人に価値があるのかと問われれば・・・それは違う気がする。

なぜか。

第一に、能力なんてのは、実はそれを取り巻く社会によって随分と定義が異なるからだ。
冒頭に挙げたような、いわゆるコミュニケーション能力なんてものが求められるようになったのってここ数十年とかで、人類の長い歴史の中ではむしろどうでもいいことだったのかもしれない。むしろ、邪魔だったものかもしれない。アメリカで求められる能力とも、インドで求められる能力とも違う。
私のように、国際的な大学(いや、大学とは本来国際的な場所だから、この言い方は変だが…)にいれば、語学力が求められる。語学の出来ない私は、劣等感しか抱かない・・・。

第二に、能力の評価は人間の評価ではない。
学校教育のなかで、なんだか能力のある人がすごい人、みたいにすり込まれて、テストの点数が悪いとその人に価値がないように思われる・・・。実際にそういう意図はなかったとしても、本人の人生の中心を占めている学校という場において、(そして往々にして家庭においても)勉強ができると褒められて、できないと叱られて・・・。東大出てるからすごい人、中卒だからだめ、そんな価値観ができあがってる・・・。学歴社会とかいう、社会の構造以前に、人間の評価基準として。
でも、問われる能力は文脈によって違う。今は点数が問われてるけど、男らしさ/女らしさとか、優しさによって人間性が問われる時代や社会だってある訳だ。なのに一つや二つのスケールで判断しちゃっていいのかな?
たとえばね、大トロは、何十年か前までは食べられずに捨てられるか、肉体労働者が食べるところだった。それが今は高級な部位になってる。人間の評価基準も似たようなものではないのかな?

第三に、結果を残せなかったら意味がないのか?という問題。
ご存知のように、努力すれば結果に直結する訳ではない。
努力に意味があることは、私も信じている。頑張った分だけ、自分には意味があるだろう。でもそれは、やった本人の話であり、もっと言えば、それを意味と認めない人にとってはないものと同じだ。結果が残るかどうかとか、他人が評価してくれるかどうかというのは別問題だ。途中の過程を全部無視して、結果とか能力(実際、能力は結果で判断される)で人を見てしまっていいのだろうか?
なにかをやろうと思っても、やりたくてもできなければ意味がないんだろうか?人の痛みを、自分の痛みのように感じて、なにかしてあげたいと切に願うのに、どうやって声を掛けたらいいか、どうやって行動したらいいかわからない人は、優しい人ではないんだろうか?



結局のところ、一番いいたいのは、たぶん、全ての命は美しい。
何かができるとか、何かをやったから、その人に価値があるのだとすれば、何もできない人、する力のない人、弱い立場にいて何もできない人、自分のやりたい事がまだ見つかっていない人、恐れていて行動に移せない人、自分の信じる道を他人に理解して貰えない人、おそろしく難しい問題に立ち向かっている人たちなんかは、意味がないんだろうか?

ない袖は振れないのだ。
いわゆるコミュニケーション能力など、ほとんど持ち合わせていない。努力で身につく分も、もちろんあるだろう。
でも、努力が実らなかったら、その人は切り捨てちゃっていいのだろうか?
一番弱い立場にいる人まで救われてこそ、理想の社会であると私は思う。

あいつはコミュ障だとか、若者は忍耐力がないとか、そうやって批判してしまうのは簡単だけど…否定してしまえば、そこから何も生まれてこない。

もちろん、能力のある人が、それを活かして、それで社会がうまく廻っていけばいいと思うよ。でも、それができない人もたくさんいるわけで・・・。Noblesse obligeのように、能力のある人が、それを、できない人のために、還元していければ、それが一番いいんだけど・・・。


話を戻そう。
無力感は、実は、社会の流動的な規範によって作られたもので、実はぜんぜん本質的なものではないのだ。だから、自分に価値がないわけじゃないから、大丈夫。
褒められたからって、自分の価値があがったり下がったりする訳じゃない。変わるのは相場であって価値じゃない。そして、人間の価値に、たぶん、上下はない。

だから、無力感を感じてても、大丈夫。そう信じたい。

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