「感性」の呪縛


あれは、いつのことだったろうか。まだ十代だったと思う。気になっていた女の子を美術館に誘ったことがあった。わたしなりに文化的な素養のあるところを見せたくて美術館なんて選んだのだとおもう。とはいえ、印象派の、話題になるような大きい展示だったように記憶している。(1) 相手は知的で物静かな感じの人だったから、誘いに乗るかななどと甘いことを考えていた。思い出すと身を捩りたくなるような思い出だが、恥を忍んで書く。彼女の答えはこうだった。

「私、芸術的な感性がないから、美術とかわからないんだよね……」


あれが彼女の本心から出た言葉だったのか、それとも行きたくもないデートを断るための口実だったのか、わたしが知るはずもない。彼女とはもう随分前から疎遠になっているし、あっちは誘われたことさえ覚えていないだろう。わたしにとってはほろ苦い青春の蹉跌として、なんとなく記憶の片隅に佇んでいる。

デートの断り文句、それも何年も前の話に反論するなどという不粋なことをするつもりはないけれど、今思い出しても引っかかるのは「感性がないから美術が分からない」という彼女の言い分だ。美術を「分かる」ためには感性なんていうものが必要なんだろうか。その感性ってのは一体なんだろうか。わたしには、そっちのほうが、よっぽど分からない。「感性を磨く」なんていう言葉も、よく耳にするけど、さっぱり分からない。

結論から先に言ってしまえば、わたしは、美術や芸術やアート(面倒なので以後この3つをまとめて"美術"と書くことにします(11))を理解するためには感性なんて重要ではないし、むしろ邪魔になることだって多いと考えている。それはもしかしたら、本当にわたしに感性がないからかもしれない。だとしても、「感性」なんてものがなくたって美術は楽しめるということを、わたしは言えると思う。

有名な画家の絵だからすばらしい 値段を知るとなおすばらしい
という、枡野浩一の短歌がある。(2) 美術の素養のない人にとっては、その価値というのはよくわからない。だから有名な画家だとか、落札金額とかいうわかりやすい指標に頼ってしまいがちだ。よく言われているけれど、日本人は画家の名前で絵を買う(見る)。芸術とはなにか、普通の人が持っていないような才能や、特別な教養を持った人のような人のものだと思われがちだ。わたしの誘いを断ったあの子がそうだったように。

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美術には感性が必要という考えには、美術とは見ると同時に「感じる」ものである、という前提が含まれているように思う。ミケランジェロの描いたシスティーナ礼拝堂の天井画や、藤田嗣治の《アッツ島玉砕》、ピカソの《ゲルニカ》のような、壮大なスケールの絵画を前にして、言葉を奪われるような経験をすることがある。この心揺さぶられる経験が美術の本質だと言われれば、首肯できなくもない。

たしかに、そういう見方もある。椹木野衣は、こうした考えに基づいて、多くの優れた批評を書いてきた美術批評家だ。

そもそも、よい絵とはなんであろうか。すぐれた美術作品とはどんなものであろうか。
答えは簡単で、見る人の心を動かすものにほかならない。悲しみでも憎しみでも喜びでも怒りでもかまわない。ポジティヴな感情でもネガティヴなものでもかまわない。(3)

といい、美術を作るため、見るためには知識や技術は必要ないという。だからオーディオガイドなど付けずに何も考えずに見ていた方が良いと。(4) つまり、美術は考えるものではなくて、感じるものだという立場だ。じじつ、見る側だけでなく、作る側の立場として、人の感情を揺さぶることを目的にした美術は、数多い。前回も引用したが、もう一度岡本太郎の言葉を挙げておく。

見るものを圧倒し去り、世界観を根底からくつがえしてしまい、以後、そのひとの生活自体を変えてしまうというほどの力をもったもの――私はこれこそ、本当の芸術だと思うのです。(5)
あるいは、わたしの大好きな画家のひとり、上村松園。彼女は、美しい女性の姿を絶えず追求し、女性としてはじめて文化勲章を受章した画家である。彼女は美しい女性の姿を通じて、見る者の心を救うことを試みていた。

私はたいてい女性の絵ばかり描いている。
しかし、女性は美しければよい、という気持ちで描いたことは一度もない。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ私の念願とするところのものである。
その絵をみていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる……といった絵こそ私の願うところのものである。(6)

