【メモ】「おおやけ」をめぐる錯綜

※題名の前に【メモ】と書きました。いずれ削除するか、加筆や訂正をするかもしれませんが、とりあえず公開します。

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とある大学の施設に設置されていた業務用のコピー機があった。大学の教職員のみが使用できるものだが、この大学に来たばかりの留学生は勝手が分からず、近くにいた学生に尋ねた。

「このコピー機はpublicですか?」

尋ねられた学生は「Yes」と答えたという。安心してコピー機を使おうとした留学生は、コピー機がロックされているので困惑した。

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さて、ご存知の通り「平和の少女像」が展示されたあいちトリエンナーレ2019の企画「表現の不自由展 その後」が中止に追い込まれた。直接の原因は安全性を確保できなくなったことだが、その発端となったのは河村たかし名古屋市長が「どう考えても日本人の心を踏みにじるものだ。即刻中止していただきたい」「税金を使っているから、あたかも日本国全体がこれを認めたように見える」などと発言したことだ。勝手に「日本人の心」を代弁などしないでほしいところだが、保守系の国会議員らも税金が使われたことを疑問視する発言が相次ぎ、菅義偉官房長官も内容を精査するなどと発言した。

これらの発言は何重にも間違っていることになるのだが(後述する)、ここで取り上げたいのは税金が使われているから政府に批判的な言論が認められないという主張について、「税金」をめぐる理解がマズいんじゃないかと思うところがある。

上のコピー機の例ではなぜこのような会話の行き違いが起きたのか。英語でいうpublicと、日本語の「公」のあいだにはおおきな隔たりがあるからで、それが税金や政府の問題を考えたときにも同じように作用しているように思えるのだ。

たとえば日本語で「公有地」といったとき、それは国や行政府の所有する土地であって一般人は立入不可であることが多い。いっぽうpublic spaceといえば誰もが自由に出入りできる空間のことだ。つまり「公」といったら公方様のような「お上」とか政府や統治者を指し示すことが多い一方で、publicといえばみんなのものという意味合いが強い。(もちろん、「公」には公益とか公園のようにpublicに近い使い方もある。)

ここで考えなければいけないのは税金は公のお金だから政府のために使うお金だとか、政府が政府の目的のために使うお金だという考えがかなり「公」よりの、前近代的な思考から脱却できていない考え方であり、税金とはみんなのお金だという前提に立って議論しなければいけないということだ。これはいま話題の障害者の就労で介護費用を公費で賄う問題とか、あるいは某自己責任系の方が「税金泥棒」などと宣ったことにも繋がるのだが、まあそれはおいておこう。


この件で自民党の武井議員の発言は言い得ている。




納税者もその再分配先も、お上やその意に従う者ではなくて、「みんな」であって、そこには当然、政府与党の見解に対立する者も含まれる。税金で賄われる政党交付金は野党各党に配分されているし(受取を拒絶している政党もあるが)、税金で整備された道路を誰でも自由に使うことができる。税金で支えられるのは全ての言論であって、政府の支持する言論だけが税金で支えられる訳ではないし、税が支出されているからといってそれが政府の公式見解になるわけでもない。仮にそうなってしまうならば、税金で運営されている国会では政府与党しか発言できないことになってしまうし、政府に批判的な人は税金で支えられたあらゆるインフラさえ使えないことになってしまうのかもしれない。嫌なら日本から出て行けという。とんだ独裁国家だ。


税金を使っているから政府を批判してはいけないわけではないし、政府が自らの意志に反する事業や自治体に対して拠出している税金を引っ込めるようなことがあってはならない(沖縄で実際にやっていることだ)。そして政府がそうした圧力を使ったり、実際に使わなくても仄めかしたりすれば「これはやばいからやめとこう」という自粛を促すことになり、わたしたちは検閲を内面化することになる。そうしてわたしたちは、お上の都合のよいことに絡め取られていってしまうのかもしれない。

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「おおやけ」をめぐる錯綜、について言いたいことはとりあえず以上だが、上に河村市長やその他の方々が「何重にも間違っている」と書いたので、責任を持ってその点も一応説明しておこう。

