noteをやめようと思います。

 noteをやめようと思います。と言っても、滅多に記事を書くことはないし、読む人がそれほど多い訳ではないのですが、ただ一人の書き手として、あるいは消費者として、社会的責任を果たさない企業を利することは避けたいと思うからです。今までは個人的なことはブログで、より広い読者や、特定の関心(着物など)を持った読者を想定したものはnoteに、と使い分けていました。これは決して退会を呼びかけるものではありません。読者としてnoteを読むことは、これからもあるかもしれませんが、noteへのリンクを踏むことにたいしては逡巡を覚えるのではないかと思います。

わたし自身、普段から買いたくない会社や店から物を買ったりサービスを受けることは避けていますし、逆に応援したい店では積極的に買うことにしています。DHCの商品を買うことはありませんし、amazonはできるかぎり使わないようにしています。一方で書籍はなるべく町の本屋さん、とくに小さな、でも良い本を揃えているようなお店で、買うようにしています。お菓子も町のお菓子屋さんで買います。そういう店がなくなると困るから、それは自分にとってだけではなくて、社会にとっての損失だと思うからであり、応援したいと思うからです。物やサービスを買うこと、お金を使うことは単に金銭と財やサービスの交換ではなくて、その企業や店舗を支持することに繋がると思っています。自分が使うお金や、自分がサービスを使うことで生まれるお金の流れに、責任を持ちたいと思っていますし、多くの人がそういう視点を持つことで、より企業の社会的責任(CSR)が活発になり、よい社会になってほしいと思います。今回のnoteを退会しようという意志も、こうした消費者行動の一部だということになります。

noteをやめようと思い至ったきっかけは、note株式会社が運営するコラムサイトcakesにおいてcakesクリエイターコンテスト優秀賞を受賞したという「ホームレスを3年間取材し続けたら、意外な一面にびっくりした」という記事でした。

それ以前にもcakesに寄せられた文章に批判が寄せられることがありました。それが幡野広志氏による人生相談のコラムです。そこで幡野氏は相談者の女性のDV被害を嘘だと決めつけるような文章を書いていました。この記事の問題点は小川たまかさんが詳しく書かれているので、詳細はそちらに譲りたいと思います。

その後記事は取り消され、cakes編集部からは謝罪の意が表明されました。小川さんが書かれているような問題はあるものの、謝罪文自体は、問題をよく理解し、真摯に責任を果たそうという意志が読み取れましたし、わたしとしては今後の動向を静観しようと思っていました。そこに出てきたのが今回のばぃちぃさんによる「ホームレス」のコラムでした。

このコラムの内容を簡単に要約しますと、幼い時から「触れてはいけないもの」として興味を持っていた「ホームレス」に関心を持ち、3年前から「ホームレスのおじさん」たちと交流を重ねてきた筆者が、「おじさんたちは生活のために工夫を凝らして、あらゆるものを作り変えることに長けていた」ことに気付き、その生活の知恵に刺激を受けた、という趣旨であるものと理解しています。

この記事の問題は多岐に亘るので全てをカバーすることは、ここではできないかと思いますが、特に私が問題と感じた点をまとめておきたいと思います。ここでは3点を挙げたいと思います。

まず1つ目は、「ホームレスのおじさん」たちに対するまなざしの問題です。残念ながら、ホームレス状態にある人たちは何らかの事情によって家を失ったり、安定した仕事や収入を得られなかったり、多くの人が必要としている物や環境を手に入れることができない状態にあります。本人がホームレスであることを望んでいても、ホームレスであることに満足しているとしても、われわれと彼らの間にこうした断絶があり、彼らの「異世界」に対する興味や関心が、こうした不均衡や社会的排除の上に成り立っています。このことは決して彼らを「かわいそうな人」と扱うべきという意味ではありません。ただ、社会から差別や排除、ときに犯罪の対象になり、社会的弱者として位置づけられている人に対して、興味本位で近づき、取材対象として扱うことを問題にしているのです。これは100年以上前から、帝国主義が生み出した文化人類学が先住民族や少数民族に行ってきた調査の現代的な再出ということになるでしょうか。本人たちの了承を得ていても、信頼関係を築いていたとしても、免責される訳ではありません。差別や格差それ自体を問題にする記事ではなく、その生活の実態に注目するものであっても、こうした格差や断絶には自覚的であるべきで、そこに責任が問われる、ということです。彼らの「生活の知恵」を興味の対象とし、無邪気に記事にして報酬を得ることは遠回りな知的搾取である、と思います。

