傷ついた言葉を取り戻すために
ビジネスの世界とは無縁で生きてきたし、これからも生きていくだろう。片隅でぽつりと自分の居場所を確保しながら、キラキラしない地味人間として好きなように生きてくだろう。
他人の期待に寄り添って優等生で生きていた頃は、人に認められ、人と比べて自分が優れている部分をひとつでも多く探すことを拠り所にしていた。もともと自己否定感の塊だったわたしは、駄目じゃない自分を証明することでしか自分を保つことができなかったのだろう。器用にいろいろなことを小手先のテクニックでこなすことはできるタイプだったから、やればそれなりに評価された。勉強も趣味もいろいろ。
でもそれは一方で、辛いことでもあった。つねに周囲の評価の軸に頼らないと生きていけないから、良い子として褒められること、才能を認められることにしか価値をおけない。ありのままの自分ではなく、褒められているという条件付きでの自己肯定感。そして、他人の評価に頼って生きているのは、自分じゃない誰かの命を生きているみたいだ。誰にでも取り替えのきく命を。試験問題を出されれば解ける。仕事を与えられればできる。だけどそれって、自分のやりたいことなのだろうか? 与えられた課題ばかりクリアして積み上げられていく「荒木駿」という役割。他人の服を着せられていくうちに、自分がスカスカになっていくみたいだった。
ある島の飲み屋で、歯に衣着せぬ物言いの女主人に言われた言葉が今でも忘れられない。その夜は音楽好きたちが楽器を持ってやってきていた。わたしも鞄にハーモニカが入っていたから、軽くスリーコードでセッションしてみた。そのとき、つま先から鼻毛までブルース魂で生きている女主人は、所詮ブルースもどきにすぎないわたしの演奏を聞いて、「聞いてらんないから、止めて」と言った。そして、こういった。
なにも答えられなかった。スカスカの自分を見透かされたみたいだった。上辺だけ綺麗で中身のないハリボテ人間の荒木駿君の息の根はこの時に止まった。いまでもその言葉は、深く胸の奥に突き刺さっていて、器用な部分が芽を出すとすぐに戒める。
女主人は言った。「わたしは酒飲むことだね。それだけだよ。酒飲むためにこの島来たんだから。」
その頃からだろうか。わたしは自分の過去について、辛かったことも苦しかったこともふくめて、ちゃんと目を向けるようになったのは。十代の頃に抱えていた生きづらさを思い出して、そこに正面から向き合うことができた。そしてそれは、自分が自分の人生のなかで突き詰めることのできるひとつのテーマだと思った。自分が経験した生きづらさを冷静に考え、おなじような経験をした人たちにも居場所をつくることができたらいい。居場所は物理的な場所じゃなくても、バーチャルな空間でも精神的なものでも、言葉でもいい。それが、わたしだからこそできることだ。
もちろん、人生で突き詰めるテーマというのはひとつじゃなくていいし、過去の経験に紐付いていなければいけないわけでもない。自分だからこそできること、というのは、自分にしかできないことじゃなくてもいい。自分にしか出来ないことを探すと、たいてい視野が狭くなってろくなことにならないから。わたしは、スカスカ人間の時代に失われた自分の言葉を取り戻すために、できるだけ世間の風潮や流行や同調圧力に流されず、自分の好きな音楽や本を楽しみ、趣味を掘り下げることもしてきた。いまだに東野圭吾は読んだことないし、AKBとか乃木坂とか名前は一人もわからないし、マーベルの映画は一本も見たことがないし、流行の服は持ってない。けど、永井荷風は全部読んだし、リンクレイター監督作品は全作何回も観たし、東京国立博物館には少なくとも月に3回は行っている。
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そして、もうひとつ大切にしていることが、「もやもや」を大切にすることだ。(前置きが長かったけれど、ここからが本題ですよー、いいですかー?)「もやもや」は「わかりにくさ」と言い換えてもいい。前にも書いたことだけれど、この世界の現実は、複雑で、わかりにくい。世の中には人間が解釈できる以上に様々な力が働いていて、わかりやすいものではない。今は、ネットで検索すれば、わからないこともまとめサイトやWikipediaがわかりやすく教えてくれる。難しい社会問題だって池上彰さんの解説が教えてくれる。ネットにはすぐ読める解説みたいな文章が溢れている。だけどそれって他人によってすでにかみ砕かれたものであって、その人がもっている枠組みや目的に合わせてすでに解釈されたものだ。読みやすい解説の類は既存の知識や情報を調べて手早くまとめただけの焼き直しにすぎない。そんなわかりやすい情報ばかりを与えられていると、離乳食を食べさせられているような気分になるのはわたしだけだろうか。すでに咀嚼されたものばかり与えられていると、自分で噛む力が弱くなる、考える力が失われてしまうかもしれない。
去年の秋に出版されたビジネス書『西洋美術史 世界のビジネスエリートが身につける教養』という本が、いまだに平積みになっていて、美術書のコーナーにいくたびにやりきれない思いがする。著者の主張は明確だ。美術作品は宗教・神話的な意味が描き込まれており、また制作当時の政治・社会など歴史的背景に影響されているものであるから、それを読み解くことは世界の教養人の嗜みであり、ビジネスの世界でこそ求められるものだと。そこまではわたしも同意する。わたしも一応の美術愛好家のはしくれであり(東洋美術専門ですが)、絵画に込められた意味の多くは宗教や神話に関するものだし(この分野を図像学といいます)、美術品には政治や社会や外交・交易関係が深く関わっているから、それを読み解くのは間違いなく知的な面白さが伴う。それをディスカッションするのは知性のなせる技だ。
だけど、自分が持っている歴史や宗教の知識を動員して、絵画を自らの力で読み解いていくことと、「これ1冊で、あなたもグローバルスタンダードの教養を身につけられる」と謳う本(しかも児童書みたいに文字が大きい)に答えを教えてもらうこととは、月とスッポンどころか、スッポンポンくらいの違いがあるように思う。ウォーリーを自分で探すのか、探してくれるのかの違いだ。ビジネスの世界のことはわからないけど、「世界のビジネスエリート」の知性って、そんな付け焼き刃の知識で間に合うようなものなの?
