棚(その2)
前回のブログで、棚を作るという書店員の仕事は知の見取り図を描くことである、という趣旨のことを書いた。しかしこれにはふたつの留保が必要である。
まず、駅前書店のような中小規模の書店の棚は、注文せずとも取次が送ってくる本、いわゆるパターン配本を並べるという仕事になるから、この種の書店は概ねどこの店も似たり寄ったりの棚になる。街の本屋がアマゾンに負けるのは、本との出会いを提供できていないからだというよくある指摘はたしかに正しいが、それは取次の配本に依存する制度に依拠しているためでもある。これについてはおそらく、他の人が詳しく書かれていると思うのでこれ以上は触れないことにしよう。興味があれば「パターン配本」などで検索すれば、書店員や愛書家の恨み節のような記事が沢山見つかると思う。この恨み節は書物への愛ゆえであることを、書き添えておきたい。
ここで触れたいのは2つ目の点である。おそらく、棚を知の見取り図として読み取ることができるというのは、おそらく愛書家の、多くは意識さえされないが、永年の知識と経験によって身に付けられた技術であるということだ。数多の本が並べられたもの、それが単なる羅列ではなくて、秩序あるものとして見えてくるためには、聴き始めた頃は何の違いも分からなかったクラシック音楽が、形式や時代や地域や作曲家ごとに整理できるようになるのと同じように、ある種の訓練が必要だということ。そして、リアル書店ネイティブにとって、それはほとんど無意識に身に付けた技術であるということ。
つまりは、著者と題名を見ただけで、どのジャンルの本であり、未読か既読か、興味の有無、そしてそれが新刊かどうかを判断するということ。もし知らない著者の本であれば、出版社や奥付や端書きやあとがきを見て、あるいは少し本文に目を通してみて、どのタイプの本であるか、欲しいかどうかを判断すること。これらをひとまず「棚を読む」と名付けることにしよう。
棚を読むことは、例えるなら古書店街の地図を頭の中に描くことに近い。わたしが神保町に通うようになったのは高校に入って間もない頃だったが、どこにどんな本屋があるのかも知らず、どこも同じ「古本屋」にしか見えなくて、うっかり医学書の専門書店だとか、昭和のアイドル専門、囲碁・将棋専門という書店に入ってしまって、引き返すのも恥ずかしくて物知り顔で分かりもしない棚を眺めるなどしたものである。専門学校の頃は、中国系の怪しげな書店を紹介され、ほとんど中年男性しか来ない店の店主には訝しがられ、学校名と紹介者を言って納得して貰えた、なんてこともあったし、大学に入ってからは人文学や社会科学の専門書が必要になり、休みの日には入手困難な本を探して半日歩くなんてこともするようになった。そして何年か通ううちに、欲しい本がどこの書店にありそうなのか、掘り出し物はどこに行けば見つかるのか、分かるようになるものだ。気難しげな店主と談笑する常連に憧れ、顔を覚えて貰うためにとにかく良書を買い漁ったこともあった。無闇に知った顔をして店主に話しかければ、かえって嫌われる、そう思って無言でせっせと、これを買えば一目置かれるだろうかと推測して本を選ぶ。それが必ずしも欲しい本でない時もあった。そうやって顔なじみの古本屋ができてくるものなのだと思うし、そういう無駄に費やした時間と資金が、選書眼を養ったようにも思う。
はじめは文学史に出てくるような文豪とベストセラー作家しか知らなかった中学生が、少しずつマイナーな作家のことも知るようになり、自分なりの好みと美意識を身に付け、出版社・レーベルごとの専門や傾向を知ると、棚を見ただけで手に取るべき本が分かるようになる。だからといって自分の専門外の棚は、やはり読めない。文芸書や人文書の棚は読めても、数学や工学なんてさっぱりである。
書店員が棚を作ることはキュレーションである。分類の仕方はもちろん、売りたい本や売れる本は、それが手に取られるように意識されておかれている。しかしそれが、あまりに静かに、というより無言で行われるので、買う側に棚を読む技術が必要になってくる。それは、本を読む技術を誰も教えてくれないように、読む人が独学で身に付けていたのだと思う。『本を読む本』はあっても、『棚を読む本』はいまのところ、ないんじゃないかと思う。
誰もが棚を読める必要はない。棚を読まなくても本と出会えるためのメディアが、新聞の書評や広告、ラジオ番組などであったし、それらは棚を読める人だって使う。それにいまはソーシャルメディアとか、口コミとか、たぶん知らないけど他のいろいろなものが、出会いを提供しているのだと思う。
棚を読むことには当然、本を手に取ってみて、買うに値する本であるかを吟味するプロセスが含まれる。ネット書店ではそれができないぶん、出会い方の方が大切になってくるわけだ。書影と紹介だけを見て買うのであれば、気になって見たけれどやっぱり買わなくて良いと思った、ということは、ほとんどあり得ない。出会うことと買うことが直結するのである。これって実はすごく、ハードルが上がったのではないか。買ってみてがっかりする、というリスクがその分多く含まれることに、なるわけだから。
