死者たちの婚礼:卒論にかんする今のところのメモ
「死人を葬ることは、死人に任せておくがよい(マタイによる福音書8:22)」
「人は他者の記憶の中でしか死ぬことができない。また、その死は、残された者たちの中で生きる多様な物語が続く限りのものなのだ」
「死んだらゴミになる、それだけです」
「過ぎ去れば、すべてが無か思い出かだ」(いずれも西江雅之)
調査対象:東北地方における冥婚/死後婚
具体的には、ムカサリ絵馬(山形県村山地方)、花嫁人形(青森県)
対象地
ムカサリ絵馬:若松寺(天童市)、立石寺(山形市)黒鳥観音(東根市)、唐松山護国寺(山形市)宗福寺(山形市)、青蓮山清浄院(村山市)、長秀寺(山形市)、山形県立博物館
花嫁人形:川倉賽の河原地蔵尊(五所川原市)、弘法時(旧下北郡大畑町)、恵光院(南部町)、恐山(むつ市)、靖国神社?
A.先行研究
1.民族誌的/民俗学的/歴史的観点
いずれも未婚で夭折した死者を架空の配偶者と結婚させる風習。多くは家族の希望によって行われる。
ムカサリ絵馬は婚礼の様子を絵馬に描き奉納するものであり、花嫁人形は配偶者に見立てた人形を奉納するもの。いずれも寺院において行われている。
奉納の動機:様々だが、いくつかのパターンに分けられる。(桜井2010)
①未婚で夭折したことを家族が不憫に思い、結婚させてあげる
②本来跡継ぎになるべきであった死者の祟りによって家族に困難が生じ、その解決のために奉納する。この場合、多くは民間の巫者(イタコ、オナカマ、カミサマ等のいわゆるシャーマン。後述)の口寄せや占断が動機となる。
③兄弟、親戚や知人の結婚を機に。あるいは結婚適齢期になったため。
④人に勧められて
⑤個人のキョウダイが縁遠く、未婚で夭折した個人と関係があるのではないかと疑う
奉納者・被奉納者
時代背景 明治〜戦後:男性が多い(家制度との関係/戦没者の供養)特に戦後に増加
昭和中期〜女性の被奉納者、水子供養が増加。テレビ放送の影響
関係 男子、長男が多いが、特に最近は傍系も十分に多い。
2.家制度、祖先崇拝(祖先祭祀)と冥婚
家父長制(家長と跡取りの世代間関係が中心的な家族結合)において、家長と跡取りは緊張関係である。つまり、長男でも廃嫡のリスクはあるから、家長権限によって戒めが可能となる。一方家長にとっても死後の繁栄は跡継ぎによる所があるので、跡継ぎに対してあまり強く出ることはできない。
その一方で祖先祭祀はこの緊張関係を宥和する。つまり、祖先の地位は跡取りが祭祀をすることによって再生産されるし、家長にとっても祖先の認知なしに家長としての成員権は得られない(Fortes
1970)。したがって跡継ぎと祖先は互恵関係にある。
生者と死者のライフコース:通過儀礼の対称性(Ooms1967)
誕生→お宮参り・100日食い初め→七五三→成人式→結婚・嫡子→成熟
定位家族における
葬儀→初七日・四十九日→三回忌・七回忌→十三・十七回忌→三十三回忌(弔い上げ)
生殖家族による供養
・生前のサイクルを全うした(子孫を残した)者だけが死後のサイクルを全うする
・誕生/死の直後は忌の期間
・家の縦の繋がりによって成立する(したがって傍系は対象外)
「祖先崇拝が果たしているのは、単なる祖先である人の霊を祀るだけではなく、人を祖先にさせること、及び先祖になれない人の霊の世話をみるということである(ibid:42)」
→祖霊化:世代を重ねることによる忘却を前提とし、その後も匿名の死者でありつづけるために祖霊となる。死者とその死を抽象化することによって人の記憶の中で死に続けるかわりに個我性を失う。
祖先祭祀:定住生活により制度として家・家業が出来上がり、土地によって祖先との関係が明らかになった中世以降に成立。それ以前は死者は匿名で、追善供養もされなかった(佐藤2015)。
このような日本の葬送はイエの繋がりの中で死者を通して秩序を継承する行為(波平1996)
「家を中心に死者に対する儀礼がおこなわれ、死者の霊が祖先の霊となり、むしろ遺族を守護すべきものと考えられる形態においては、死者は死後も個我性を失わない(立川1985:136)」
逆縁(親よりも先に他界)→通常の死者儀礼では対応できず、葬送は省略されていた(波平1996:168-70)
・逆縁では子孫がなく祀られることがないので、祖霊とはならない。
→家制度、祖先崇拝における冥婚
「[ムカサリ絵馬の]奉納の意義とは、推移状態である霊に対して通過儀礼を施すことで、家の成員権を与える(桜井2010:41)」
ここで例に挙げられているのは奉納の動機②のパターン
→成員でないから、冥婚によって架空の別の「家」に(ある意味に於ける養子に)出すことではないか?