もちろん、ホームレス状態の方の知恵からわたしたちが学ぶことはあるし、それを記事にすることの是非自体を批判するものではありません。そしてまた、自分とは異なった(と思われる)他者に対して関心を持つことへの批判でもありません。むしろ異なった他者や異文化への関心を持つことは重要なことだと思います。ただ、それは対等な他者として相手を扱う必要があるし、それは簡単なことではない、ということです。

わたしの尊敬する文化人類学者・言語学者である西江雅之氏は、「私の皮膚の外側は全て異郷」と書いています。自らが慣れ親しんだ環境も、遠く離れた見知らぬ土地も同じように、何らかの価値観とか文化などと言われる枠組みに依拠し、人びとは生活しています。そしてその枠組みはそれぞれに固有の価値があり、どこもが対等に「異郷」であるということです。自分の持っている価値観や枠組みを自明視し、自らと異なった他者を批評する一方的なまなざしは、暴力といわざるを得ないと思います。他者を「意外な一面」や「驚き」の対象とすることもまた、自らの枠組みによって他者をジャッジする態度であると思います。だからわたしは、離れた場所の文化や習慣を驚きや笑いの対象とするような表現には、つねにNOを言い続けたいと思っています。「世界の果て」がどうとかいうテレビ番組もそのひとつです。身近な場所も含めて、全ての場所が異郷である。遠く離れた場所の異文化を知ることを通じて、自らが知らず知らずのうちに自明視していた自分たちの文化や枠組みを見直し、慣れ親しんだ場所の「異郷」性を認識することで、自分を捉えている常識や価値観を再考する謙虚な態度が必要であると思います。

2つ目の問題ですが、これがホームレス状態にある当事者への差別ではないかという批判が寄せられています。差別が問題になるとき、繰り返し使われる否認の言葉が「差別する意図はない」とか「本人も悪く思っていない」というものです。しかし重要なのは、差別に意図は関係ないということです。わたしの大学時代の同級生には、東アフリカのとある国にルーツのある日本人学生がいました。彼女の肌は黒くて、巻き毛でしたが、子供の頃から「意外と日本語上手いんだね」と言われたり(日本で生まれ育って、日本語しか話せない日本人なのに)、電車で見知らぬ人に興味本位で髪の毛を触られたり、そういう無邪気な言動に傷付いたといいます。彼女自身、彼らに悪気があった訳ではないのだから、と思って傷付く方がおかしいのだと思ったり、考えすぎだと思ったりしたといいます。それでもなお、今彼女が思うのは、それは正当に傷付いて良い経験だったと思う、と言います。たとえ悪気がなくても、冗談で言ったとしても、特定の出自や肌の色や国籍や職業や状態にある人を、その属性によって、他の人と異なった扱い方をすることは差別です。悪気がなくても悪いことはあります。

「悪気のない最悪」はある。悪気がなければいいなんていうのは、成長する気の無い人間のセリフだと思う。どんな時代に生きたって、本当にそれが正しいのかを問い直せないままで鵜呑みにして生きていくことや、その結果誰かの心を踏みにじっていることに気づかないままでいることは、かっこ悪いし、それこそ怠惰のよってひどく自分自身の魂を汚してしまうことのように思える。(戸田真琴)

ホームレスも本人がハッピーだからいい、という気持ちの問題にすべきではありません。それは社会的に生み出された格差や排除を肯定する、持てる者の論理として有害です。ホームレスを興味の対象にすることも、本人の許可があるから許されるのではなく、その構造や眼差しや認識の仕方自体が差別であるかどうかを考えるべきです。同時に、読んで差別意識を感じるか感じないかという問題ではなく、その表現や表象が差別の構造を反映していたり、それに加担するものでないのかを考える必要があります。もう一度言いますが、差別や侮蔑の意図があるかないか、差別意識を感じられるかどうかは、差別であるかどうかとは関係がありません。差別意識を持っていても、多くの人がそうであるように(そうであってほしい)それを言葉にしたり行動に反映したりしない限り、ひとまず問題にはなりませんし、意識しなくても傷付けたり差別してしまったりすることがある、ということはつねに覚えておくべきです。