しかも、なんで「西洋」美術史なのか。西洋のビジネスエリートに迎合して彼らと同じ知識を身に付けることが、果たして世界で対等に渡り合うための知性なのか。自らの依って立つところの文化を知り、世界の人びとに対して説明できるようになることが対等じゃないのか。だとしたら学ぶべきは日本美術史じゃないのか。ただ英語と欧米ベースの知識を身に付けただけのグローバルな人材を量産するって、なんだか「猿真似」と批判された鹿鳴館に代表される明治の「近代化」と同じものを感じるのだけど、この問題については前に書いたからこれ以上は何も言わない。
べつに、この本が分かりやすかったので例に出しただけで、これ一冊だけを叩くつもりはない。how to系のビジネス書に書かれている仕事術みたいなものって、本に書かれているようなエラい方々は自分で編み出したわけであって、決して本を読んでマネした訳じゃないでしょう。そこに、ビジネス書に書かれている人とビジネス書を読む人の決定的な違い、すなわち自ら考えて答えを出すことと答えを教えて貰うことの違い、があるようにも思うのだが。それともビジネスって、他人に答えを教えて貰ってそれを活かして生きていける世界なんだろうか。だとしたら、それはそれでいい。わたしの関知しない世界だから、わたしは何も言わない。そういうメインストリームには乗らず、片隅で居場所作りをやりますので。。
ビジネスの世界の常識を世界の常識であるかのように振る舞う意識高い系の人たちは、わたしは相手にしないからね。社会一般と学問の世界との間、あるいはアメリカと日本の間にある程度の断絶があるように、ビジネスの世界ともある程度の断絶があるのは当然だと思うのよねー。だからわたしは「異文化」には口を出さないし、「異文化」から聞こえてくる一方的な声にも耳を貸さない。
わたしが言いたかったのは、そうやって知識をただ吸収するのが世渡り上手な生き方だとしても、わたしには、それが自らの力には必ずしもなっていないというか、むしろ力を殺いでいるように見えるのだ。そして、考える力を身に付けるには、ある程度、分からないものごとに向き合うための忍耐が必要だ。
「分からない」って大事なことだと思う。小中学校みたいに、点数で評価するシステムが身についてしまうと、分かることばかりが評価される。「分かりません」というと怒られるというのは全く理不尽な話だ。自分が「分からない」ということを知るからこそ、分からないことを分かるために考えたり調べたりという努力をする。分からないことを怒ってしまっては、成長の芽さえも摘み取ってしまうことに思えてならない。これはなんだろう、なんでだろう、と常に疑問を持ち続けることは大切なことだと思うけれど、普通の人たちが「当たり前」として見過ごしてしまうことに疑問を差し挟むことは、迷惑がられているのが実際のところだ。(だから、社会学者も人類学者も世間では評判が悪い)
そして、もやもや、つまりこの世界の複雑さと向き合うのは、いらだたしく、もどかしい。だからこそわかりやすい説明に頼ってしまいがちだ。典型的な例が、「善」や「悪」といった軸で解釈してしまうことだろう。森達也氏は次のように書いている。
ちなみにこの文章は森氏が呼びかけ人となって、麻原を治療して真相を語らせるべきだという「オウム事件真相究明の会」への江川紹子氏の批判への反論の冒頭であり、それ自体とてもよい文章なのでぜひ読んでいただきたい。
分かりやすさの暴力によって、言葉が「傷ついている」と赤坂さんは表現する。実際、赤坂さんの言葉は、繊細で、美しく、奥深い。昨年話題になった『性食考』を読んでみればその重みのあり味わい深い文章に心打たれるだろう。さて、赤坂さんのいう「それに抗おうとする人びとの静かな戦い」の一例としてわたしが思い出すのは、先日カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝裕和監督だ。彼は、
人の意見を聞くこと、多角的に、そして柔軟にものごとを考えること、人を傷つける言動をしないこと。これらが大切であることは、わたしが言うまでもないし、当たり前であるように思う。そんな当たり前のことさえできないくらいに、言葉は傷ついているし、傷ついた言葉によって、わたしたちの想像力も忍耐強さも摩耗している。
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傷ついた言葉を取り戻すために、岡本太郎の言葉を思い出そう。
それと比べれば、村上春樹の小説は面白いし、楽しいディズニー映画、綺麗なアートラボの作品とか、それらはみんな一流の娯楽だとは思う。だけど、そこに、人生を覆すような新しい価値観との出会いはあるのだろうか。人生の意味や、愛に内在する矛盾や、大人になることの意味を問いかけ、迫るような文学性はあるのだろうか。多くの人がハッピーエンドが好きだけど、重苦しく胸に迫ってくる作品のモヤモヤこそが、わたしたちに思考をもたらし、新しい価値観や考え方を持つためのきっかけになるのではないか。高校生のときに読まされた森鴎外の『舞姫』、豊太郎はクソ野郎でエリスが気の毒で、まったく綺麗でも心地よくもないけれど、国や家を背負った豊太郎の選択にこそ、鴎外の提起した問題の核心があるのだから。好きか嫌いかとか、上手いか下手か、美しいか醜いか、心地よいか気持ち悪いか、自分が見たいか見たくないかは、その表現そのものが持つ意味とは全く関係がない。だからこそ醜いものにも嫌いなものにも目を向ける必要がある。それはわからないモヤモヤを見つめるのと同じで、いらだたしくて忍耐を要求するものだ。
