もし岩波文庫がハリー・ポッターを出したら(ありそうもない表紙で巡る世界の名作)
人から薦められたり書評を見て本に出会うこともあるけれど、本屋をぶらぶらしながら新しく出会う本もある。その本を手に取るかどうかを決めるのは、本の装幀であることが多いと思います。表紙のデザインで手に取るか取らないかを判断するということは、装幀で読んだことのない本の印象が決まってしまうということなのかもしれません。
たとえばもしベストセラーになるようなエンターテイメント小説が、小難しそうな表紙で売られていたとしたら、人はそれを手に取るのでしょうか。たとえばもし、『ハリー・ポッター』シリーズが岩波文庫のようなとっつきにくい表紙であったとしたら。あるいはSF小説が、みすず書房のようなお堅い表紙だったとしたら。
Illustratorの練習がてら、ありえそうもない表紙で世界の名作文学を作ってみました。
ハリー・ポッターと賢者の石
まずは言わずと知れた名作『ハリー・ポッターと賢者の石』を、数多くの名作を出している岩波文庫風のデザインで作ってみました。ジャンルごとに色分けされたタイトルと、本文との関係がよく分からない図、冷静な文体の内容紹介が特徴ですね。
わたしは人の家に上がったときは、その家の本棚が気になるのですが、特に岩波文庫の数を数えて、心の内で勝ったとか負けたとか考えています。どの色が多いかも気になりますね。白が多いとちょっと警戒します。青が多いと仲間だと思うし、緑が多いとお友達になりたいと思う。黄色が多いと恐れ入りましたという感じで、赤が多い人には憧れを感じますね。
ビジネス書風『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ著)
無地の背景にタイトルを強調したシンプルなデザインが多いビジネス書。タイトルのインパクトと、内容を簡潔に説明した副題で、一目見ただけで手に取って見たくなるような工夫がされています。忙しいビジネスマン向けの注意を引くためにデザインされた表紙ですね。(わたしはこの手の本は読まないので、よく分かりませんが……)
こちらも名作ですが、一応解説を。ミラン・クンデラはチェコスロバキア生まれの作家。1968年の改革運動(プラハの春)に支持を表明し、政治的にも熱心に発言をしていましたが共産体制下で居場所をなくし、フランス国籍を取得、その後はフランスで創作を続けていました。本作は「プラハの春」を舞台にした恋愛小説で、多くの人が大学生の内に読んでおく一冊ではないでしょうか。
ほっこり紀行文風『失われた地平線』(J. ヒルトン著)
理想郷という意味で使われる「シャングリラ」という言葉は、この小説の舞台である架空の理想郷が由来になっています。英国領事の主人公コンウェイが職務でパキスタンに向かう飛行機に乗ると、操縦士は本来とは違う人が務めており、着陸してすぐに謎の僧院の存在を口にして息を引き取ります。その後現地人に案内されてたどり着いた地「シャングリ・ラ」は豊富な金鉱があり、物に不自由することもなく、老いる速度も遅いまさに理想郷でした……。「桃源郷」の由来となった陶淵明の『桃花源記』とならぶ名作だと思います。
この本はわたしが最も復刊を望んでいる本の一冊です。これまでにも何度か日本語訳は出ていて、最近だと2011年に河出文庫から池央耿さんの訳で出版されていますが、いまは品切になっているようです。こんな名著なのに、出しても売れないのでしょうかね?