→家の成員としての死者を手放すことではないか?(理論上、子が別の家に入れば無限ループで供養されると想定されるので、供養の必要もなくなる(薄まる))
→ただし霊魂に特定の居場所はなく、複数の場所に複数の意味合いをもって存在するから、実際に必要がなくなることはない。
「幼児で亡くなったものにさえ結婚を願うのは、それが死者の遺恨であるからではなく、親の願いそのものだと考えてよいだろうし、長男の結婚に拘泥するのも家長としての親の気持ちだろう(ibid:42)」
→子が結婚することによって立場を得て利益を受けるのは親であり、単に気持ちの問題ではなく、親としての立場を回復する手段ではないか?(とか言ったら怒られそう)
3.シャーマニズムと冥婚
シャーマニズム:意のままに神や精霊と直接的に接触・交流し、その間に神意を伝え、予言をし、病気治療を含むいろいろな儀礼を行う呪術・宗教的職能者シャーマンを中心とする宗教形態をさす。脱魂型(天上界の神に供犠動物を届けたり、死者の霊魂を死者の国に運んだりすると憑依型(神霊や死霊をこの世にもたらす)がある(日本大百科全書)。
日本のシャーマニズム
・口寄せ型(イタコ、オナカマ等)盲目の女児が師匠に弟子入り、祭文・経文を習い、カミツケの儀式で守護の神様を決め、占いや祈祷、口開きなどの技法を習得する
・成巫型(カミサマ、ミコ、ユタ等)晴眼者が人生の困難や不調に際して巫者に救いを求め、それがきっかけとなって弟子入り・修行し、成巫するタイプ。
日本各地にいわゆる拝み屋さんはいるが、多くは既成および新興宗教の傘の中で権威を得ている。一方東北及び沖縄の巫者は独立しており、霊威によって威信を得ている。一方、近年ではイタコ、オナカマは盲学校の開設により跡継ぎがいなくなっている。また、プライバシーの問題などから開業形態が変わり、それによりシャーマニズムの社会的意味合いが大いにかわりつつある。
シャーマニズムと冥婚
冥婚と巫者(イタコ、カミサマ、オナカマ)が関わる場合の多くは、奉納の動機②及び⑤。特に、家族に病気やその他の問題が生じた際に巫者に相談をし、そのなかで「自分が継ぐはずだった」「お前だけ結婚はさせない」などの恨みを死者が持っていることが明らかになる場合が多い。一方、巫者(特に口寄せ型)がいる地域では冥婚の件数は少ないため、巫者による供養の機能の果たされない地域で補完として冥婚が行われていることも示唆される。
また、水子供養との関連も指摘される。本来跡継ぎになるはずだった水子の祟りと巫者が判断し、奉納にいたるケースも。
→乳児死亡率の低下で、子供もひとつの完全な命(cf.七歳までは神の子)であると想定されるようになった結果かな?