けだしわたしたちは心地よさ、あるいは不安や恐怖の演出によって、誘導されてはいないだろうか。テレビを付ければ、報道番組にまでBGMが使われていて、悪者を断罪するストーリーが展開されている。バラエティ番組は人が不得手なことをバカにし、それを「イジり」といって肯定する。教養番組でさえ明らかに後付けの「えー!?」という効果音を使って大したことない知識を新発見であるかのように演出する。あるいは太った男女をダイエットさせ、そこで展開される喧嘩を楽しむ。犯罪者を捕まえて正義を振りかざす。他人の不幸や波乱に味付けをして楽しむことも問題だと思うけれど、ここで言いたいのは、見ているわたしたちと見られる対象の関係が正義と悪者、強者と弱者、正常と異常の軸で整理され、巧みに娯楽としての心地よさとセットになってわたしたちに届けられている点だ。わかりやすさと一緒になった暴力が潜んでいるようにも思うのだ。
事実と評価を区別すること、というのは大学1年生がレポートを書くときに最初に教わることのひとつだろう。傷ついた言葉には、事実も評価も批判も罵倒も、好きか嫌いかも、感情の誘導までぜんぶ一緒くたになって、乗っかってくる。だからこそわたしたちはそれらを丁寧にもう一度腑分けして、整理しないといけない。何が事実で、それを事実だとする根拠は何か。それに対する書き手の評価はどうか、その評価軸は何か。書き手が伝えたい思いは何か、読み手にどう思わせようとしているのか。それに乗っかって良いのか否か。これだって大学1年生で教わるような単純なことだけど、平易な言葉からこれらを峻別することは難しい。今の時代に求められるひとつのリテラシーではないだろうか。
活字離れが叫ばれて久しいが、わたしたちが書き言葉に接する機会は、おそらくこれまでにないくらいに増えている。ネットには日々生まれては忘れられていく言葉が溢れている。量は間違いなく増えているが、質はどうなのだろう。他人の知識を噛み砕いただけの言葉や、人を傷つけるための言葉、思いつきにちょっと色を加えただけの言葉。こんなふうに量産され、使い捨てにされてゆく言葉たち。もう忘れられているかもしれないけど、WELQ事件の核はここにあると思う。誰かが消化しやすくミキサーにかけてくれたドロドロの言葉を聞き流す/読み流すのは、もうやめにしませんか。日々大量に浴びている言葉から取捨選択し、考え、身に付けることが思考する主体たる「私」をかたちづくっているのだとしたら、やはりインプットのほうの質も担保しておかなければ、自分も大量生産大量消費の言葉の寄せ集めに過ぎなくなってしまう。
だからわたしは、Twitterとも距離を置いてきたし、ブログもそんなに頻繁には更新していない。1つの記事を書くために、時間をかけて構想を練って、伝える価値があると思ったものだけを書くようにしているし、やたら改行の多い見た目も中身もスカスカな文章を書くつもりにはなれなかった。
そしてまた、人に与えられた言葉が、人を蔑み、貶め、傷つけるために使われるのはかなしい。人の心を切り裂くのではなく、癒やすために、言葉を使いたい。わたしは多くの人の言葉にに支えられながら、ここまで歩いてくることができた。誰かが掛けてくれた、書いてくれた優しいことばで、いくつの眠れない夜が越せただろうか。わたしもそんな言葉が書きたい。
少しずつですが、書き続けていきます。
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「口の達者な奴のほうが偉い世の中なんて、俺は真っ平やわ。……俺は、いっこもおもんなくても、口下手な奴のほう信じるわ」
吉田修一の新作にこんな一節があった。(7)
また、とある雑誌は「コミュ障」を特集し、最近の風潮を「コミュニケーション至上主義」と読んだ。コミュニケーションを能力で切り貼りすること自体、まったく意味が分からないけれど、いわゆるコミュ力という言葉が使われるとき、そこで言われているコミュニケーションというのは、初対面の人とすぐに打ち解けて関係を築く技術であったり、手っ取り早く分かりやすく何かを伝えたり、あるいは周囲を盛り上げる能力であったりするらしい。それは往々にしてビジネスシーンのような、コミュニケーションや人との関わりそれ自体が目的なのではなく、それを手段にして利益を得ようとする文脈に支えられているようにも見える。世知辛い。
そういう「コミュ力」を持った人の長所は、とても、分かりやすい。昨今、「分かりやすさ」が重んじられているなかで、口下手な人間が時間を掛けて要領を得ない言葉で、転回を重ねながら喋ろうとする言葉は、切り捨てられてしまわれがちだ。たしかに、コミュニケーションが目的達成のための手段であるならば、じっくりと人の話に耳を傾け、相手の思考の過程を追いながら、ともに考える時間は、無駄なのだろう。だけど、人と人が関わるというのは、そういう無駄を切り捨ててしまって成り立つものではないだろう。どもり、口ごもり、赤面し、言葉にならずに残った思いを照れ笑いで隠す、その場に一緒にいることにも、意味があるのではなかったのか。
コミュニケーション、すなわち、意志を伝える/受け取ることには、相手の思いを感じ取ることも、ゆっくりと相手の発話を待つことも、時間を掛けて難しいことを説明することも、ただ相手の気持ちに思いを馳せることも、ともに泣いたり喜んだりすることも、あらゆる相互行為がふくまれる。上手くいかないことも含めてコミュニケーションではないのか。「能力」なんかで切り取れるようなものなのか。
人見知りを「克服」すべきものだとも思わない。つねに明るく、元気よく人と接することが価値だとも思わない。場を盛り上げることや、周囲に合わせて口先だけの会話をすることが優れたコミュニケーションだとも、わたしは思わない。地味な人間で結構だと思う。