だけど、美術はそれだけではない。対極に、「考える」タイプの美術もある。来月から東京国立博物館ではじまる「マルセル・デュシャンと日本美術」のウェブサイトを見てほしい。そのまま中ほどまでスクロールしてみると、「美術(デュシャン)は見るんじゃない。考えるんだ。」というコピーがある。20世紀の美術史上もっとも重要な美術家であるマルセル・デュシャンは、既成の芸術概念を批判し、観衆を揺さぶり、問いかけるアートを提示した。男性用小便器に「R. MUTT 1917」と署名しただけのものを《泉》と名付けて出品したことはあまりに有名であろう。ここで彼は、既製品を用いることで手作りで唯一無二の「作品」を作るという概念に揺さぶりをかけ、また便器という最も醜いものを出すことで視覚的な美しさを探究するだけの、感覚器官を刺激するだけの美術を批判し、R. MUTTという偽のサインを用いることで「作者」を重んじるやり方にも疑問を投げかけた。こうした彼の意図は、「感じる」のではなくて「考える」ことによってしか理解できない(と思う。もしそれを「感じる」のだとしたら、やっぱり凡人にはないような卓越した「感性」とやらが必要になるだろう。そんなことはありえない、と思うのは、やっぱりわたしに感性がないからか??)。



あるいは、目に見える世界を「写実的」に表現することへの批判。それは、印象派の画家たちが「光」を発見することにはじまる(ロマン主義かもしれないけど、ここではその議論は置いておく)。印象派以前の絵画は、モノがもつ絶対普遍の色が存在すると考え、それらに陰影を加えて立体的に「写実的に」表現することを探究していた。一方、印象派の画家は、モノの色はあたる光によって変化することを、われわれが見る景色はその光の集積による平坦な面であることを知り、無数の淡い点で景色を表したのではなかったか。つまり印象派は光の「科学」であった。不変の色にとらわれていた保守的な画家や批評家は、それゆえにテカテカでない、翳りのある裸婦の絵を見て「病気の肌を描く」などと評したのだ。


写実性が批判されると、もはやキャンバス上に目に見える世界を再現することは画家にとっての敗北でしかなくなる。写実から離れようとする系譜は、たとえばキュビスムの画家たちが三次元の世界を二次元のキャンバスに表現しようとしたこと、カンディンスキーが具象的な世界を離れ、完全に抽象的な表現を目指したことや、ジャクソン・ポロックがアクション・ペインティングによって身体の動きをカンバス上に表現し、見る者もそれを追体験すること、そして抽象的な形態を突き詰めて単純な縦と横の線と色によって表現したモンドリアンなどに継承されていく。

彼らのやろうとしたことは、自然科学や社会科学、それに哲学と似ている。この世界の有り様を認識し、批判する。過去の表現者たちの遺産を継承しつつ、批判し、新たな知見を加えたうえで提示する。美術の歴史とは、この継承と批判の歴史ではなかったか。


つまり、美術には、「感情に訴えかけて伝える」と、「探究・継承・批判」というふたつの位相があるように思われる。見る側にとってみれば、それが「感じる」と「考える」ということになろう。これらはあくまで「位相」であって、対極ではない。ふたつが純粋に別れているのではなくて、重なり合っている。だから継承と批判に特化した作品もあれば、感情に訴えかけるだけを目的にした作品もあるけれども、多くはその両方を試みている。光を追い求めた印象派の絵画を、美しさや感動といった「感性」だけで理解できるとは、わたしは思わない。

椹木野衣とは逆に、知識や理屈で考えることが大切だと考える人も多い。美術史家の高階秀爾は、『近代絵画史』の序文において、探究・継承・批判を理解する知識の重要性を書いている。少し長いが引用しよう。

ある芸術作品を理解するのに、あるいはその作品との対話から芸術的感動を受け取るのに、知識も理屈もいらない、という立場もあるにちがいない。優れた芸術家が生み出すものは、時代や歴史はもとより、その作者からさえも離れて、それ自体独立した自律的存在となるから、われわれは虚心に作品と向かい合えばそれでよい。《ゲルニカ》は《ゲルニカ》であって、余計な説明などなくても、あの画面がすべてを語っているではないか、という立場である。私自身の体験は、ちょうど逆のことを私に教えてくれた。《ゲルニカ》が描かれた時の歴史的背景と、「青の時代」からキュビスムの実験を経て三十年以上にわたって続けられてきたピカソの造形的な探究を重ね合わせてみた時、《ゲルニカ》はいっそう偉大な、いっそう悲劇的な美しさを持ったものとして、私に語りかけてきたのである。あの壮大な画面からわれわれが受けとる感動は、ゲルニカの町の悲劇とも、ピカソという芸術家のそれまでの探究とも無関係のものだと言う人々がいるとすれば、私はいささか首をかしげざるをえない。(7)
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すぐれた感性の持ち主ならばいざ知らず、わたしのような凡人にはやはり知識とや理屈といった補助線が必要だ。たとえば、藤田嗣治が東京美術学校の卒業制作として描いた自画像がある。