ネット書店で本を買うことが増えたのは、それと棚作り以外の本のキュレーションが拡大したことと、相補的な関係にあるのだろうか。ネット書店が本との出会いを十分に提供できていないことは前回書いた通りだ(そういえば街の本屋が本との出会いを提供できていない、という指摘をするなら、それはネット書店だって同じか、たぶんそれ以下だ、ということも意識しておくべきである)。街の本屋が負けたから本との出会いが変わったのか、本との出会いが変わったから街の本屋が負けたのか、あるいはその2つは無関係なのか、いまは十分な材料がないから、その判断は擱いておくが、随分な相関があるようにも思う。
そしてたぶん、本とネット上の情報の位置づけも、きっと逆転している。とりあえず手っ取り早く知るための間に合わせであったのはもう、遠い遠い過去の話だ。たしかに本は読まなくなったかもしれないが、読む文字の量はおそらく圧倒的に増えているのだろう。質を問わないなら、知ることだけはいくらでもできる。それでも深く確かな情報を知りたいとか、物理的に手に入れたいというときだけ、本を買えばいい、いつのまにかそうなってしまった。たぶんリテラシーそのものは下がっていなくて、編集と校閲の手を通した、ある程度たしかな情報の方が縁遠くなってしまったから、人は偽の情報を多く手に入れることになったのだろう。
少し話が逸れたが、ここで言いたいのは、リアル書店ネイティブとアマゾンネイティブにとって、本との出会い方におそらく重大な差異があるということ。そして日常的に本屋に行かないという人は、限りなくアマゾンネイティブに近い出会い方をしているということ。そして、アマゾンから出版文化を守ろう、という主張は、一見まともに思われるけれども、実は棚を読む技術を身に付けた一部のインテリの思い上がりに過ぎないのかもしれない、ということ。アマゾンが日本でサービスを始めたのが2000年、それでも00年代は、アマゾンが黒船と言われこそすれ、既存書店を淘汰することはない、という楽観論が、なんとなく漂っていたように思う。実はあれって、棚を作る人と読む人の、じつは希薄な信頼関係の上に成り立っていたのではなかったか。
棚を読むことが、本を買うために必要なスキルでなくなった以上、本屋は棚が読めない人のための出会いを、すべきなのだろうか。それはある意味で、本屋としての質を下げるみたいな印象がなくはないし、可能なことなのかも分からない。しかし従来のやり方に留まって殿様商売を続けていれば、それこそ出版文化は滅びる。
CCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)が運営するいわゆる「TSUTAYA図書館」が、一般的なNDC分類(日本十進分類法)ではない独自の図書分類で棚を整理して、分かりづらいとか見つけづらいと批判されたことがあった。しかしそれは、稚拙であったとはいえ、運営側が市民にとって分かりやすく本と出会うための工夫として編み出したものであった。NDCで欲しい本の場所が分かる人なんて、きっと大学生活を図書館に入り浸って生活した人だけではないのか。もっと親しみやすい棚の作りかただって、あっていい。というか、そうしないと図書は市民からずっと遠ざかってゆく。
正直にいえば、Twitterで目にしただけの本を買う気になるという感覚が、ほとんどわたしには分からない。だけど分からないのはわたしが棚を読めるからであって、そして現実にはそれを行っている人が、世の中には多数なのだ。文字の多くてやたらと改行の多い「分かりやすい」「役に立つ」つまりなにも考えなくても読めるようなビジネス書のほうが、考える楽しみを与えてくれる本よりもずっと売れているように、この世の中はわたしにはわからないことだらけだけど、それが現実なのだ。
一度失われた文化は二度と息を吹き返さない。この感染症による不況のなかで、多くの文化が失われて、わたしたちが身にしみて学んだことのひとつだ。出版文化を守る、それはたしかに大切なことだ。だけどそのために闘うべき相手は、アマゾンではない。もっと大きなもののはずだ。いまはそれしか、分からないけれど、アマゾンを不買するだけで守れるような出版文化ではないはずだ。ただ、闘うための1つの糸口が〈棚〉であることは、たしかだと思う。棚の復権、あるいはその代替の創造。
恐怖心に駆られて大きな敵を作り上げることではなくて、冷静に起こっていることを見つめてから解決に至る道が見出されることを、期待している。
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