むしろ、そういうコミュニケーションのあり方に居心地の悪さを感じ、立ち去ってしまいたくなるような人が、わたしは好きなのかもしれない。初対面で何を喋っていいかわからなくて気まずくなる人。話したいと思っていながら、話すきっかけを掴めないまま疎遠になる人。話の途中に、相手の時間を取り過ぎているのではないかと不安になって会話をやめてしまう人。自分からは誰かを誘ったりは滅多にしない人。わたし自身がそういう人間だからだ。
わたしには「コミュ力」なんてない。そんなもの、いらない。だけどわたしには、わたしなりのコミュニケーションの仕方がある。思いの伝え方がある。人との付き合い方がある。人への思いやりも、おそらく少しはある。分かり合える人たちは、多くはないかもしれないが、たしかにいる。人見知りで口下手なだけで、コミュニケーション能力がないのだと言うような人のほうがよっぽどコミュニケーション能力がないのではないかとさえ、思ってしまう。
【出典】
(1) 赤坂憲雄・寺尾紗穂「(あなたへ 往復書簡)3通目 赤坂憲雄より寺尾紗穂様へ ゴジラ生んだ「移民の楽園」」『朝日新聞』2017年12月30日、25面。
(2) 石飛徳樹(聞き手)「世の中は分かりやすくない 「万引き家族」でカンヌ最高賞、是枝裕和監督インタビュー」『朝日新聞』2018年6月25日、33面。
(3) 赤坂憲雄『3・11から考える「この国のかたち」:東北学を再建する』2012年、新潮選書、63-64頁。
(4) 同上、63頁。
(5) 岡本太郎『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社知恵の森文庫、[1954]1999年、98頁。
(6) 同上、99頁。
(7) 吉田修一、『国宝 下 花道編』2018年、朝日新聞出版、272頁。
他人の期待に寄り添って優等生で生きていた頃は、人に認められ、人と比べて自分が優れている部分をひとつでも多く探すことを拠り所にしていた。もともと自己否定感の塊だったわたしは、駄目じゃない自分を証明することでしか自分を保つことができなかったのだろう。器用にいろいろなことを小手先のテクニックでこなすことはできるタイプだったから、やればそれなりに評価された。勉強も趣味もいろいろ。
でもそれは一方で、辛いことでもあった。つねに周囲の評価の軸に頼らないと生きていけないから、良い子として褒められること、才能を認められることにしか価値をおけない。ありのままの自分ではなく、褒められているという条件付きでの自己肯定感。そして、他人の評価に頼って生きているのは、自分じゃない誰かの命を生きているみたいだ。誰にでも取り替えのきく命を。試験問題を出されれば解ける。仕事を与えられればできる。だけどそれって、自分のやりたいことなのだろうか? 与えられた課題ばかりクリアして積み上げられていく「荒木駿」という役割。他人の服を着せられていくうちに、自分がスカスカになっていくみたいだった。
ある島の飲み屋で、歯に衣着せぬ物言いの女主人に言われた言葉が今でも忘れられない。その夜は音楽好きたちが楽器を持ってやってきていた。わたしも鞄にハーモニカが入っていたから、軽くスリーコードでセッションしてみた。そのとき、つま先から鼻毛までブルース魂で生きている女主人は、所詮ブルースもどきにすぎないわたしの演奏を聞いて、「聞いてらんないから、止めて」と言った。そして、こういった。
「駿君はさぁ、いままで器用に、いろんなことこなしてきたかもしんないけどさぁ、アンタが自分の人生で突き詰めたことって何なの? 何を極めた訳?」
なにも答えられなかった。スカスカの自分を見透かされたみたいだった。上辺だけ綺麗で中身のないハリボテ人間の荒木駿君の息の根はこの時に止まった。いまでもその言葉は、深く胸の奥に突き刺さっていて、器用な部分が芽を出すとすぐに戒める。
女主人は言った。「わたしは酒飲むことだね。それだけだよ。酒飲むためにこの島来たんだから。」
その頃からだろうか。わたしは自分の過去について、辛かったことも苦しかったこともふくめて、ちゃんと目を向けるようになったのは。十代の頃に抱えていた生きづらさを思い出して、そこに正面から向き合うことができた。そしてそれは、自分が自分の人生のなかで突き詰めることのできるひとつのテーマだと思った。自分が経験した生きづらさを冷静に考え、おなじような経験をした人たちにも居場所をつくることができたらいい。居場所は物理的な場所じゃなくても、バーチャルな空間でも精神的なものでも、言葉でもいい。それが、わたしだからこそできることだ。
もちろん、人生で突き詰めるテーマというのはひとつじゃなくていいし、過去の経験に紐付いていなければいけないわけでもない。自分だからこそできること、というのは、自分にしかできないことじゃなくてもいい。自分にしか出来ないことを探すと、たいてい視野が狭くなってろくなことにならないから。わたしは、スカスカ人間の時代に失われた自分の言葉を取り戻すために、できるだけ世間の風潮や流行や同調圧力に流されず、自分の好きな音楽や本を楽しみ、趣味を掘り下げることもしてきた。いまだに東野圭吾は読んだことないし、AKBとか乃木坂とか名前は一人もわからないし、マーベルの映画は一本も見たことがないし、流行の服は持ってない。けど、永井荷風は全部読んだし、リンクレイター監督作品は全作何回も観たし、東京国立博物館には少なくとも月に3回は行っている。
