イケメンにはなりたくないし、かわいい女の子にも興味がない。
イケメンなんかになりたくはない、と、常々おもっている。
どうせなろうと思ってもなれないのは明らかなんだけど、
決してひがんでいる訳ではないのです。決して、決して。
理由は3つ。
1つ目は自分が対象化されること。
つまり、わたしが、まなざしの対象として消費される。そこで自分は容姿や立ち居振る舞いといった一面だけ切り取られることになる。人格から外観が切り離されてしまう。そして、イケメンの外観は、その人の人生のなかで積み上げてきたいろいろなものを縁辺に押しやってしまう。
上野千鶴子は「男は美から疎外され、女は美へと疎外される」と90年に指摘したそうだが、こんどは逆の現象が「イケメン」という言説の中で起きているように思う。そこに「見られる男性」と「見る女性」という関係性が成り立っている。
べつに「男は外見じゃない、中身だ」なんて言っているわけではないのです。
ただ、そうやって外見が関心の中心となって、私の持っているそれ以外のものがおまけにすぎなくなるって、つまらないと思うのです。だって、自分の人生のなかで色んな人と出会ったり、苦しんだり、楽しい思いをしたりしながら見つけてきたものが、私にとってたいせつなものだから。それを無視して、外見だけのつまらない男にはなりたくないのです。それに、表面的なところでしか人間を見ることのできない人(男女関係なく)と私はうまくやっていけないと思う。。。
2つ目。「イケメン」という言説によって見方が方向付けられてしまうこと。
カテゴリによって人間をみることは、カテゴリという枠に人を押し込めることだと思う。
たとえば、芸術家というカテゴリとか。芸術家とはこういうもの、という前提をあらかじめ持っていて、Aさんは芸術家だからこういう人間なんだろう、と、実際にAさんと関わる事もなしに、Aさんを判断してしまうツールになる。実際にAさんと関わったとしても、芸術家という先入観が、Aさんのある部分だけを目立たせてしまうかもしれない。芸術家だと知らなければ、もっと違ったふうにAさんが見えてくるかも知れないのに。
イケメンも一緒で、イケメンという枠の中でしかその人を見られなくなるものかもしれない。イケメンなのにオタクだったら、「残念なイケメン」だとか、そういうサブカテゴリに入れられる。
物事の見方ってもっと自由でいいはずなのに、イケメンというくくりに入れられることって、一様な見方をされてしまうのは窮屈ではないかなぁ。他人の服を着せられているみたいで。
そういえば大学に入った頃、よく同級生には、駿ってよくわからない、と言われた。それはもしかしたら、あの人はこういうタイプの人間で、とか、そんな風に人間を区分してみてるからかもしれないね。分からないのは、自分の持っているタイポロジーで判断できないからであって、もしかしたら、他人を判断するのをやめて、枠組みにとらわれることなく、ありのままを見たら、「わからない」なんてことはないんじゃないかなぁ。
だって、人間って分かるとか、分からないとか、そういうもんじゃないでしょう。他人のことが分かるって、なんなのさ。。。
話が逸れたけど、つまり言いたいのは、「イケメン」って括ってしまえば、たしかにわかりやすいんだけど、括ってしまうことで見逃しているところもあるのではないか、ということ。
3つ目。
イケメンには個性を感じない。
イケメンって最大公約数だから、誰にでも認められる価値でしかないのだ。
自分が持っている固有の価値観、自分の個性に共鳴するものが大切なのであって、みんながいいと言うものに同調する必要はない。
たとえばね。
どうせなろうと思ってもなれないのは明らかなんだけど、
決してひがんでいる訳ではないのです。決して、決して。
理由は3つ。
1つ目は自分が対象化されること。
つまり、わたしが、まなざしの対象として消費される。そこで自分は容姿や立ち居振る舞いといった一面だけ切り取られることになる。人格から外観が切り離されてしまう。そして、イケメンの外観は、その人の人生のなかで積み上げてきたいろいろなものを縁辺に押しやってしまう。
上野千鶴子は「男は美から疎外され、女は美へと疎外される」と90年に指摘したそうだが、こんどは逆の現象が「イケメン」という言説の中で起きているように思う。そこに「見られる男性」と「見る女性」という関係性が成り立っている。
べつに「男は外見じゃない、中身だ」なんて言っているわけではないのです。
