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一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2017年10月2日月曜日

映画『おクジラさま:ふたつの正義の物語』とシンポジウム「グローバル社会の正義と文化多様性—捕鯨問題を事例として」のこと

先日、一橋大学で行われたシンポジウム「グローバル社会の正義と文化多様性—捕鯨問題を事例として」に参加した。


第一部は現在公開中の映画『おクジラさま』の前半部分の上映と佐々木芽生監督の講演、第二部は捕鯨問題に関するパネルディスカッションだった。

この手のシンポジウムの常として話題が広がりすぎてまとまりが付かなくなるのは既定路線で仕方ないとしても、水産庁の担当者やジャーナリストなど様々なパネリストが意見を交わし、フロアからも動物権や環境保護の活動家などから意見が出されるなど、捕鯨を巡るトピックが一通り出され、全体像を把握するのはよい機会であったと思う。

特に捕鯨問題で私にとって新しい視点だったのは、日本が捕鯨の正当性に固執するあまりまったく非経済的な南極海での調査捕鯨を続けていること。調査捕鯨の結果が商業捕鯨の解禁につながるのならやってもいいだろうが、IWCの現状ではそれはあり得ない。
また、国際法上の捕鯨の位置づけ…IWCは捕鯨の持続的な発展のための保存を目的として発足した組織であり(捕鯨の取締ではなく)、その目的はIWC決議でも変更できないこと。商業捕鯨モラトリアムは一時的な禁止であって鯨類の数が回復すれば再開を認めるものとして提案されたこと(そして実際に回復している)。そして、発言力をもつシーシェパードが目立っている一方で環境保護活動の主流はむしろflagship species やanimal rightsの議論であるということ(というジャーナリストの見解)など。


だが、このパネルディスカッションで特に印象的だったのは、パネリストの中にいた捕鯨会社の社長さんのことだ。ほかのパネリストが環境や政治、国際法、文化などを論じているなかで、彼の発言はかなり浮いているように見えた。
いわく、彼の仕事は海からクジラを捕ってきて食品に加工して販売することであり、捕鯨や解体にかかるコストが売り上げを上回れば産業として成り立たないということ。悪いことをしているという意識もないし、解体はオープンにして地元の子供たちにも見学させていること。400年続く伝統文化だからといってなんでも正しいとは限らないと思うということ。自分は、「人は自分の意思に従って自由に生きればいい」と考えているが、最近はこの地で家業として続いてきた産業だから健全な状態で後継者に引き継いでもらった上で死んでいこうと思うようになったし、今まで捕鯨を生業にしてきた人たちも同じような覚悟であったのだろうと思うということ。

彼の意見が、今まで「捕鯨問題」として議論されてきたこととあまりにかみ合っていなくて、かえってそこにリアリティを感じた。このパネルディスカッションはもしかしたら捕鯨の現状を反映しているのではないか、と。
人の住む世界とクジラの住む世界が違うように、捕鯨が行われている現場とはまったく違う次元で捕鯨反対、賛成が議論されていて、現場のひとは議論について行けず、というかついて行こうともせずに自分の仕事を黙々と進めている。そこに、捕鯨の現場と議論の、埋めがたい断絶があるように思った。まるで、天文学者が決して恒星に触れることができないみたいに。
そして、もし、その断絶を埋めるものがあるのだとしたら、それは何が正しいかを追求することではないし、まして正義の名の下に大声で批判をすることではないのではないか、と思った。

