言葉が奪われてしまう前に
いつもブログを読んでいただきありがとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
暦の区切りというものは人為的なものなので、それ自体にたいした意味はないと思っている。だからわたしは年末らしいことも正月らしいことも、社会儀礼として必要なこと以上は特にしないことにしている。それでもここ最近を1年という区切りで見てみる限り、2020年という年は忘れがたいものとなった。NY同時多発テロとそれに続く混乱や、東日本大震災のように、大きな出来事に翻弄されたし、これからもしばらくはそうであり続けるだろう。ここでひとまず振り返ってみることに意味はあるだろうか、と思いながらブログを書いている。
大晦日には一之輔のYouTube配信で芝浜を聞いたので酒を飲むかどうか迷ったのだけど、結局ぜんぶ夢になっちゃえばいいのに、と思って日本酒を飲んで、いつも通りの時間に寝た。紅白なんてもともと見ないし、年末のラジオも特に面白くない。案の定というか、朝起きてみたらやっぱり惨状は夢にはなっていなくて、これからも戦い続けなければならないようだ。新聞には相変わらず自らの権力に物を言わせて私欲を貪る政治家の話題と、感染症の猖獗の前に無策な政府の姿が文字になって踊っていた。
正月やクリスマスのムードに流されることの危険はいつも、その時期にこそ社会の末端とされる側で苦しむ人の声が、聞こえなくなることだ。役所も閉まって日銭を稼ぐための仕事もなくて行き場を失う人がいるときにお祭り気分でいることには罪悪感を覚える。身内だけにプレゼントを配るようなクリスマスも、炬燵でぬくぬくと酒を飲んで過ごす正月も、それらは寒さの中で明日のこともままならない思いで過ごす人びとのことを、その時だけは考えなくても済んでしまうような気持ちでいたくはなかった。正月ムードなんて、そのための言い訳を振りまいているようだ。
なんとなく浮かれた気分の言葉が連なるSNSを徘徊していて、目の覚めるような思いをしたのはみらい選挙プロジェクトの三春充希さんのこの記事を読んだから。
この1年でわたしたちはどれだけこの国の悲惨な姿を目にしただろうか。対応が後手に回っても「先手先手」という言葉で取り繕い、失敗を認めることも反省をすることもない政府のトップ。職権を私利私欲のために用いて都合良く辞任する政治家。国民の声に対峙する勇気も無く責任逃れを続ける政府。国民が苦しんでいるときにも、自らの保身のために国会を閉会する与党とその補完勢力。専門家の声を聞かず、都合良く切り取って利用するだけの感染症対策。他人の命を懸けておきながら「命がけ」という言葉を用いる傲慢きわまりない首長。混乱のさなかの着任早々、まずは自分でやってみろと国民に自助を呼びかける首相。空疎な言葉と詭弁によって言葉を破壊し、知性を軽んじ、みずからの欲求によって権力を振りかざす姿を何度、わたしたちは目にしただろうか。
こんな国で、自分の子供たちに未来を譲れると思うだろうか。よい未来を次の世代に受け渡してあげられると心から思う大人が、はたしてどれだけいるのだろうか。この国に生まれて良かったと思える社会を、わたしたちは作っているだろうか。
わたしも重くのしかかるその責任を感じる世代になってきた。デモやイベント、なかんずく気候変動関連のものに参加すれば、わたしよりも10は歳の若い人や高校生などもよく見かける。その10年のあいだ、わたしは彼らに胸を張れるような行動をしてきただろうかと思うと、むしろ馬齢を重ねたという言葉の方が適切である気がしてくる。
世界を変える、社会は変えられる。どれだけその空疎な言葉たちに、翻弄され、裏切られてきただろうか。簡単にそう口にするのは往々にして、つねになにかを「アップデート」する人びとが、2.0とか5.0とかいう言葉を振り回して人びとを誘導しようとするときや、国民の代表として選出されたはずの人びとが自分の声で語らずに権力のゲームで社会の行方を決めようとするときだ。その流れに無批判に乗りながら自らの先進性を感じて悦に入る人や、そこから利益を得る人たちは、社会を変えるなんて言葉が快いものに思われるのかもしれない。しかし世間のゆくえを冷静にみつめ、違和感を言葉に換え、必要とあらばに知性で抗う人は孤独だ。
だけど闘うことを、あきらめてはいけない。