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そして、もうひとつ大切にしていることが、「もやもや」を大切にすることだ。(前置きが長かったけれど、ここからが本題ですよー、いいですかー?)「もやもや」は「わかりにくさ」と言い換えてもいい。前にも書いたことだけれど、この世界の現実は、複雑で、わかりにくい。世の中には人間が解釈できる以上に様々な力が働いていて、わかりやすいものではない。今は、ネットで検索すれば、わからないこともまとめサイトやWikipediaがわかりやすく教えてくれる。難しい社会問題だって池上彰さんの解説が教えてくれる。ネットにはすぐ読める解説みたいな文章が溢れている。だけどそれって他人によってすでにかみ砕かれたものであって、その人がもっている枠組みや目的に合わせてすでに解釈されたものだ。読みやすい解説の類は既存の知識や情報を調べて手早くまとめただけの焼き直しにすぎない。そんなわかりやすい情報ばかりを与えられていると、離乳食を食べさせられているような気分になるのはわたしだけだろうか。すでに咀嚼されたものばかり与えられていると、自分で噛む力が弱くなる、考える力が失われてしまうかもしれない。
去年の秋に出版されたビジネス書『西洋美術史 世界のビジネスエリートが身につける教養』という本が、いまだに平積みになっていて、美術書のコーナーにいくたびにやりきれない思いがする。著者の主張は明確だ。美術作品は宗教・神話的な意味が描き込まれており、また制作当時の政治・社会など歴史的背景に影響されているものであるから、それを読み解くことは世界の教養人の嗜みであり、ビジネスの世界でこそ求められるものだと。そこまではわたしも同意する。わたしも一応の美術愛好家のはしくれであり(東洋美術専門ですが)、絵画に込められた意味の多くは宗教や神話に関するものだし(この分野を図像学といいます)、美術品には政治や社会や外交・交易関係が深く関わっているから、それを読み解くのは間違いなく知的な面白さが伴う。それをディスカッションするのは知性のなせる技だ。
だけど、自分が持っている歴史や宗教の知識を動員して、絵画を自らの力で読み解いていくことと、「これ1冊で、あなたもグローバルスタンダードの教養を身につけられる」と謳う本(しかも児童書みたいに文字が大きい)に答えを教えてもらうこととは、月とスッポンどころか、スッポンポンくらいの違いがあるように思う。ウォーリーを自分で探すのか、探してくれるのかの違いだ。ビジネスの世界のことはわからないけど、「世界のビジネスエリート」の知性って、そんな付け焼き刃の知識で間に合うようなものなの?
しかも、なんで「西洋」美術史なのか。西洋のビジネスエリートに迎合して彼らと同じ知識を身に付けることが、果たして世界で対等に渡り合うための知性なのか。自らの依って立つところの文化を知り、世界の人びとに対して説明できるようになることが対等じゃないのか。だとしたら学ぶべきは日本美術史じゃないのか。ただ英語と欧米ベースの知識を身に付けただけのグローバルな人材を量産するって、なんだか「猿真似」と批判された鹿鳴館に代表される明治の「近代化」と同じものを感じるのだけど、この問題については前に書いたからこれ以上は何も言わない。
べつに、この本が分かりやすかったので例に出しただけで、これ一冊だけを叩くつもりはない。how to系のビジネス書に書かれている仕事術みたいなものって、本に書かれているようなエラい方々は自分で編み出したわけであって、決して本を読んでマネした訳じゃないでしょう。そこに、ビジネス書に書かれている人とビジネス書を読む人の決定的な違い、すなわち自ら考えて答えを出すことと答えを教えて貰うことの違い、があるようにも思うのだが。それともビジネスって、他人に答えを教えて貰ってそれを活かして生きていける世界なんだろうか。だとしたら、それはそれでいい。わたしの関知しない世界だから、わたしは何も言わない。そういうメインストリームには乗らず、片隅で居場所作りをやりますので。。
わたしが言いたかったのは、そうやって知識をただ吸収するのが世渡り上手な生き方だとしても、わたしには、それが自らの力には必ずしもなっていないというか、むしろ力を殺いでいるように見えるのだ。そして、考える力を身に付けるには、ある程度、分からないものごとに向き合うための忍耐が必要だ。
「分からない」って大事なことだと思う。小中学校みたいに、点数で評価するシステムが身についてしまうと、分かることばかりが評価される。「分かりません」というと怒られるというのは全く理不尽な話だ。自分が「分からない」ということを知るからこそ、分からないことを分かるために考えたり調べたりという努力をする。分からないことを怒ってしまっては、成長の芽さえも摘み取ってしまうことに思えてならない。これはなんだろう、なんでだろう、と常に疑問を持ち続けることは大切なことだと思うけれど、普通の人たちが「当たり前」として見過ごしてしまうことに疑問を差し挟むことは、迷惑がられているのが実際のところだ。(だから、社会学者も人類学者も世間では評判が悪い)
そして、もやもや、つまりこの世界の複雑さと向き合うのは、いらだたしく、もどかしい。だからこそわかりやすい説明に頼ってしまいがちだ。典型的な例が、「善」や「悪」といった軸で解釈してしまうことだろう。森達也氏は次のように書いている。
「人は同じ景色を見ても違うことを考える。ニーチェは「事実はない。あるのは解釈だけだ」という言葉を残したが、それは情報の本質だ。コップは上や下から見れば円だけど、横から見れば長方形だ。さらに現実に起きる事件や事象は、コップのように単純な形ではない。多面的で多重的で多層的だ。だからこそその形は、視点によってくるくる変わる。[...]