軽快な語り口で人気の紀行作家、宮田珠紀さんが書いたらどんな表紙になるだろうな、と想像しながら、ポップな表紙を考えてみました。
ミステリー風『戦う操縦士』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ著)
サン=テグジュペリが自らの体験を元に書いた『戦う操縦士』。ドイツ軍に圧倒された戦況のなかで意味のない偵察飛行を上官から命令された主人公は、決定的な敗北の惨状を眼下に見、対空砲火で目の前に迫る死に向き合いながら戦争と生きることの意味を洞察します。死を覚悟した緊迫感のなかで語られる命と社会へのまなざしは、サン=テグジュペリの著作の中でもずば抜けて美しく、強烈です。ながらく絶版になっていましたが、去年ようやく光文社古典新訳文庫から鈴木雅生さんの訳で出版されました。新潮文庫の堀口大學訳もとても好きでしたが、こちらもすばらしい翻訳だと思います。
ミステリー小説のような、暗くてインパクト重視の表紙を作ってみました。彼は何と戦い、そして何を守るのだろうか……。
学術書風『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック著)
SF小説の名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は第三次世界大戦後の汚染された世界が舞台。自然が破壊されたかわりに人造生物が製造され、アンドロイドと人間の境界さえも分からなくなりつつある状況で、主人公は火星からやってきた元奴隷のアンドロイドを始末するというミッションを与えられます。人対アンドロイドの戦いの様に見えて、人間性とは何かを問いかける名作になっています。
ここではそれを学術書風にしてみました。学術書はシンプルで洗練されたデザインのものが多いですね。写真も控えめに、彩度を落として配置してみました。帯はみすず書房のものを意識して作ってみましたが、こうしてみるとホロコーストを分析した研究書のように見えてきます。
現代英米文学風『長恨歌』(白居易)
唐の玄宗皇帝が安禄山の乱(安史の乱)により都から逃れた際、家臣たちは皇帝が妃の楊貴妃を連れてきたことを快く思っていませんでした。玄宗は楊貴妃が足手纏いになっていると家臣たちに言いくるめられ、殺害の許可を出してしまいます。乱の平定後、玄宗は楊貴妃を始末したことを後悔し、深い悲しみへと追いやられます。シャーマンが天に昇って楊貴妃の魂を探し出したところ、楊貴妃は玄宗に深い感謝の言葉と形見の品を託します。
白居易がこの物語を読んだ長い詩のうち、「天に在りては願わくは比翼の鳥となり、地に在りては願わくは連理の枝とならん」いう言葉はとても有名ですね。長恨歌は日本文学にも強い影響を与え、絵巻物や屏風にも描かれました。
ここでは現代英米文学のようなふんわりしたデザインで。ちなみにこの絵はフランツ・カフカの描いた絵です(著作権切れなので使わせていただきました)。
新書風『遺産相続ゲーム』(ミヒャエル・エンデ著)
名作と言うよりは、隠れた名作かもしれませんが、わたしの大好きな作品です。十人の相続人が、故人の遺言状を開けるために館に集められます。十の破片になった遺言状を渡された相続人たちは互いに協力するのか、あるいは出し抜くために裏切るのか……。『モモ』や『果てしない物語』のようなファンタジーで有名なエンデですが、破滅的でシニカルな作品も世に送り出しています。
新書も堅い物から柔らかいものまでありますが、今回は赤いやつや緑のやつのように、堅めのものをイメージしてみました。現代の相続を巡る社会問題を暴露した著作みたいになりますね。
時代小説風『ふたりの証拠』(アゴタ・クリストフ著)
アゴタ・クリストフのデビュー作にして名作の『悪童日記』は戦時下にハンガリーの国境の町でしたたかに生きる双子の姿を、彼らのノートの形で描いた作品です。わたしも初めて読んだときの衝撃は鮮烈に記憶に残っています。続編にあたる『ふたりの証拠』では戦争が終わり、双子の一人は国境を越えた向こう側の国へ、もう一人は国境の町に残ります。残った子が兄弟のために書き続けた日記の形で、戦争が裂いた絆の深さを炙り出す名作です。
ここでは時代小説風に、旅道中の姿を配してみました。cocoancoさんによるイラストACからのフリー素材をお借りしました。ありがとうございます。この悪童(?)、どんなよからぬことを企んでいるのでしょう。そしてこの女の人とはどんな関係なのでしょうか……。
官能小説風『若きウェルテルの悩み』(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ著)
ゲーテさんごめんなさい、本当にごめんなさい。怒られるかもしれないなと思いながら、やってしまいました。『チャタレイ夫人の恋人』の方がよかったのでしょうか? (そういう問題じゃない)
『若きウェルテルの悩み』はゲーテの(もちろん大真面目な)傑作であり、婚約者がいながらも恋をして叶わない思いに絶望して自死を選ぶ悲運の小説で、社会現象を巻き起こしたほどの名著です。
古風なタイポにきわどいイラストの官能小説を参考に作ってみました。とはいえあまりきわどいものもアレですので、このへんで許して下さい。若きウェルテル、どんなことに悩んでるんだろう? お姉さんがお悩み、解決してくれるのかなぁ??
