本に恋をするということ


 最近、アーレントの『人間の条件』を読む授業を受けている。そこでたまたま文体の話になって、先生がこんなことをおっしゃっていた。

「昔は、"100ページ祭り"って言葉があってね、カラマーゾフの兄弟でも何でもいいけど、最初の100ページって難しくてつまらないんですよね。つまりそこで読者を選別してるんですよ。ここまで読んだ人には、面白いことを教えてあげようっていう。古典っていうのはだいたいそうですね、そんなに分かりやすいものじゃない、スッキリと腹に落ちるものじゃないんですよね。でも今は、学期終わりに授業アンケートがあって、分かりやすかったかどうか評価したりとか、"5分で分かるニーチェ"みたいな、なんでも分かりやすいものが増えているけど、そういうのはアーレントの時代から見たら堕落ですね。」


 これを聞いて思い出した話がある。とある大学で、ある教員の授業があまりにも下手だというので会議で話題になったことがある。(ちなみにその先生は学士院にも入られ、文化勲章も受章された尊敬すべき先生である。) そのときに彼を擁護したのはある有名な科学史の先生(といえば、誰だかわかるでしょうけど)だったそうだ。
 科学史の先生がおっしゃったのは、ヴィトゲンシュタインがケンブリッジにいたとき、(彼は普段から全力で思考しながら講義していたのだが、)ある学生から質問を受けて、その場で長いこと考え込んでしまったらしい。そのうちに講義の時間が終わり、それでも考え込むヴィトゲンシュタインに学生達は盛大な拍手を送ったらしい。
 分からないことと向き合い、全力で思考し、理解しようとすることが学問なのだから、「分からせてもらうこと」を他人に求めるのは、知にとっては堕落でしかない。いま、講義中に全力で考え込む教員に拍手をするほどの知性が、残っているだろうか。

 そういえば以前、宮部みゆきさん(だったと思う)が、なにかのインタビューで、「オマージュとして有名な作品の言葉を引き合いに出したり、モチーフを模倣したりすることがあって、昔なら読者はそれが分からないと恥ずかしいからこっそり調べたりしたんだけど、今の人は平気で"分からない"って文句を言っている」という趣旨の発言をされていた。これも、知の堕落だろう。

 いまは、まとめサイトやニュースサイトとか、池上彰さんの解説とか、分かりやすい解説が身の回りに溢れているのだけど、その分自分の頭でじっくり考えたり知識を身につけたりする力がなくなっているのではないか、と危機感を覚えている。アーレントが『人間の条件』の冒頭で現代の特徴とした、そしてアイヒマンを形容した、「思考欠如(thoughtlessness)」ではないかと。

 いろいろなところで、「もやもや」が大切、と言うことにしている。柔らかいものばかり食べていると堅いものを食べられなくなるのと同じように、分かりやすいものばかり読んでいると難しいこと考えられなくなるから、分からない「もやもや」に時間を掛けて向き合ってください、と。

 本屋に行くと、売れ筋の本は「大学四年間の経済学が10時間で学べる」とか、「絶対にミスをしない人の脳の習慣」みたいな世渡りのためのビジネス書とか、「超訳○○の言葉」とか、自分で難しいことに立ち向かわなくてもすぐに他人が答えを教えてくれるような本ばかりでうんざりする。amazonのレビューを見ると、難しくて分からないことを著者のせいにするような書き込みが多くて唖然とする。プルーストの『失われた時を求めて』を一冊にまとめてしまうような暴挙がまかり通る時代だもの。だけど、それは逆に、生きる力を削いでいるのではないかと思う。

 本当に豊かな人生は、難解なことに向き合ってこそ花開く。

 だから、文学を愉しむ人はうつくしい。


********************************************************************


 本に恋をする。

 そんなことがあると思う。たんに好きとか気に入ったという意味ではなくて、もっと深くていとおしい感情。その本を、ずっと手元に置いておきたいと思う。その本の言葉を胸に抱いて生きる。人との関わり方を変える。辛いときや心がすり減ったときには、その本を手に取る。心のよりどころにして生きる。その本とともに、人生を生きる。

 そういう経験を、わたしは「恋」だと思っている。

 サンテグジュペリの『星の王子さま』はわたしも含めておそらく、多くの人が恋した作品ではないだろうか。わたしがいままで最も強く恋したのが永井荷風の『すみだ川』で、この一冊だけはいつも机の正面に置いてある。特別な一冊だから、特別な場所を与えた。



 初めて恋をした本、思春期に読んで世の中の見方ががらっと一変して、いままでモノクロだった世界に突如として色が付くような本を、わたしは「初恋の本」と呼ぶことにしている。
 わたしにとって、それは高校生のときに読んだヘッセの『車輪の下』だった。規則づくめで窮屈な学校生活に生きづらさを感じる主人公ハンスに自分を重ね合わせ、堕落を望み、夭折に憧れた。わたしもヘッセのように「詩人になるか、でなければなににもなりたくない」と言って学校を飛び出したかった。そして実際、高校を辞めたことの一部はこの本の影響だろう。
 その後もいろんな本に恋をした。ヘッセの次は太宰の『斜陽』で、やっぱり「人間は恋と革命のために生まれてきたのだ」と確信した。ほかにも池澤夏樹の『すばらしい新世界』や福永武彦の『草の花』のようにいまだに恋し続けている本もあれば、三浦綾子や山田詠美のように今では冷めてしまった恋もある。

 たくさんの本に恋することも、1つの本に深く恋することも、どちらも人生を豊かにしてくれると思う。

 そんなことを書いていると、「荒木、本じゃなくて人間にも恋しろよ!いつになったら彼女できるんだ?」という声が聞こえてきそうである。
 でも、江國香織さんが書かれたように、「恋はするものじゃなくて、おちるもの」なのだ。しようと思ってするんじゃなくて、気がついたら落ちている。だから彼女とは「ほしい」ものでも「作る」ものでも「できる」ものでもないのよね。どんなに濫読しても恋しない時もあるし、たまたま手に取った本に恋しちゃうこともある。たくさん出会えばいいってもんじゃない。

 たくさんの本に恋した素敵な女性になら、わたしもきっと深い恋ができるんだろうな。。。そんなこと思いながら、今夜は泉鏡花の『薄紅梅』を読みます。


コメント

コメントを投稿