真実と虚偽は簡単に区分けできない。グラデーションがある。木々の葉は緑一色ではない。幹も茶色一色ではない。いろんな色が混在している。混じり合っている。そのグレイゾーンが世界だ。
でもオウム真理教関連、特に麻原彰晃が関わる領域では、この多面的な認識が消えて1かゼロ、正義か悪、黒か白的なダイコトミーがとても強く発動する。オウムは絶対的な悪。ならばそれに対峙する自分は絶対的な正義。これが座標軸になるからだろうか。だからこそ自分と違う意見を100%否定したくなる。デマだとか嘘だなどと罵倒したくなる。そんな人がとても多い。」
出所:それでも麻原を治療して、語らせるべきだった…「オウム事件真相究明の会」森達也氏による、江川紹子氏への反論
ちなみにこの文章は森氏が呼びかけ人となって、麻原を治療して真相を語らせるべきだという「オウム事件真相究明の会」への江川紹子氏の批判への反論の冒頭であり、それ自体とてもよい文章なのでぜひ読んでいただきたい。
往々にして人は、自分の見たい景色に安住してしまう。特にそれが善や悪、といったわかりやすい座標軸であるときに。そうして分かったつもりになって他人を叩いたり批判したりしてしまいがちだ。いわゆるネット右翼の方々が使う「反日」というレッテルなんかは典型だ。この世の中を敵か味方かに分けてしまえば、とても分かりやすいし、楽だ。それに、自分と意見の異なる他人を叩くのは楽しい。そうやって人は、見たい枠組みで物事を捉え、それ以外の部分を切り捨ててしまう。そうすると複雑な現実は、ますます遠ざかっていく。群盲象を評すという言葉があるが、一面だけを見て分かった気になるのではなくて、さまざまな視点を持つことが大切なのだ。自分がどう思いたいか、どう評価するかは一旦脇に置いて、現実をしっかりと見なければいけない。コップが長方形に見えたからといって、その視点が全てだと思ってはいけないし、曲線が好きだからといって長方形を見なかったことにしてはいけない。そして、報道される情報だって、それは事実そのものではない。記者が社会的に必要だと思うものを切り取り、まとめて、言葉にする。それはなにかを言葉にする上での宿命だし、必要なことだ。だから森氏はいう。
森氏はオウムを断罪したがる同調圧力とは距離を置いて、当事者の内側の視点に寄り添ったドキュメンタリーを取り、書籍を上梓してきた。報道やドキュメンタリーだけではなく、学問の世界でも、文化人類学や社会学、民俗学などの分野では同様の手法が取られることが多い。わたしが尊敬してやまない民俗学者の赤坂憲雄氏は、徹底してその姿勢を貫いてきたように思える。長い時間をかけて東北の地を歩き、聞き、感じ、書き、伝えるという地道な作業を、くり返してきた。そんな赤坂さんも、「わかりやすさ」に警鐘を鳴らすひとりだ。以下は朝日新聞での寺尾紗穂さんとの往復書簡の一部から。メディアが提供するすべての情報は、記者やディレクターやカメラマンなど誰かの視点(バイアス)を介在している。人は見たいものを見て聞きたいものを聞く。それは僕も同様だ。撮影しながらフレームで状況を恣意的に切り取る、そして編集で取捨選択する。それがドキュメンタリーだ。客観的な事実などと口が裂けても言わない。言えるはずがない。作品として提示できるのは主観的な真実だ。事実など撮れない。人によって違うのだ。でも多くの人は、誰かが見たり聞いたりしてフィルタリングした情報を、たったひとつの真実とか客観的な事実だなどと思い込む。ジャーナリストの定義をひとつあげれば、自分が提供する情報に対しての負い目を常に持つことだと僕は思っている。だってそれは客観的な真実では決してない。主観的な真実なのだ。その負い目を抱えながら主張する。後ろめたさを引きずりながら記事を書く。歯を食いしばりながら撮影する。ジレンマだ。引き裂かれる。でも目を背けないこと。楽な道を選ばないこと。周囲に迎合して自分の主観を抑え込んだり裏切ったりしないこと。 (出所は同上)
「わかりやすさ」の暴力が蔓延していますね。それがどれほどわれわれ自身の感性を傷つけ、想像力を摩耗させていることか。荒涼として、どこか幼稚化しているのは、きっと政治や経済の言葉だけではありません。学問や文芸の言葉も、そして、日常の暮らしにかかわる言葉もまた、傷つき衰弱しているのでしょう。むろん、それに抗おうとする人々の静かな戦いはそこかしこに見いだされるし、悲観しているわけではありません。現実とはそもそも複雑怪奇な代物であり、混沌として、さだめなく浮遊しており、きちんと向かい合うためにはある種の忍耐が求められます。それを、「わかりやすさ」をモノサシにして切り貼りしていては、現実はいっそう暗がりへと遠ざかることでしょう。こうした「わかりやすさ」は、だれかを敵と見定め、憎悪を煽ることへと地続きなのだとも感じています。 (1)
分かりやすさの暴力によって、言葉が「傷ついている」と赤坂さんは表現する。実際、赤坂さんの言葉は、繊細で、美しく、奥深い。昨年話題になった『性食考』を読んでみればその重みのあり味わい深い文章に心打たれるだろう。さて、赤坂さんのいう「それに抗おうとする人びとの静かな戦い」の一例としてわたしが思い出すのは、先日カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した是枝裕和監督だ。彼は、
「だって、世の中って分かりやすくないよね。分かりやすく語ることが重要ではない。むしろ、一見分かりやすいことが実は分かりにくいんだ、ということを伝えていかねばならない。僕はそう思っています」(2)という。たしかに彼の映画は、説明しすぎないように作られている。そして、彼は分かりやすくて、意見を同じくする人にしか伝わらないような SNSで飛び交う言葉から豊かさを取り戻すために、こう言っている。