ただ、そうやって外見が関心の中心となって、私の持っているそれ以外のものがおまけにすぎなくなるって、つまらないと思うのです。だって、自分の人生のなかで色んな人と出会ったり、苦しんだり、楽しい思いをしたりしながら見つけてきたものが、私にとってたいせつなものだから。それを無視して、外見だけのつまらない男にはなりたくないのです。それに、表面的なところでしか人間を見ることのできない人(男女関係なく)と私はうまくやっていけないと思う。。。
2つ目。「イケメン」という言説によって見方が方向付けられてしまうこと。
カテゴリによって人間をみることは、カテゴリという枠に人を押し込めることだと思う。
たとえば、芸術家というカテゴリとか。芸術家とはこういうもの、という前提をあらかじめ持っていて、Aさんは芸術家だからこういう人間なんだろう、と、実際にAさんと関わる事もなしに、Aさんを判断してしまうツールになる。実際にAさんと関わったとしても、芸術家という先入観が、Aさんのある部分だけを目立たせてしまうかもしれない。芸術家だと知らなければ、もっと違ったふうにAさんが見えてくるかも知れないのに。
イケメンも一緒で、イケメンという枠の中でしかその人を見られなくなるものかもしれない。イケメンなのにオタクだったら、「残念なイケメン」だとか、そういうサブカテゴリに入れられる。
物事の見方ってもっと自由でいいはずなのに、イケメンというくくりに入れられることって、一様な見方をされてしまうのは窮屈ではないかなぁ。他人の服を着せられているみたいで。
そういえば大学に入った頃、よく同級生には、駿ってよくわからない、と言われた。それはもしかしたら、あの人はこういうタイプの人間で、とか、そんな風に人間を区分してみてるからかもしれないね。分からないのは、自分の持っているタイポロジーで判断できないからであって、もしかしたら、他人を判断するのをやめて、枠組みにとらわれることなく、ありのままを見たら、「わからない」なんてことはないんじゃないかなぁ。
だって、人間って分かるとか、分からないとか、そういうもんじゃないでしょう。他人のことが分かるって、なんなのさ。。。
話が逸れたけど、つまり言いたいのは、「イケメン」って括ってしまえば、たしかにわかりやすいんだけど、括ってしまうことで見逃しているところもあるのではないか、ということ。
3つ目。
イケメンには個性を感じない。
イケメンって最大公約数だから、誰にでも認められる価値でしかないのだ。
自分が持っている固有の価値観、自分の個性に共鳴するものが大切なのであって、みんながいいと言うものに同調する必要はない。
たとえばね。
ここに2つの猫の絵があります。
左が有名な竹内栖鳳の「斑猫」、右が竹内ほどは有名じゃない橋本関雪の「暖日」。
どっちが好きでもいいんだけど、みんなが竹内を評価するから竹内の方がいいというのはどこか嘘っぽい。橋本が好きな人もいて、それでいいじゃん?
問題はイケメンの価値ばかりが強調されることであって、みんなが最大公約数に吸収されていくこと。誰もが認める価値ばかりが価値だと思われてしまうこと。それって、すごくつまらない。割り切れないものだって、あってもいいはずなのに。
「イケメン」じゃない人をかっこいいな、ステキだなと思ってもいい。イケメンを目指さなくてもいい。周りがどうこう言うからではなくて、もっと、自分の価値観を信じていいのに。モテることは、周囲の価値に同調することと紙一重なのかもしれない。。。(モテなくてよかったね!)
「イケメン」を規定しているのって、メディアかもしれないし、社会かもしれないし、周囲の人びとかもしれないし。自分の価値観を、彼らに委ねていいのかな?
イケメンだけじゃなくて、「かわいい」も同じだとおもう。
かわいい……so what?
「かわいい」はその人の一面、それも表面的なものでしかない。
しかもそれはみんなが概ね認める価値であって、自分とか、自分の大切な人にとっての価値ではないかもしれない。
それなのに、「かわいい」ことこそが大事で、かわいい人がかわいくない人よりも優れていて、かわいい人って人間的な価値が高い……そんなことありえないでしょう。だからね、かわいい女の子になる必要なんてないと思うんです。
だから、私は、かわいい女の子には興味がないんです
……ちょっとしか。
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『ユリイカ』2014年9月臨時増刊号「総特集 イケメン・スタディーズ」を参考にしました。
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