4.他文化の冥婚・幽霊婚との比較
他の冥婚は家同士の結合を伴う
沖縄(グソー・ヌ・ニービチ)
・離婚して亡くなった女性の霊が元夫の元に戻りたがっているため(とユタが判示し)、ユタの指導により女性の位牌、遺骨を実家から婚家に移す。元夫に新たな配偶者がいてもよい。
・婚約、恋愛関係にありながら夭折した者の位牌を娶らせる(ただし少数)
沖縄の後生観:夫婦同甕の規範意識+強い父系出自による女元祖排除(実家での女性の祭祀を忌避するため、女性は婚出しなければならない)
韓国
死霊祭(死後数年で巫者が行う)に祭祀、死霊を祖先に転化するため未婚の霊に対して行う
巫者が魂を呼び戻し、位牌に入れて家に連れ帰り、新婦の女性の位牌と人形を並べて結婚式の儀礼を行う
不慮の事故などによる場合、死穢・忌避の観念が強い←韓国の強力な父系出自規範
中国・華人
▲=●、または△=●の関係、養子によって跡継ぎを立てるため。遺体を合葬する。
歴史的に様々な例が報告されているけど、まだ調べてないからわかりません。
ヌアー族(アフリカ)
未婚で亡くなった長男の名前で次兄が結婚する。実際の婚姻生活は弟が行うが、権利は兄にある。
以上をふまえて、
以上をふまえて、
・日本では養子や次男以降の相続があり、強いインセストの単系出自や女元祖忌避はないために未婚の霊を祀ること自体に強い忌避はない。したがって家と家の結合を伴わない冥婚が可能になった(桜井2010:225)
・庶民における弱い氏族意識と明治民法下の家族規範の画一化の齟齬をシャーマニズムが処理(ibid:225)
B.先行研究の問題点
櫻井(2010)においては、冥婚を要請する社会構造については優れた分析がなされているものの、冥婚を可能にするパラダイムについてはほとんど分析がなされていない。つまり、冥婚を「冥」と「婚」の二つの文脈で考えた場合、婚という親族体系に関する次元についての分析に留まっており、死に関するディスクールについての考察は不十分であると言わざるをえない。あるいはハードの面に偏重しており、ソフトの面については見過ごされていると言い換えてもいいだろう。(社会人類学と文化人類学の違いかもしれない…)つまり、櫻井の形式分析を踏まえ、その裏側にある文化という象徴の体系を再考すれば、より多面的に冥婚を理解することができるものと考えられる。
また、冥婚を死の儀礼としてとらえ、死/生と冥婚のネットワークに付与された意味を考え直すことは、今まで「生から死」の過渡に限って説明されてきた死や葬送の儀礼について、新たな知見の可能性を示唆しうるのではないだろうか。(本研究の意義)
C.卒論の方向と構想
1.死と死の儀礼についての先行研究(主に内堀、山下2006)
「死は厳密な意味では人間の経験たりえないものである。[…]死についてのこうした語りを可能にするのは何か。それは死の普遍性そのものというよりも、経験によって方ええないものを語るという人間の想像力の普遍性なのではないだろうか(内堀、山下2006:25)」
死が文化の中に組み込まれることによって語りの対象となり、視覚化され、儀礼的演技で操作される。
死そのものに意味があるわけではない(「死んだらゴミになる」)。人間が「発明」した種々のイメージによって構成されている。
代表的な研究
l
E.ベッカー(1973)『死の拒絶』(Becker, E. 1973. The Denial of Death. New York: Free
Press)
死を否認し克服する人間の絶望的な努力が文化的営為であり、有限の自己は人口の虚構としての永遠性を構築する。
l
R.エルツ(1907)『死の集団表象に寄せて』(Hertz, Robert.
1907. “Contribution à une étude sur la représentation collective de la mort.” L'année Sociologique. 10:46-137.)
ボルネオのダヤク諸族の民族誌から死を一定の時間的持続を備えた過程であることを論証
肉体的な死とその直後、「中間の時期」、「最終の儀式」の三つに分け、社会的な死が最期の段階において完成される。
通過儀礼(ファン・ヘネップ2012[1909])分離、過渡、再統合のプロセス
死の儀礼においては、統合が最も複雑かつ重要:死者を死者の世界に再統合する
「喪は残された者たちのための過渡期であって、彼らは分離儀礼によって過渡期に入り、この期間の終わりに再統合の儀礼を行って一般社会に戻るのである(190)」→遺族が、死者のいない世界に再統合
「死んでも葬式をしてもらえなかったものは、[…]死者の世界にも入れず[…]その世界にある社会にも統合されえない[…]立場にある」
→葬式をしてもらえないだけではなく、(家制度を前提とした)葬儀形式によって再統合が担保されない葬式においても同じである。特に、思いを残して死んでいった死者は生者との境界を犯す。深い思いであればあるほど、供養にはきりがなく、よっていつまでも成仏できない存在になる。
こういった議論を踏まえ、内堀はイバン族、山下はトラヴァ族における霊魂観から死の儀礼を考察
供養主義(memorialism)
Smith(1974)によれば、祖先崇拝から、死者の供養を中心とする供養主義への変化が起きているという。
都市部・核家族世帯ほど傍系親族の位牌が多い(親しい親族では他人であっても仏壇へ)
「死は厳密な意味では人間の経験たりえないものである。[…]死についてのこうした語りを可能にするのは何か。それは死の普遍性そのものというよりも、経験によって方ええないものを語るという人間の想像力の普遍性なのではないだろうか(内堀、山下2006:25)」
死が文化の中に組み込まれることによって語りの対象となり、視覚化され、儀礼的演技で操作される。
死そのものに意味があるわけではない(「死んだらゴミになる」)。人間が「発明」した種々のイメージによって構成されている。
代表的な研究
l
E.ベッカー(1973)『死の拒絶』(Becker, E. 1973. The Denial of Death. New York: Free
Press)
死を否認し克服する人間の絶望的な努力が文化的営為であり、有限の自己は人口の虚構としての永遠性を構築する。
l
R.エルツ(1907)『死の集団表象に寄せて』(Hertz, Robert.