なお、イラストはkamesanさんのフリー素材をお借りました。ありがとうございます。そしてごめんなさい。
わたしはこの手の小説は読んだことがない(いや本当に。そりゃ高校生くらいの頃は気になりましたけど、それ以外の媒体もいろいろありますし、恥ずかしくて買えませんから。)のですが、作るにあたっては、(目に毒だと知りながら)フランス書院文庫さんの書影を参考にしました。
さいご
ふざけてしまいましたが、これを機に海外文学に興味を持って下さったり、いままで読んだ本をもう一度手に取っていただけたら、とても嬉しく思います。いちおう断っておきますが、わたしはただの本を愛好家であって、デザイナーでもなんでもありません。デザインの観点からいったら、雑もいいところな出来映えだと思いますが、素人なので粗探しなどせず大目に見てください。
実をいうとわたしは、海外文学にもさほど詳しくなく、むしろ日本近代文学が大好きです。しかも人文書に囲まれながら生活している身なのです。もしご要望があれば(ないと思うけど)、日本文学編や人文書編もやりましょう。
ところでよく「おすすめの本ないですか?」と訊かれます。
「んなもんあるかよ。自分で探せタコ」というのがわたしの答えです(いや、普段はそんな乱暴な言葉遣い……してます……)。人によって大切なもの、美しいと思うもの、抱えている問題……いろいろあるはずで、どんな本がその人に合うかはわたしにはわからないし、わたしにはわたしなりの読み方しかできないのだから、人に本を薦めるなんてのは僭越にすぎることだと思います。それに今の自分に分からない本でも、何年かしてから分かってくる本だってある。だから自分の足で探して、買って、読んで、手元にずっと置いておけ、としか答えられません。
出版不況が叫ばれる中、実は書籍の出版点数(つまりタイトル数)は増えています。点数を増やすことで出版社は利益を出そうとしているということですね。その分売れなくて絶版になる本も、たくさんあるでしょう。その中には上に挙げたような名作がかなりたくさん含まれています。電子書籍もあるし、今はネットの情報でも事足りるようになりました。目にする情報の量が圧倒的に増えているけれど、言葉が次々と生み出され、すぐに忘れ去られていくことに、わたしは危機感を覚えています。使い捨てにされる言葉といえば、noteだって、それを書いているわたしだって、ややもすればその片棒を担いでいるのかもしれません。分かりやすくて面白いものばかりが消費される世の中だけど、考えなくてもよくなってしまっているようにも思うのです。
じっくりと時間を掛けて考えることも大事です。重苦しい物語のなかから、愛や生命について、繋がらないパズルのピースを弄ぶもどかしさに耐えながら思考を巡らしたあとでこそ、見えてくる景色だってあるはずです。
文学は、答えを与えてくれないかもしれない。すぐに答えを出したい人には、もどかしくて面倒な代物でしょう。何の役にも立たないように見えるでしょう。
だけど、答えを見せないからこそ誰しもに開かれている。それぞれの切り口があって、引き出せる答えはむしろ、無限なのだと思います。それを、分かりやすさとか面白さとか、共感できるかどうかとか、そんな物差しで測っていては、文学の持っている価値には決してたどり着けないはずです。
海外文学は、とくに読みやすい訳ではありません。だけど時間を掛けて噛むからこそ出てくる味だってある。柔らかい物ばかり食べていたら消化不良になって、頤も弱くなってしまいます。あらすじを読んだだけでは分からないのが文学なのだから、耐えてじっくり読まなければいけません。『失われた時を求めて』を一冊にまとめた本すら出版されているけれど、わたしの目には知の堕落にしか、どうしても、見えません。
わたしは、だれも分かってくれないのだと思って一人で孤立感に苛まれていた高校生の頃、ヘッセの『車輪の下』を読んではじめて、自分は一人じゃないのだと感じることができた。心の扉をそっと、開いてくれるような本があり、ただじっとそばにいてくれるような本があり、哀しみを分かってくれる本があり、立ちすくんだときに道を教えてくれる本がある。分かりやすくはないかもしれない。仕事の役に立つわけでもないだろう。お金になるはずもない。だけど本が人生の道しるべとして、そこにいてくれる。周りの人が助けてくれないときも、本はただ、そこにある。
だから思う。文学は力なのだと。
先日読んだ朝日新聞で、関野吉晴先生のインタビューのなかに、彼の指導教員だった秌場準一氏のこんな言葉がありました。
宗教や歴史や美術ですら、「教養」という言葉で、「役に立つ」「わかりやすい」世界に組み込まれていこうとしている。『エリートが身に付ける教養 世界の文学』みたいな本が出てくるのも、そう遠くはないでしょう。もう出ているのかもしれないし、じじつ美術や世界史はそういう本ばっかりになってきました。それでお金を稼ぐ人には、きっといいことなのでしょう。
だけどわかりやすさ至上主義が蔓延すれば、文学の居場所は狭くなる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだことないのに読んだような顔をして、あるはフーコーやアドルノやハバーマスの理論をつかって世の中を分析したような顔をして生きている大学生みたいに、文学を「教養」として身に付けたところで、文学の価値が分かる訳ではないでしょう。大切なのはプロットや文学史なのではなくて、文学が投げかける問いのほうなのだから。わたしは文学の居場所を、守りたい。