3つ目ですが、ホームレス状態にある人について、著者があまりに不勉強であり、編集部も問題を認識していないという点です。「ホームレス」については、主に社会福祉学や社会学の分野で、また福祉の活動の現場から様々な知見が絶えず更新されています。それらは「支援」を目的としたものだから記事とは関係がないと思うかも知れませんが、実際には「ホームレス」をどう捉え、どう向き合うべきかという問題が、過去の反省や批判を踏まえながらずっと議論が重ねられてきました。そうした文脈と比較してこの記事を読んだ時、著者の認識があまりに幼稚で、偏っていると言わざるを得ません。ここではいちいち指摘することは避けますが、ひとつ申し上げておくべきことは、問題を生む社会構造に目を向けないままにミクロな視点だけに注目することは、不平等を無視または黙認することで、その構造に加担するものである、ということです。ホームレスというセンシティブな問題を取り組むにあたり、積み重ねられてきた知恵を参考にしなかったことは大きな失敗であると言わざるを得ません。

cakes編集部側もこれらの問題を理解しないばかりか、「cakesクリエイターコンテスト優秀賞」を授与し、むしろcakesにとってこうした記事が望ましいものとして取り扱っていますから、メディアとしての責任は重いものと思います。

残念ながら、批判が寄せられているにもかかわらず、著者側も編集部も問題を理解したように思われません。11月16日付けで、記事には以下のコメントが加えられました。

本記事は、ホームレスの方々のプライバシーに配慮し、掲載許諾をいただいた上でお届けします。著者とホームレスの方々との関係性についての説明が不足していたため、2020年11月16日11:28に本欄と本文の一部を修正しました。同17:06に著者からのコメントを本記事の末尾に追記しました。

著者からのコメントというのが以下のものです。

私たちは3年前からホームレスの方々と定期的に接点を持ち続けてきました。ホームレスの方々と打ち解けるなかで感じたのは、彼らが培ってきた生活する力でした。 
いつ自分がホームレス状態になるのか、先のことは誰にもわからない世の中です。この連載を通して、私たち二人自身が最初にもっていたようなホームレスの方々に対する思い込みを取り除き、彼らの培ってきた力を伝えていけたら、と思っています。みなさんからのご意見を可能なかぎり拝見し、今後の連載に活かしていきます。 

上でも書いた通り、許可や信頼関係は調査の倫理の一部分でしかありません。ホームレスの力を伝えたいという意図や彼らへのリスペクトが(あるとしても)、それは倫理的な問題をクリアすることにはならない。残念ながら、こうした記事を載せるメディアや企業を、わたしとして応援することはできないと思い至り、noteをやめようと決めました。

またnoteが信頼できる、責任あるメディアになったら戻ってこようと思います。わたしがやめたところで、noteにとってのダメージはゼロと言っていいでしょう。だからこそ気楽に辞めることができます。cakesやnoteがなくなれば良いとは思っていません。むしろそれは社会にとって大きな損失になってしまいます。誰もが参加できる民主的なメディアで、多くの記事に心揺さぶられたり、関心の扉を開かれるような経験をしてきました。そうした経験をさせてくれたnoteにはもちろん、感謝をしています。

蛇足になりますが、ひとつ申し添えておきたいのは、自分が気に入らない意見だからといって、それを封殺したり、あるいは仕事を干すような形で沈黙を強いるようなことは、するべきではありません。嫌いであっても政治的な立場が異なっていても、言論が失われることは社会にとっては大きな傷であると思います。しかしながら、差別や人を傷付けるような発言や、それを放置したりときに助長したりする言論は別です。適切な場所に適切な言論を陳列することはメディアとしての社会的な責任であると思います。

なお、いままでにnoteに書いた記事は既にこのブログ上に移動してあります。

浴衣を着るときに、覚えておいてほしいこと

もし岩波文庫がハリー・ポッターを出したら(ありそうもない表紙で巡る世界の名作)

ありそうもない表紙で巡る名作(その2:日本文学編)

遠く、離れた場所へ

「ポエム」と呼ばないで

和装の男の人って、雨の日はどうしてるんだろう?

学ぶ機会を失わせないために

またいつか安心してnoteが使える日が来ますように。その日までさようなら。

コメント