弱くある贅沢のために 

「ここで何をしているの?」と、たくさんの空の瓶とたくさんの酒の入った瓶を前に黙って坐っている酒飲みに向かって、王子さまは尋ねた。
「飲んでいるんだ」と酒飲みは暗い声で答えた。
「なぜ飲むの?」と王子さまは聞いた。
「忘れるため」と酒飲みは答える。
「何を忘れるため?」と王子さまは、なんだかこの男がかわいそうになってきて、尋ねた。
「恥ずかしいことを忘れるんだ」と酒飲みは下を向いて打ち明けた。
「何が恥ずかしいの?」と、できれば手を貸したいと思いながら、王子さまは重ねて聞いた。
「酒を飲むことが!」それだけ言うともう酒飲みはまたかたくなに沈黙の中に籠もってしまった。

サンテグジュペリ『星の王子さま』池澤夏樹訳、集英社文庫。


これといった理由があるわけでもないが、去年は半年ほど酒を飲まない時期があった。

10年以上アルコールのある生活を送ってきたけれど、 その長さの分だけ酒と上手く付き合えるようになるという訳ではないらしい。正直なところ、自分はあまりお酒と上手く付き合えない人間だと思っている。酒の誘いを断るのはずっと苦手だったし、家では父が飲んでいるのでそれに付き合って毎日のように飲んでいた。家では深酒することこそなかったが、外に出れば周りのペースにのまれやすくてついつい飲み過ぎて我を忘れた。頭痛に朦朧とする記憶の糸を手繰っていると込み上げてくるのはいつも自己嫌悪だったし、酒を飲んでさらけ出したみっともない自分が脳裏に浮かんでくるほうがいつだって、二日酔いよりもずっと悩ましかった。

頭が上がらなくなるような迷惑を掛けたのでもなければ、なにか大切なものを失くした訳でもないのだけれど、酒を飲んで晒した自らの醜態を見ることも、もう同じことを繰り返したくないと思いながら何度も何度も繰り返してしまうことも、自分の駄目なところをそのまま鏡映しに現しているようだった。

去年のなかごろ、禁酒を決めたあともどれだけ続けられるかは分からなかったし、あまり自信があった訳でもない。とりあえず誕生日まで、という期限を切って始めた禁酒を、貫くだけの強い意志など持ち合わせてはいなかった。酒に手を伸ばす欲求から自分を遠ざけたのはいつも、これを飲んだらまた自分は駄目な奴なんだという自己否定感であって、決して高い志でもなければ、強い意志の力でもなかった。

それでも酒を止めて変わったことは随分とある。なにより身体が軽くなったし、よく眠れるようになった。食べる量も減った。酒を飲むとだらだらとたくさん食べて胃もたれして消化不良になるのが慢性的だったのだけど、適量を食べてちゃんと消化するようになったのだろうか、体重は少し増えた。そして夕食後の時間を有効に読書や勉強の時間に使えるようにもなった。

変わったことといえば、人付き合いに関してもずいぶんとある。誘いを受けても、酒を止めたから、と言ううちに幾人かからは連絡が途絶えた。結局、酒の切れ目が縁の切れ目だったのかな、と思うところもあるのだが、これは自分もどこかで酒を踏み絵にして、飲まない人をつまらない人、付き合いの悪い人だと判断していたということを改めて反省するきっかけになった。

もちろん酒を思いっきり飲んで羽目を外して楽しむっていうのが悪いことじゃないし、それが忌憚なくできる友達というのも貴重な存在だと思う。だけど酒との付き合い方も人との付き合い方も上手じゃない自分にとって、その役回りを演じるのはそろそろ卒業したかった。

そのかわり、食事やお茶や散歩しながら話すという機会もあらためていいものだ、楽しいものだなと、しみじみと思うようになった。禁酒を終えてからは、「飲みに行こう」と誘われてもあまり心が動かなくなった。酒が目的になっているような物言いにどこか、馴染めなくなってしまったのだろうか。もちろん、お酒を酌み交わしながらじっくり楽しく話したい、という意図であることは知っているのだけれど、それならば直截に、会って話したいことがあるのだとか、美味しいご飯を一緒に食べたいと言われるほうがずっと、素直に嬉しい。

そうやって「お酒を飲むこと」を断れるようになってからは、人と会ってお酒を飲むのも楽しくなったし、自分のペースで(とはいえ、そんなに遅くはないのだが)周りに流されずに飲んで、今日はここまでにしようと思ったらきっちりと断れるようになった。いまでは月に一度か二度しか飲まないけれど、ずいぶん楽になった。

そんな酒のある生活を、いつまで続けられるかは正直なところ、あまり自信がない。少しずつまたかつての酒に飲まれる生活に戻っていくような気もしている。SNSからしばらく離れてみても、またいつの間にかSNS中毒の生活に戻っているし、日常生活でのものぐさはときおりの修行よりもずっと強力なのである。いっぽうで煙草はちゃんと二十歳で止めたし、もう十代の頃みたいな無茶な遊び方もしなくなったのだけれど。

そんななかで出会ったのが、宮崎智之さんの新刊『平熱のまま、この世界に熱狂したい』だった。日常の切れ目や小さな綻びに目を向け、言葉のメスを入れて価値の転換を図るタイプのエッセイなのだが、彼の言葉は丁寧に慎重に日常に寄り添っていて、彼自身が苦しんだ経験から湧き出てくる優しさが随所に感じられるものだった。