藤田嗣治《自画像》1910年、東京芸術大学蔵。

藤田嗣治は、東京美術学校(今の東京芸術大学)に入学したものの、指導教官の黒田清輝がフランスから持ち帰った印象派とアカデミズムの折衷派である「外光派」が全盛の学校と反りが合わなかったという。黒田一派は「紫派」とも言われ、印象派の光の表現を受容し、黒を使うことを嫌い、学生にも禁じていた。卒業制作で敢えて黒田の禁じた黒を用い、眉根の歪んだ厳しい表情をしている自画像を描いたということは、藤田の学生生活への愛憎捩れる思いが読み取れると思う。感性があれば背景知識がなくともそんなことを絵から読み取れるんだろうか…知らないけど、そういう知識や理屈があれば絵を読み解く鍵になってくれるのではないか。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ《無原罪の御宿り》1660年頃、プラド美術館蔵

あるいは、画題に関する知識。「無原罪の御宿り」は、キリストだけでなくマリアもまた神の意志によって原罪を免れて生まれた存在である、という教義であり、この絵はマリアの純潔を示している。それを表すのはマリアの白い衣装や白百合だけではない。たとえば、マリアの足下のバラには棘がない。キリスト教では、バラには本来棘がなく、アダムとイブが罪を犯したことで棘を持つようになったと言われているためで、純潔な聖母と共に描かれるバラには棘がないのだ。あるいは、足下の三日月はギリシャ神話の処女神アルテミスのシンボルであり、処女の純潔を象徴する。天使の持つ麦の穂は、多くの実をつけ地に落ちて死ぬキリストを表す。これらの象徴を読み解くことなしに、感性だけによって絵画が理解できるものだろうか。


河鍋暁斎「豊干禅師図」東京国立博物館蔵。出典:研究情報アーカイブス 一部改変

日本の絵画でも同じである。描かれているのは三聖と呼ばれる寒山・拾得・豊干の仙人。なぜ左の人は岩に何か書いているのか。真ん中の墨を擂っている人は何でニヤニヤしているのか。右の人はなんで虎を連れているのか。(非常によく描かれる画題なので、ご自身でお調べくださいね。)これらを理解することなしに、なぜ絵画がわかるのだろう。


歴史や画題にかんする知識がなくても、考えることはできる。絵を呆然と眺めるだけではなくて、疑問を持つようにすればいい。そして、絵の中にあることをヒントに読み解いていくこともできる。

上村松園《焔》大正7年、東京国立博物館蔵。出典:研究情報アーカイブス 一部改変
絵を見れば疑問はいくらでも沸いてくる。これは誰か。いつの時代の人か。なんで髪の毛を咥えているのか。着ている着物は何か。なぜ藤と蜘蛛の巣が描かれているのか。作者はなぜこれを描いたのか。なぜ背景も何もないのか。答えを絵の中から探してみればいい。足の方が透けてるから幽霊らしい。やたら長い髪の毛と丸い眉の描き方を見れば、平安時代の貴族の女性だということは見当がつく。しかも着物の下から覗く生地が随分立派だから身分の高い人らしい。だからただの幽霊を描いたものではなさそう。髪を咥えているのは恨みがあるからだろうか。背景がないからかえって浮かび上がっているような印象がある。目を見開いたりせずじっとしているのがなんかこわい。よく見ると白と黒の二色で蜘蛛の巣を描いていることがわかる。

絵の中に答えが見つかりそうになければ、想像力の翼をはためかせてみるというやり方もある。作者はなぜこれを描いたのか。なんか恨みでもあって、それを描きたかったんだろうか。男にフラれたとか。生年と描かれた年代が書かれていたら、作者40代半ばの作品であることがわかる。中年の不倫? しかも大正時代の半ばだから、個人の自由とか権利が拡大していった時期だし、女の自由を表現したかったのだろうか。そういえば谷崎潤一郎がドロドロした小説を書いていた時期と重なる。などなど。ただ眺めていて、なにかを「感じる」のを待つという受け身の体験よりも、能動的に考えてみた方が楽しめる気もする。