1907. “Contribution à une étude sur la représentation collective de la mort.” L'année Sociologique. 10:46-137.)
ボルネオのダヤク諸族の民族誌から死を一定の時間的持続を備えた過程であることを論証
肉体的な死とその直後、「中間の時期」、「最終の儀式」の三つに分け、社会的な死が最期の段階において完成される。
通過儀礼(ファン・ヘネップ2012[1909])分離、過渡、再統合のプロセス
死の儀礼においては、統合が最も複雑かつ重要:死者を死者の世界に再統合する
「喪は残された者たちのための過渡期であって、彼らは分離儀礼によって過渡期に入り、この期間の終わりに再統合の儀礼を行って一般社会に戻るのである(190)」→遺族が、死者のいない世界に再統合
「死んでも葬式をしてもらえなかったものは、[…]死者の世界にも入れず[…]その世界にある社会にも統合されえない[…]立場にある」
こういった議論を踏まえ、内堀はイバン族、山下はトラヴァ族における霊魂観から死の儀礼を考察
2.卒業研究の方向性
冥婚の前提となっている霊魂観とは何か?(暫定かつ大まかなリサーチ・クエスチョン)
「日本人の霊魂観(死生観)」ではない
更に、以下の点を踏まえて問題を考えたい。
・桜井(2010)の問題点:「民族誌的現在」のあいまいさ、社会構造としての家制度との関わりを強調するあまり、その枠にはまらない事例やダイナミズムを見逃している点。
→家制度の動揺や価値観の多様化の中で冥婚はどう変化しているのか?(つまり、家や祖先祭祀といった社会構造に支持されない冥婚について)
・冥婚をめぐる心情:冥婚は残された遺族に何をもたらしたか。桜井(2010)をはじめとする先行研究に遺族への直接のインタビューはない
・震災と冥婚
石井(2013)では震災の翌年に山形に訪れているが、そこでは震災で亡くなった方への供養はまだ行われていない。遺族が死を受け容れて向き合うまで/冥婚を思い立つまでの時間か。今年で五年になるが、状況はどう変わったのか。
・最近のシャーマニズムの変化(予約制、個別対応)は冥婚に変化をもたらしたか?
参考(になりそうな)文献
桜井義秀.2010.『死者の結婚 祖先崇拝とシャーマニズム<北大文学研究科ライブラリ3>』札幌:北海道大学出版会
松崎憲三(ed.).1993.『東アジアの死霊結婚』東京:岩田書院
石井光太2013『東京千夜』東京:徳間書店.(第三話「亡き人のための結婚式」pp.84-116)
石川栄吉,岩田慶治,佐々木高明(編)1985『生と死の人類学』東京:講談社
内堀基光,山下晋司2006『死の人類学』東京:講談社学術文庫
エヴァンズ=プリチャード.1985長島信弘、向井元子(訳)『ヌアー族の親族と結婚』東京:岩波書店(=
Evans-Pritchard, Edward E. 1951. Kinship and Marriage among the Nuer. Oxford:
Oxford University Press.)
オームス、ヘルマン 1987『祖先崇拝のシンボリズム』東京:弘文堂
桜井徳太郎1974『日本のシャマニズム』東京:吉川弘文館
佐藤弘夫2008『死者のゆくえ』東京:岩田書院
————2015『死者の花嫁:葬送と追想の列島史』東京:幻戯書房
スミス、ロバート.J. 1983『現代日本の祖先崇拝』東京:御茶の水書房(=
Smith, Robert J. 1974. Ancestor Worship
in Contemporary Japan. Stanford: Stanford University Press.)
ダグラス、メアリ1983『象徴としての身体』東京:紀伊國屋書店
————2009『汚穢と禁忌』東京:講談社学術文庫(=Douglas,
Mary. 2002[1969]. Purity and Danger.
London: Psychology Press.)
立川昭二1999『生と死の現在』東京:講談社学術文庫
波平恵美子1996『いのちの文化人類学』東京:新潮社
————2004『日本人の死のかたち:伝統儀礼から靖国まで』
ファン・ヘネップ2012『通過儀礼』東京:岩波書店(=von
Gennep, Arnold. 1960[1960]. The Rites of Passage. London: Psychology Press. )
メトカーフ、ピーター.リチャード・ハンティントン1996『死の儀礼』東京:未来社(=Metcalf, Peter.,
Richard Huntington. 1991. Celebrations of Death: The Anthropology of Mortuary
Ritual. Cambridge: Cambridge University Press.
)
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