「僕は意図的に長い文章を書いています。これは冗談で言っていたんだけど、ツイッターを140字以内ではなく、140字以上でないと送信出来なくすればいいんじゃないか(笑)。短い言葉で『クソ』とか発信しても、そこからは何も生まれない。文章を長くすれば、もう少し考えて書くんじゃないか。字数って大事なんですよ」たしかに、字数制限があれば、分かりやすくて伝わりやすい言葉で書くしかない。そのために事実と評価がごっちゃになってしまったり、指摘や批判が罵倒の言葉に置き換えられたりする。「レイシスト」や「差別」という言葉でしか間違いを指摘できないから、固く鋭く相手に響く。だから、こんなにもたくさんの言葉が行き交っているのに、それが意見の異なる人のあいだで理解を促すのではなく、むしろ断絶を広げる方向に向かっているのはパラドクシカルだ。それは言葉の背後にある思いや文脈を考えることなしに、わかりやすく、単純に解釈してしまうせいでもあろう。ところで、赤坂さんは傷ついた言葉について、こうも書いている。
「同じ言葉でも、話す人の表情あるいは文脈によって違う意味を持つのは当たり前です。男同士の会話では「バカなやつ」が、ときには愛情表現になる。[...]言葉の持っている豊かさや幅が、どんどん狭まっているような気がします。三・一一以降のいま、わたしたちは言葉というものに、もう少しやわらかく、余裕をもっって向かい合うことを学び直すべきなのかもしれません。たぶん、この震災のなかで、とりわけ原発事故によって、わたしたちの言葉は眼には見えない、深い傷を負ったのです」(3)赤坂さんが引き合いに出すのは平野達男震災復興対策担当大臣が「私の高校の同級生みたいに逃げなかったバカなやつがいます」という言葉へのバッシングだ。「おそらくは哀悼の思いが込められていたはずの言葉の、まさに言葉尻をとらえて批判することには、徒労感にも似たむなしさを感じるのです」(4)という。たしかに、少しでも不適切な発言や行動をすると、鬼の首を取ったように騒ぐのは報道機関もネット民も同じだ。炎上というやつで、レイシストや反日といったレッテルだけでなく、クズとかゴミとかそれ以上の見るに堪えない罵詈雑言なんかが、一瞬の間に大量に浴びせかけられることになるし、場合によっては職場や学校や交友関係まで特定されてしまう。仮に筋の通った批判であったとしても、拡散する勢いに乗って伝えられる「正義」の言葉は反省や再考を促すよりも恐怖と憎悪を煽るだろうし、「特定」とバッシングの嵐は一度の失敗も許さない、息苦しい圧力になっているように思う。拡散する正義もまた、わたしには暴力に見えるのだ。
人の意見を聞くこと、多角的に、そして柔軟にものごとを考えること、人を傷つける言動をしないこと。これらが大切であることは、わたしが言うまでもないし、当たり前であるように思う。そんな当たり前のことさえできないくらいに、言葉は傷ついているし、傷ついた言葉によって、わたしたちの想像力も忍耐強さも摩耗している。
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傷ついた言葉を取り戻すために、岡本太郎の言葉を思い出そう。
今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。(5)芸術だけではない。人は、ややもすれば、綺麗なものや心地よいものに安心して、それだけを受け入れてしまいがちだ。でもそこに安住していては、なにも生まれない。太郎の求めたのは「見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、そのひとの生活自体を変えてしまうというほどの力をもったもの」(6)だった。わたしは子どもの頃、万博記念公園に連れて行かれるたびに太陽の塔が恐くて泣いたけれど、太郎の意図はそこにこそあったのだろう。見る者を圧倒し、価値観を揺さぶること。しかし、当時のわたしは覆るほどの確固とした世界観さえも持っていなくて、ただ威圧されて、泣いていたのだろう。
それと比べれば、村上春樹の小説は面白いし、楽しいディズニー映画、綺麗なアートラボの作品とか、それらはみんな一流の娯楽だとは思う。だけど、そこに、人生を覆すような新しい価値観との出会いはあるのだろうか。人生の意味や、愛に内在する矛盾や、大人になることの意味を問いかけ、迫るような文学性はあるのだろうか。多くの人がハッピーエンドが好きだけど、重苦しく胸に迫ってくる作品のモヤモヤこそが、わたしたちに思考をもたらし、新しい価値観や考え方を持つためのきっかけになるのではないか。高校生のときに読まされた森鴎外の『舞姫』、豊太郎はクソ野郎でエリスが気の毒で、まったく綺麗でも心地よくもないけれど、国や家を背負った豊太郎の選択にこそ、鴎外の提起した問題の核心があるのだから。好きか嫌いかとか、上手いか下手か、美しいか醜いか、心地よいか気持ち悪いか、自分が見たいか見たくないかは、その表現そのものが持つ意味とは全く関係がない。だからこそ醜いものにも嫌いなものにも目を向ける必要がある。それはわからないモヤモヤを見つめるのと同じで、いらだたしくて忍耐を要求するものだ。
けだしわたしたちは心地よさ、あるいは不安や恐怖の演出によって、誘導されてはいないだろうか。テレビを付ければ、報道番組にまでBGMが使われていて、悪者を断罪するストーリーが展開されている。バラエティ番組は人が不得手なことをバカにし、それを「イジり」といって肯定する。教養番組でさえ明らかに後付けの「えー!?」という効果音を使って大したことない知識を新発見であるかのように演出する。あるいは太った男女をダイエットさせ、そこで展開される喧嘩を楽しむ。犯罪者を捕まえて正義を振りかざす。他人の不幸や波乱に味付けをして楽しむことも問題だと思うけれど、ここで言いたいのは、見ているわたしたちと見られる対象の関係が正義と悪者、強者と弱者、正常と異常の軸で整理され、巧みに娯楽としての心地よさとセットになってわたしたちに届けられている点だ。わかりやすさと一緒になった暴力が潜んでいるようにも思うのだ。
事実と評価を区別すること、というのは大学1年生がレポートを書くときに最初に教わることのひとつだろう。傷ついた言葉には、事実も評価も批判も罵倒も、好きか嫌いかも、感情の誘導までぜんぶ一緒くたになって、乗っかってくる。だからこそわたしたちはそれらを丁寧にもう一度腑分けして、整理しないといけない。何が事実で、それを事実だとする根拠は何か。それに対する書き手の評価はどうか、その評価軸は何か。書き手が伝えたい思いは何か、読み手にどう思わせようとしているのか。それに乗っかって良いのか否か。これだって大学1年生で教わるような単純なことだけど、平易な言葉からこれらを峻別することは難しい。今の時代に求められるひとつのリテラシーではないだろうか。