心理学には学習性無力感という概念がある。発達の過程で、なにかに抵抗しても回避できなかったり、行動しても拒まれたりする状況に長く晒されると、「なにをやっても無駄」という意識が育ってゆく。わたしたちの社会参加もまた学習性無力感を獲得してはいないだろうか。声を挙げても意味が無い。SNSで批評家ぶって何か書いたところで、世界なんか変えられない。そんな意識は、次第に他者を冷笑する態度に変わってゆく。
理不尽に抗い、不正義に声を挙げ、よりよい社会を作るために提案することは、痛いことでも恥ずかしいことでもない。わたしたちは主権者だし、社会の担い手はわたしたちだからだ。
わたしの周りにも、何人もいた。特定秘密保護法、安保法、共謀罪、声を挙げても何も動かせずに政治に失望して行動を止めてしまった人が。しかしそれこそ、彼らの思う壺なのだ。異議を唱える国民の声を奪い、参加を諦めさせてしまうことが権力者にとって最も都合の良いことなのだ。
より生きやすく暮らしやすい社会を作るために、わたしたちの理想を実現し、安全を保障するために政治はあるはずだ。それなのに呆れて声も出ないほどくだらない議論が国会では繰り返されている。この危機の中で、この国がどれだけ腐っているかが可視化されたのに、声を挙げない理由がどこにあるのだろうか。
溜め息も出ないほど決断力がなく姑息な対応を続ける政権の姿は情けない。実のある議論をしない政治家の責任は与党も野党も関係ない。右も左も関係ない。必要なのは国民の声の届いた真っ当な政治であり、生活を支えるための政策だ。求められているのは絆ではない。危機の時に政治家は国民に寄り添う気持ちを表明するよりも、具体的な政策で国民を救うべきだ。戦闘機を飛ばすよりも現場に届く支援をするべきだろう。絆でも感謝でも、人は救えないからだ。
何度裏切られただろうか。明確なビジョンも持たずに自助を唱えながら、パンケーキと携帯料金の値下げで懐柔を図る無能な総理大臣にも、それに代わることもできない弱い野党にも、権力に怯え、媚びるメディアにも、広報まがいのことしかできない腑の抜けたジャーナリズムにも。
この10年で、いろいろなことが変わってしまった。強権を振りかざす政府が重要法案を力尽くで通しただけではない。政府が官僚人事を掌握し、自らに都合の良い人物を中枢に据える。とくに内閣法制局人事を恣意的に入れ替えることで、違憲・違法と思われていた法案にもお墨付きを与えることができるようになった。記者会見も1社1問で追加質問もできず、さらには事前に官僚が質問を集めておいて、官僚が答えを文書にしておくかたちになってしまった。もはや会見ではない、ただの朗読会だ。いままで輪番で行われてきたメディアの単独インタビューも、官邸がメディアを選別して特定のメディアに集中して受けるようになり、都合の悪い報道には介入するようになった。
どれだけわたしたちの力が失われただろうか。直接に力を奪われた訳ではなくても、権力を掌握することでわたしたちの声を無力にする仕組みは、少しずつ着々と完成していっている。わたしたちの挙げる言葉を無力にしてゆく制度が確実に出来上がってゆく一方で、政治家たちの詭弁によって日本語の豊かさや厳密さが立法府において、堂々と、破壊されてゆく。
奪われてゆくのはわたしたちの言葉だ。
まだ声を挙げられるうちに、あのとき声を挙げておけばよかったと後悔しないように、思いを言葉にしてゆかなければいけない。思いを言葉にする、それはとても自然で当たり前のことだ。だけどそれすらも無力になってゆく現実を前に、その大切さを噛み締めている。小さな声だけれど、それを確実にかたちにしてゆくことが大切なのだと思う。正しいことを正しいと言い、間違いを間違いだと言い、理想の社会を語り、その実現のための道筋を考える。そのための言葉をわたしたちは、わたしたちの言葉で、語らなければならない。
人がその人らしく安全に生きることを支える仕事を果たさない政治家は去れ。人がその人らしく生きることを、社会が支えられないのだとすれば、それは社会に魂を差し出していることと何も変わらない。保身のために数々の命を見殺しにしてきた政治を、わたしは許すことはできない。しかし何度裏切られても、絶望せずに戦いつづづけるしかない。わたしたちにはそれしか、残されていないのだから。
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