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要するに、ここまでで3つの美術の見方を提示した。
①感じる 絵を見て心揺さぶられる経験を楽しみ、自分のなかに生まれる感情を楽しむ
②知識で考える 美術史や画題に関する知識を動員し、継承と批判による探究の背景を考える
③想像で考える 絵に描かれていることや付属する情報を用いて、沸いてくる疑問の答えを探す

どれが正しい美術の見方である、というつもりはないし、これ以外の見方もたくさんあると思う。わたしが言いたいのはこの3つを行ったり来たりして考えることで美術を楽しむことができるのではないか、ということだ。そして自分には「感性」なんてものがないと信じる人でも、②や③のやり方で楽しむこともできるし、①のやり方で思い出と重ね合わせてみたり好きなように感情を移ろわせて楽しむこともできるように思う。

ヴァルター・ベンヤミンは、本物に存在してコピーには失われてしまうものを「アウラ」と名付けた。画集や複製を見ても、考えることはできるし、ある程度感じることもできる。だけど画集には「アウラ」がない。感じる派の人は、ベンヤミンのいう「アウラ」を大切にしているようにも見える。アウラが美術の本質であるのかどうか、わたしには分からない。

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思うに、わたしたちは「感性」という言葉に縛られてはいないだろうか。あるいは、美術は感性の領域であるという思い込みや固定観念に。

ひとつには、そういう固定観念によって、美術を見るときに、言葉にして語るのを止めてしまうという呪縛。①に偏った見方をして、美の本質はアウラのようなものだという立場に立てば、どんなに考えて言語化しても無意味になってしまう。美の本質は感じることにあるのならば、結局は「すごい」とか「圧倒された」とか、そういう言葉でしか語れないことになってしまう。逆に、そうした感動を持てないのであれば「分からない」ものとして片付けてしまう。ピカソの絵を見て何も感じなければ、ピカソは分からないと。分かるために考える努力もしないで。

そしてまた、すごい絵、有名な絵の前で、感動しなければいけないような気さえしてくる。モナリザやゴッホのひまわりや最後の晩餐を見て、なんかよく分かんないけどすごい、言葉に出来ないくらいに圧倒された、という感想を持たないといけないような気がする。

村上隆は世界的に評価されているアーティストなので、見たらそれだけ評価しないと(あるいはその分だけ嫌いにならないと)自分の感性が劣っているように思えてしまう。だから村上隆を祭り上げる。村上は、日本の美術やデュシャン以降の現代アートの作品を継承した上で、スーパーフラットといった新しい価値を提示しているのだが、そういった美術史的な文脈は日本のオーディエンスや美術批評には正しく評価されていないと彼は発言している。(8) もちろん、デュシャンやリヒターやポロックやハーストらを引用することが西洋で作られたスタンダードであり、それを無批判に受容することが正しいのか、という議論はありえるのだが、少なくとも西洋の文脈で評価された村上を、その文脈抜きにしてうわべだけで彼を「評価」することが正しいとも思われない。

人は見たいものを見て、感じたいものを感じる。だからこそ名画の前で陳腐化された「感動」というやつを用いてみたくなる。だけどちょっと待ってほしい。あなたは本当にその絵に魅せられたのか。なぜ魅せられたのか。冷静に考えてみれば、なんか疑わしい。

全米が泣いた映画じゃあるまいし、みんなが感動する必要もない。ちなみにわたしは、西洋美術はまったく不勉強なので、モナリザのなにがすごい絵なのかさっぱり分からない。ただすごく手の込んだ綺麗な女の人の絵にしか見えない。もし現物のモナリザを見る機会があったとしても、「すごい絵だった」なんて嘘くさい言葉を吐きたくはない。その絵の価値を自分なりにちゃんと理解できるようになるまでは。

また、作品は感性の作り出すものであり、人間性の表現だという見方さえある。たとえばゴーストライター問題で世間を騒がせた佐村河内守。被爆二世として生まれ、難聴という苦しみを乗り越えた人だからこそ優れた音楽を書くのだと人は思ったのではなかったか。人々は聞きたいように音楽を聴き、感じたいように感じ、感動した。でもその感動はかりそめのものだった。思い込みをもとに、人々が幻想を見ていたにすぎなかった。逆に、作品がいかに良くても人間性をもとに貶めることもある。藤田嗣治は派手な生活と彼の自己顕示の強さから「宣伝屋」と批判され、日本の画壇から叩き出された。それなのに死後しばらくすれば手のひらを返したように彼を崇め奉る日本のジャーナリズムは今も昔も変わらないように見えるし、マイケル ジャクソンの例を見れば日本に限った話ではないらしい。