ふざけた画像を貼ったけれども、わたしは文学へのかわらない愛を込めて、これをやりました。ぜひ本の装幀も楽しみながら本屋をぶらぶらして、自分の心に塡まる一冊をみつけていただけたら。
実をいうとわたしは、海外文学にもさほど詳しくなく、むしろ日本近代文学が大好きです。しかも人文書に囲まれながら生活している身なのです。もしご要望があれば(ないと思うけど)、日本文学編や人文書編もやりましょう。
ところでよく「おすすめの本ないですか?」と訊かれます。
「んなもんあるかよ。自分で探せタコ」というのがわたしの答えです(いや、普段はそんな乱暴な言葉遣い……してます……)。人によって大切なもの、美しいと思うもの、抱えている問題……いろいろあるはずで、どんな本がその人に合うかはわたしにはわからないし、わたしにはわたしなりの読み方しかできないのだから、人に本を薦めるなんてのは僭越にすぎることだと思います。それに今の自分に分からない本でも、何年かしてから分かってくる本だってある。だから自分の足で探して、買って、読んで、手元にずっと置いておけ、としか答えられません。
出版不況が叫ばれる中、実は書籍の出版点数(つまりタイトル数)は増えています。点数を増やすことで出版社は利益を出そうとしているということですね。その分売れなくて絶版になる本も、たくさんあるでしょう。その中には上に挙げたような名作がかなりたくさん含まれています。電子書籍もあるし、今はネットの情報でも事足りるようになりました。目にする情報の量が圧倒的に増えているけれど、言葉が次々と生み出され、すぐに忘れ去られていくことに、わたしは危機感を覚えています。使い捨てにされる言葉といえば、noteだって、それを書いているわたしだって、ややもすればその片棒を担いでいるのかもしれません。分かりやすくて面白いものばかりが消費される世の中だけど、考えなくてもよくなってしまっているようにも思うのです。
じっくりと時間を掛けて考えることも大事です。重苦しい物語のなかから、愛や生命について、繋がらないパズルのピースを弄ぶもどかしさに耐えながら思考を巡らしたあとでこそ、見えてくる景色だってあるはずです。
文学は、答えを与えてくれないかもしれない。すぐに答えを出したい人には、もどかしくて面倒な代物でしょう。何の役にも立たないように見えるでしょう。
だけど、答えを見せないからこそ誰しもに開かれている。それぞれの切り口があって、引き出せる答えはむしろ、無限なのだと思います。それを、分かりやすさとか面白さとか、共感できるかどうかとか、そんな物差しで測っていては、文学の持っている価値には決してたどり着けないはずです。
海外文学は、とくに読みやすい訳ではありません。だけど時間を掛けて噛むからこそ出てくる味だってある。柔らかい物ばかり食べていたら消化不良になって、頤も弱くなってしまいます。あらすじを読んだだけでは分からないのが文学なのだから、耐えてじっくり読まなければいけません。『失われた時を求めて』を一冊にまとめた本すら出版されているけれど、わたしの目には知の堕落にしか、どうしても、見えません。
わたしは、だれも分かってくれないのだと思って一人で孤立感に苛まれていた高校生の頃、ヘッセの『車輪の下』を読んではじめて、自分は一人じゃないのだと感じることができた。心の扉をそっと、開いてくれるような本があり、ただじっとそばにいてくれるような本があり、哀しみを分かってくれる本があり、立ちすくんだときに道を教えてくれる本がある。分かりやすくはないかもしれない。仕事の役に立つわけでもないだろう。お金になるはずもない。だけど本が人生の道しるべとして、そこにいてくれる。周りの人が助けてくれないときも、本はただ、そこにある。
だから思う。文学は力なのだと。
先日読んだ朝日新聞で、関野吉晴先生のインタビューのなかに、彼の指導教員だった秌場準一氏のこんな言葉がありました。
「すぐ役に立つものは、すぐ役に立たなくなる。学生時代は本を読め。友達を作れ。酒を飲めるようになれ。それだけやればいい」
宗教や歴史や美術ですら、「教養」という言葉で、「役に立つ」「わかりやすい」世界に組み込まれていこうとしている。『エリートが身に付ける教養 世界の文学』みたいな本が出てくるのも、そう遠くはないでしょう。もう出ているのかもしれないし、じじつ美術や世界史はそういう本ばっかりになってきました。それでお金を稼ぐ人には、きっといいことなのでしょう。
だけどわかりやすさ至上主義が蔓延すれば、文学の居場所は狭くなる。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだことないのに読んだような顔をして、あるはフーコーやアドルノやハバーマスの理論をつかって世の中を分析したような顔をして生きている大学生みたいに、文学を「教養」として身に付けたところで、文学の価値が分かる訳ではないでしょう。大切なのはプロットや文学史なのではなくて、文学が投げかける問いのほうなのだから。わたしは文学の居場所を、守りたい。
ふざけた画像を貼ったけれども、わたしは文学へのかわらない愛を込めて、これをやりました。ぜひ本の装幀も楽しみながら本屋をぶらぶらして、自分の心に塡まる一冊をみつけていただけたら。
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