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さて、佐々木監督が捕鯨問題に関する映画を撮ろうと思った背景には言わずと知れた映画『THE COVE』がある。ドキュメンタリーとして優れた映画であり、世界的にも評価が高かったにもかかわらず、監督自身も言いようのない気持ち悪さを感じたことや、議論好きなアメリカ人でも捕鯨問題に関しては異口同音であること、そして、日本からはTHE COVEに関して、これはドキュメンタリーではないとかプロパガンダ映画であるとか言った無意味な議論ぱかりがなされ、有効な批判がほとんどなされていなかったことなどから、中立的な観点から捕鯨問題の映画を撮ろうと思い立ったのだという。
しかし現場に出てみるとTHE COVEの舞台、太地と捕鯨問題は必ずしもイコールではないことに気付き、太地で起こっていることから普遍的なテーマに迫る、という手法をとったそうだ。それでも取材は困難で、fly on the wall (壁に止まったハエ)のように自分の存在を消すのが優れたドキュメンタリーであるのに反して、反対派と地元漁師の間に挟まれて厄介にもなったし、震災の前後で太地の状況は大きく変わった。


映画で描かれた「ふたつの正義」とは、太地の漁師は怒りながらも発信力を持たず淡々と自分の仕事を続けている一方で、シーシェパードなどの活動家はネットを駆使してリアルタイムで「殺し屋」イルカ漁師たちの動きを発信し、彼らの「正義」だけが世界に拡散し、影響力を持つようになっていく。彼らに触発されて太地を訪れた活動家が漁師に英語で非難を浴びせる。グローバルに権力を持った側の価値観が広まる一方で、ローカルな価値観はほとんど力をもたないのだ。
拡散する正義は情報戦略によってつくられているのであり、情報の操作はすなわち感情の操作である、と佐々木監督はいう。強く感情が動けば何が正しいかはあまり関係なくなってしまい、科学的な正しさよりも人間の感情が世界を動かすようになる。


多様な考え方をみとめ、嫌いなものを排除しないこと、が処方箋ではないかと監督は語った。映画の副題は「ふたつの正義の物語」だが、これには正義はひとつではなくて、正義の反対側には別の正義があるという意味を込めたそうだ。むろん、正義がふたつしかない訳はなく、もっとたくさんの正義が入り乱れている。

正しさの根拠に「文化」や「伝統」を持ち出すと、途端に事態は硬直する。大切なのは「なぜその価値観をもつのか」を考え、その「なぜ」を繰り返し問うこと、だと佐々木監督はいう。
実際、彼女は本の中で、日本の平等な生命観と、西洋の知的な生き物を特別視する人間中心主義を歴史的に遡って検証している。イルカやクジラを、「賢い」という理由だけで特別視する西洋文化は、日本人には馴染みがたい。しかし、ヨーロッパにはギリシャやユダヤ−キリスト教から受け継いだ人間中心主義(ヒューマニズム)が根付いている。神の創造した生物は人間を頂点とした序列があるから、人間に近ければ近いほど特別な生き物であるという。(ちなみにこの序列を人間の内部にも設けて「優れた人種」と「劣った人種」を作りだし排除したナチスや優生学も、この系譜上にあるといえるだろう。)一方の日本は「草木国土悉皆成仏」のような全てのいのちを平等とみなす生命観があるから、西洋の鯨類へのまなざしは理解しがたいのだと佐々木監督はいう。

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おもうに、異文化理解の先にあるのは、自己への気付きではないか。いかに/なぜ他者が異なっているのかを問うことは、とりもなおさず、自分がいかに他者と異なるかという点にはね返る。自分とはこんなに違う誰かを理解することによって、否応なしに、他者と異なっている自分を認識する。そして人は、異なっていながらも通底するものがあることに気付くのではないか。捕鯨に「日本の文化」を持ち出す人に足りていなかったのは、その「日本文化」が他の文化となぜ/いかに異なっているから衝突しているか、への自覚ではなかったか。

このシンポジウムのテーマは「グローバル社会の正義と文化多様性」だった。グローバル社会のなかで私たちに必要なこととは、「グローバル」な正義に乗っかることとか、グローバルな主流を吸収する(あるにはそれに吸収されること)こと、言語を操ることではなくて、グローバルに社会に存在する多様な文化を理解した上で自文化に自覚を持つことではないだろうか。