宮崎さんはアルコール依存症を経験し、おそらくそれが原因のひとつとなり30歳で離婚、34歳で断酒した。とにかく安くて効率よく酔える酒を求めて大きなボトルを求めて離れた酒屋に歩き、酒を飲んだときだけ自分が大きくなったように感じ、それでもどこかで自分は摂取をコントロールできていると思い込んで、現実から逃げるようにまた酒を飲んで、匂いを誤魔化すためのシャワーを浴びて出社したという。

いまでは健やかに生きていられるけれども、またいつ十代の頃みたいに不安定になって人を傷付けたり何かに溺れるように没頭したりするか分からない、という思いを持っているわたしにとって、彼の置かれていた状況はまさしく他人事には思えなかったし、厳しいストレスの元に置かれたときの自分の姿がそこにあるのではないだろうか、と怯えながら彼の経験を読んでいた。

酒を飲んで自分が強くなったと思っていた宮崎さんも、断酒を決めたときには自分の弱さを認めていたという。

 アルコール依存症は「否認の病」だと言われている。自分では認めたがらないのが特徴の1つなのだ。「アルコールを飲んでも大丈夫」だという理由を自分で探して捏造したり、時には飲んでいることを隠したりする。振り返ってみると、ぴったりと当時の行動に符合する。 ,bR>医師から断酒を命じられたとき、ぼくが素直に受け入れられたのは、贈位が悲鳴をあげて下手をすれば命に関わる状況に陥りかねなかったからだけでなく、すでに気づいていたからである。ぼくは弱い人間であり、強くなろうとするたびにむしろ事態は悪化して、どんどん追い込まれていっていることに。[中略]
 素直に負けを認めることは重要なのだ、と医師からの宣告を聞きながら思った。楽しいこともあった。つらいこともあった。アルコールは厄介な友達だとわかっていたが、いつかは手なずけ、仲良く一緒に人生を歩めるようになると信じていた。でも、最後までそうはならなかった。いつしか率先して、悪友に手を貸すようにもなった。[中略]断酒を決意したとき、ぼくは少なくともアルコールに敗北したことを明確に認めたのだ。

どこかで大丈夫だと思っている自分を喝破する勇気を持ち、敗北を認めること、自分の弱さを認めることでようやく断酒できたという。そして、「酒に手が伸びそうになったとき、ぼくを寸前で止めてくれるのは、むしろ「弱さ」のほうである」という。わたしがこの箇所を読んで共感したのは、わたしも禁酒中に酒から自分を遠ざけていたものは弱さだった、というか酒を飲む自分が嫌いだったからであり、ここで飲んだらまた駄目な自分を見なければいけなくなるという自意識だったからだ。

決意を貫き通すことができるほどわたしは強い人間じゃない。20歳になって煙草を止めたのだって、成人してからは喫煙する理由がなくなったからからだし、勉強した言語はどれも中途半端なまま終わっている。だけどそういう「弱い自分」と向き合うことは簡単ではない。

しかし宮崎さんは弱くあることは「贅沢」なのだという。遠藤周作の『沈黙』で司祭を信者と引き合わせながらも、その後には役人に脅されて司祭を裏切り売り渡した、調子のいい臆病な卑怯者キチジローを例に出して、いまこの世の中に彼が生きていれば、殺されることもなく自分と同じように生きられるはずだという。彼と自分との違いは生まれた時代にしかないのだと。

キチジローのことを考えると、「弱いやつ」の歴史こそが人類の歴史だったのかもしれない、とも思う。自然の脅威にさらされ続け、また、差別や偏見や権力欲がたくさんの血を流した。それでも歩みを進め、多大な犠牲をはらいながらも、徐々に「弱いやつ」が生きられる世の中に変化していった。

自分がキチジローの時代に生きていたら、生き延びられる自信はない。いまこうして曲がりなりにも自分の弱さと向き合い、それを言葉にできることは贅沢であり、豊かなことなのだ。

わたしだっていまはいわゆるホモソーシャルとかマッチョといわれる社会から距離を置いて生きることができているから、酒から身を引くことができるわけで、昭和の男社会に生きていたら強い自分を見せるために酒に溺れていたかもしれない。そう考えると、弱さを認められる時代に生きていて良かったなとつくづく思うのである。

人には弱くある権利があり、弱く生きる自由もあるはずだ。だけどそうした言葉が空疎に響き、現実味を帯びないのはこの世界が絶えず人に行動とか意志とか決意とかを求めてきて、その中で勝ち進んでゆく強者の論理で支配されているからだ。そんなとき、弱くあることは権利や自由を超えた、「贅沢」なことなのだと考えることはその恩恵を最大に引き立ててくれるように思う。

強者によって「歴史」は作られてきたのかもしれないけれど、いまわたしたちが受けている歴史の恩恵には弱さを抱えながらもそれを隠したり克服したりして必死に生きてきた人が作ってきた遺産が積み上がっているのだと思う。

もちろんわたしたちがすでに手にしている「弱くある贅沢」は、人が抱えている弱さのうちのほんの一部でしかないだろう。いまもその弱さを抱えながら今を生きるのに必死な人がいて、弱さに由来する差別や戦争と日夜闘っている人もいる。だからわたしはいま、こうしてぬくぬくと机に向かって弱さを認めるひとときを過ごすという贅沢の影で、声にならなかったたくさんの声があり、流れていった大量の血液と涙があることを、決して忘れない。



コメント