活字離れが叫ばれて久しいが、わたしたちが書き言葉に接する機会は、おそらくこれまでにないくらいに増えている。ネットには日々生まれては忘れられていく言葉が溢れている。量は間違いなく増えているが、質はどうなのだろう。他人の知識を噛み砕いただけの言葉や、人を傷つけるための言葉、思いつきにちょっと色を加えただけの言葉。こんなふうに量産され、使い捨てにされてゆく言葉たち。もう忘れられているかもしれないけど、WELQ事件の核はここにあると思う。誰かが消化しやすくミキサーにかけてくれたドロドロの言葉を聞き流す/読み流すのは、もうやめにしませんか。日々大量に浴びている言葉から取捨選択し、考え、身に付けることが思考する主体たる「私」をかたちづくっているのだとしたら、やはりインプットのほうの質も担保しておかなければ、自分も大量生産大量消費の言葉の寄せ集めに過ぎなくなってしまう。
だからわたしは、Twitterとも距離を置いてきたし、ブログもそんなに頻繁には更新していない。1つの記事を書くために、時間をかけて構想を練って、伝える価値があると思ったものだけを書くようにしているし、やたら改行の多い見た目も中身もスカスカな文章を書くつもりにはなれなかった。
そしてまた、人に与えられた言葉が、人を蔑み、貶め、傷つけるために使われるのはかなしい。人の心を切り裂くのではなく、癒やすために、言葉を使いたい。わたしは多くの人の言葉にに支えられながら、ここまで歩いてくることができた。誰かが掛けてくれた、書いてくれた優しいことばで、いくつの眠れない夜が越せただろうか。わたしもそんな言葉が書きたい。
少しずつですが、書き続けていきます。
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「口の達者な奴のほうが偉い世の中なんて、俺は真っ平やわ。……俺は、いっこもおもんなくても、口下手な奴のほう信じるわ」
吉田修一の新作にこんな一節があった。(7)
また、とある雑誌は「コミュ障」を特集し、最近の風潮を「コミュニケーション至上主義」と読んだ。コミュニケーションを能力で切り貼りすること自体、まったく意味が分からないけれど、いわゆるコミュ力という言葉が使われるとき、そこで言われているコミュニケーションというのは、初対面の人とすぐに打ち解けて関係を築く技術であったり、手っ取り早く分かりやすく何かを伝えたり、あるいは周囲を盛り上げる能力であったりするらしい。それは往々にしてビジネスシーンのような、コミュニケーションや人との関わりそれ自体が目的なのではなく、それを手段にして利益を得ようとする文脈に支えられているようにも見える。世知辛い。
そういう「コミュ力」を持った人の長所は、とても、分かりやすい。昨今、「分かりやすさ」が重んじられているなかで、口下手な人間が時間を掛けて要領を得ない言葉で、転回を重ねながら喋ろうとする言葉は、切り捨てられてしまわれがちだ。たしかに、コミュニケーションが目的達成のための手段であるならば、じっくりと人の話に耳を傾け、相手の思考の過程を追いながら、ともに考える時間は、無駄なのだろう。だけど、人と人が関わるというのは、そういう無駄を切り捨ててしまって成り立つものではないだろう。どもり、口ごもり、赤面し、言葉にならずに残った思いを照れ笑いで隠す、その場に一緒にいることにも、意味があるのではなかったのか。
コミュニケーション、すなわち、意志を伝える/受け取ることには、相手の思いを感じ取ることも、ゆっくりと相手の発話を待つことも、時間を掛けて難しいことを説明することも、ただ相手の気持ちに思いを馳せることも、ともに泣いたり喜んだりすることも、あらゆる相互行為がふくまれる。上手くいかないことも含めてコミュニケーションではないのか。「能力」なんかで切り取れるようなものなのか。
人見知りを「克服」すべきものだとも思わない。つねに明るく、元気よく人と接することが価値だとも思わない。場を盛り上げることや、周囲に合わせて口先だけの会話をすることが優れたコミュニケーションだとも、わたしは思わない。地味な人間で結構だと思う。
むしろ、そういうコミュニケーションのあり方に居心地の悪さを感じ、立ち去ってしまいたくなるような人が、わたしは好きなのかもしれない。初対面で何を喋っていいかわからなくて気まずくなる人。話したいと思っていながら、話すきっかけを掴めないまま疎遠になる人。話の途中に、相手の時間を取り過ぎているのではないかと不安になって会話をやめてしまう人。自分からは誰かを誘ったりは滅多にしない人。わたし自身がそういう人間だからだ。
わたしには「コミュ力」なんてない。そんなもの、いらない。だけどわたしには、わたしなりのコミュニケーションの仕方がある。思いの伝え方がある。人との付き合い方がある。人への思いやりも、おそらく少しはある。分かり合える人たちは、多くはないかもしれないが、たしかにいる。人見知りで口下手なだけで、コミュニケーション能力がないのだと言うような人のほうがよっぽどコミュニケーション能力がないのではないかとさえ、思ってしまう。
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(1) 赤坂憲雄・寺尾紗穂「(あなたへ 往復書簡)3通目 赤坂憲雄より寺尾紗穂様へ ゴジラ生んだ「移民の楽園」」『朝日新聞』2017年12月30日、25面。
(2) 石飛徳樹(聞き手)「世の中は分かりやすくない 「万引き家族」でカンヌ最高賞、是枝裕和監督インタビュー」『朝日新聞』2018年6月25日、33面。
(3) 赤坂憲雄『3・11から考える「この国のかたち」:東北学を再建する』2012年、新潮選書、63-64頁。
(4) 同上、63頁。
(5) 岡本太郎『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社知恵の森文庫、[1954]1999年、98頁。
(6) 同上、99頁。
(7) 吉田修一、『国宝 下 花道編』2018年、朝日新聞出版、272頁。
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