その前に前提として述べておくが、わたしはアートが聖域だとは思わない。芸術だからといって何を言っても構わないとは思っていない。表現の自由は何を言っても、人を傷つけていいということを意味する訳ではないという立場だ。自由とは単に制限の欠如ではなく、制限の質で保障されるという立場だからだが、その話はいずれ機会があれば書く。
また、見ないで語ってはいけないという芸術論にも首をかしげる。そのことは「「感性」の呪縛」という記事に書いたことを読んでいただければわかると思う。そしてあらゆる表現は程度の差こそあれ政治的であり、全てのアートはプロパガンダだ。アートではなくてプロパガンダだとか芸術の名を借りた反日だとかいう批判もナンセンスだ。前提はこの辺にしておこう。

まず言っておくが、問題の像(同じく問題になっている天皇の肖像については後述する)は慰安婦像ではなくて「平和の少女像」である。キム・ソギョン、キム・ウンソン夫妻が製作したこの像は、元々毎週水曜日に日本大使館前で行われていたデモが2011年に1000回を迎えた折に、20年間戦ってきた被害者のハルモニ(おばあさん)を讃えるために市民団体が建立したものである。水曜日のデモの歴史、ハルモニたちの苦難の歴史、世界の平和と女性の人権のために戦うハルモニたちの意志を伝えるために制作したといい、二度とこのようなことがくり返されないようにという思いが込められているという。像の随所にキム夫妻のメッセージが込められており、たとえばこの像は少女が椅子に座る形をとっているが、となりにもう一つ椅子が設置されており、これは亡くなったハルモニたちが座ることを願っている場所であり、かつ今を生きる人が座ってハルモニたちの苦難に思いを馳せる場所であり、さらに私たちの責任を考えるための椅子でもあるという。また、キム夫妻はベトナム戦争における韓国軍の民間人虐殺へ謝罪と反省の意を込めた銅像の制作も行っており、「被害者を悼み再発防止のために加害を記憶することすべてが平和連帯の道だと思っています」と述べており、制作者は批判ではなく日本人との対話を望んでいる(「〈平和の少女像〉制作者・キム夫妻の思い 像の撤去などできない」『週刊金曜日』24(35), 38-39、2016年)。

元は大使館前に設置されたことにより政治性や鋭いメッセージ性を帯びているものの、たんに日本政府を批判するものではない。戦時の性犯罪を告発し、女性の人権や平和への思いを込めた像である。この誤解については、「慰安婦を象徴する像」などと表現して伝えたメディアの責任もあるのかもしれない。「反日」という言葉をどう解釈すればいいのか迷うが(まともに取り合うべき言葉だとも思わないが)、あえて言えば反大日本帝国といえなくはないかもしれないが、今の日本が攻撃されているというのは随分と短絡的だ。

そしてまた、日本政府は河野談話で「いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明し、「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」と宣言しているのだから、この少女像について日本政府の意見と合致すると考えることができる。

さらに「表現の不自由展 その後」は過去に公立の美術館や展覧会等から撤去されたり、内容の変更を求められた作品を集めた企画で、そこから表現の自由を考えるという企画であって、その文脈を無視してこの企画が制作者の意図を支持していると考えるのも安易だと言わざるを得ない。公立図書館が税金で『わが闘争』を購入したからといってヒトラーを支持しているわけでもないし、『資本論』を置いているからといって共産主義だという訳でもないでしょうに。

昭和天皇の肖像をモチーフにした作品については、「御真影を焼いた」などと批判されているが、この大浦伸行の「遠近を抱えて」は天皇の肖像を用いたコラージュが批判を受け、作品を含む図録を美術館側が焼却処分した事実を受けて、肖像を焼くという行為の意味を問うた作品であって、その文脈抜きに「御真影を焼く」という部分だけを抜き出して批判することに何の意味もないと思われるのは上と同じだ。

つまらない議論に反論しても仕方ないので、この辺にしておく。ただ、この問題についてわたしたちが気をつけなければいけないのは「中立ぶった現状肯定」と荻上チキ氏が先日のラジオで言っていた態度で、賛成・反対両方の意見の間に立つことは実は片方に加担していることになるかもしれないのだ。展示に反対している人たちがいて、こういう言い分がある、ということに反対意見を述べる訳でもなく、両方の考え方があるよね、と言ってしまうことは、実は反対勢力を後押ししていることになる。ホロコーストがあったことは疑いようもないのに、両論併記を認めてしまえばホロコースト否定論者の思うつぼであることを忘れてはいけない。まちがっても「難しいよね」などといって議論をごまかさぬよう。

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