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一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2016年4月21日木曜日

ディズニーランドが嫌いなわけ(パックツアー≒ディズニーランド仮説)

今となっては笑い話でしかないのだが、今は昔、ディズニーランドに行きたくなくて当時の恋人と別れたことがある。


それくらいディズニーランドが嫌いなのだ。何が嫌いって、ひとつは空間の問題。キャラクターや建物のデザイン、演出の仕方が、どうも私の肌に合わない。。これは、もう、好みの問題だから仕方ない。缶詰のホワイトアスパラが嫌いなのと一緒。(こちらもご参照ください。)

もちろん、キャストの方々が、ゲストが最大限楽しめるように努力を惜しまず働いていることとか、エンターテイメントの質とか、そういう理念的なものは、大いに尊敬しています。でも、どんな料理人が料理してもパクチーが嫌いな人はパクチー食べられないのと一緒。だからディズニーランドに関わる人が嫌いなのではないし、ディズニーランドが好きな人ともちゃんと仲良くやっていけます。たぶん。。。

もうひとつ嫌いな点、というか、私が苦手なところがあって、予定調和めいたところ。
何があるかあらかじめ分かっているところが、あまり好きではないのだ。もちろん、ディズニーランドは、期待を上回るだけのエンターテイメントだから、楽しい人には、楽しいのだろうけど。見たいものを見るだけではつまらない、と、私は思ってしまう。


そして、私は、日本人の多くがやっている旅行のスタイル、「ヨーロッパ10日間の旅」みたいなものは、ディズニーランドとあまり変わらないのではないか、という仮説を有している。

 旅行会社にお膳立てしてもらって、前もってどこを見るかが定まっていて、まるで「やりたいことリスト」にひとつづつチェックを入れていくだけの旅。有名なものを実際にみて、納得して、満足して、つぎのチェックポイントへ行く。それにどれだけの意味があるのか、私にはわからない。。。

私はむしろ、予期していなかったことに出会いたい。知らないものに出会いたい。自分とは全く異なった考え方の人たち、自分の常識では考えられないような物事に触れたいと思うのだ。世界にはたくさんの人がいて、多様なものの見方、考え方がある。それに触れることで、自分の考え方の枠がひろがってゆく。それは、たんに有名な物を見るだけでは決して得られない。時間を掛けて人と関わったり、話し合ったり、長くその場に身を置いて馴染んでゆく、という過程を経て、ようやく得られるものだとおもう。

そういうことをしていかないと、結局、他者を見る目は変わらないのだと思う。他者を見るとき、自分の枠組みを絶対視して、それに押し込めて他者を見ようとする態度は、暴力と言わざるをえない。当事者の秩序観の中で物事がどう動いているのかを理解することなく、与えられた情報だけで他者を評価し、批評する態度は傲慢だ。 そういう物の見方をしないで、現場の人々にはどういうふうに世界が見えているのかを理解するために、知らないものに出会うことが必要なのだとおもう。

モナリザを見たり、パリのカフェでくつろいだり、フィレンツェのドゥオモに登ったり、ミラノでプラダのバッグを買ったり、そんなことをしていても、自分の世界は広がらない。もともと自分のなかにあったものの再確認でしかないからだ。

ガイドブックや解説に頼るのも一緒。ガイドブックに書かれているイメージが先行してしまって、書かれているとおりにしか、現場で起きていることを認識できなくなってしまう。それでは、何の意味もない。物事には、たくさんのとらえ方があっていいはずなのに、ガイドブックや添乗員にあらかじめ方向付けされてしまっては、自分の世界観に影響を及ぼすことはない。

残念なのは、比較的時間のある大学生ですら、「ヨーロッパ10日間の旅」タイプに染まってしまっていることだ。大学に入って夏休みがある。そこでバックパッカーぶって、東南アジアの3,4カ国を2週間くらいで回ったりして、でもやっていることは観光名所を回るだけ。たまに子供と戯れたりトラブルの一つや二つあるかもしれないが、それは楽しいだけの経験で終わる。
ひとつの場所に長くいたりとか、繰り返し訪れたりして絆をつくり、深く人々とかかわり、最初は混沌や理不尽に見えていたことが、秩序をもって動いていたことを知る。何も知らなかった町が、だんだん馴染みの町になってきて、どこにどんなお店があって、あそこがおいしくて、あそこにいればあいつがいる。そうやって、自分だけの物語を、その町で紡ぐことができるようになる。

「人生観が変わった」とかいう、曖昧で受け皿の広い言葉でごまかすべきではないのだ。たんに猛烈に楽しかった、ということに、特別な意味を与えて言い換えたに過ぎないのかもしれないから。


平和な場所にいると、束になって押し寄せてくる理不尽が恋しくなる。
その理不尽は、いまの自分にとっては理不尽だけど、その現場では秩序をもったことなのだ。理不尽が理不尽でなくなるとき、自分に変化が訪れている。