同様に、芸術の名の下に人間性を過大評価することも、わたしは拒否する。酒に溺れ暴力を振るう「芸術家」を、芸術ゆえに、「人間らしさ」によって美化し、許容することを、わたしは絶対に許さない。

ピカソとその辺の落書きの区別がつかないほうが、実はまともなのではないかとさえ思う。少なくとも世間の評価をもとにピカソを見て感動してしまうより、素直に「分からない」と言ってしまう方が誠実な態度のような気がする。問題は、「分からない」から「自分に感性がない」と考えてしまうことの方にある。それは感性のせいではなくて、知識や知性の問題なのかもしれないのだから。

また、感性で絵を評価してしまえば、ややもすると「好き」か「嫌い」かで作品の価値を評価してしまいがちだ。男性用小便器が好きな人なんてほとんどいない。だけどデュシャンの《泉》の価値は揺らがない。人の嫌悪感を刺激することで、美とは何かを問いかけるような作品だってあり得る。グロテスクさを前面に出すことで現代社会を批判する作品もある。それを一個人が好きか嫌いかという物差しで切り貼りしてしまえば、美術の価値を理解することからは遠のいてしまうだろう。


「感性を磨く」なんていう言葉を、信用しない方がいい。美術は「感性を磨く」ことによって分かるようになるものではないし、美術を見ることによって感性を磨くなんていうことができるとも思わない。

岡本太郎はいう。

感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というのは、誰にでも、瞬時にわき起こるものだ。感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもだめだね。自分自身をいろいろな条件にぶっつけることによって、はじめて自分全体のなかに燃えあがり、広がるものが感性だよ。(9)
感性というのは人の能力なのではなくて、なにかに接したときに、そのときどきに湧き出るものが感性であると太郎はいう。

感性という言葉にはいろいろな意味が込められていて、錯乱している。だからこそ感性のせいにしてしまうのかもしれない。美術の価値を理解する能力、小さな違いに気付く能力などの、見る能力のほかにも、発想力、表現力、独創性などの作る能力を指すこともある。当然ながら、オーケストラの演奏を聴いてカラヤンと小澤征爾の違いを聞き分けるだけの能力が、その人が絵を描くときの独創性と比例するはずがない。美術館に足繁く通い、数多くの美術品を見ていれば、それまでみんな同じに見えていたものの違いと特徴が分かるようにはなるだろう。仏像も、はじめは優しい感じの表情だなぁなんて思っていたものが、やがて定朝様と慶派、円派の違いが分かってくるようになる。構図や色彩も、はじめはなんとなく言われてみればそんな感じに思えていたものが、少しずつ自分でもわかるようになる。それらを参考にしていれば、表現の幅も広がるのかもしれない。だけどそれ以上の「感性」が豊かになるとは、わたしには思えない。

もちろん、考えて言葉にしても、つねに言い表すことができないなにかが存在する。言葉にして表現できないからこそ、アーティストは絵画や立体作品やインスタレーションなどを用いるのであり、つねに言葉にできないことを意識することが大切だと思う。だけどそれは言葉にしなくていい事にはならない。無知の知のように、言葉にすることによってはじめて言葉にならない部分を認識できるようになるのだし、言葉は補助線となって言葉にならないことを理解する助けとなるだろう。この世界の全てを言葉にすることはできないけれど、学者たちはデータや数式や社会理論や民族誌という手法を用いて、なんとか認識しようとする。美術はそのかわりにイメージを提示する。言葉にできる部分を言葉にすることと、言葉にできない部分を言葉でないかたちで表現することは、相互に補完的であると思う。

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様々な美のあり方がある。画面いっぱいを装飾で埋め尽くす美もあれば、余白を活かした美もある。自然の情景を描く美も、人の行為を描く美も、対称の美も非対称の美もある。美しさの基準は、時代や文化によってさまざまだ。唯一絶対の美を探そうとしても、結局は調和とか均衡といった、手の届かないような抽象的な言葉にしかならない。ならいっそ、美とは人が作り出すものであり、さまざまなあり方の中から人が多様に見いだすものである、と言ってしまった方がいい。田中真知はいう。

まわりにあふれかえる、おびただしい情報に閉じ込められて、目の前にあるはずの美しさが見えにくくなっている[...] けれども「美しい町」や「美しい風景」が初めからあるのではない。そこに美しさを見出すのは、それを見るわれわれのほうである。心をしなやかにもつことによって、世界はいくらでも新しい美しさを見せてくれるはずだ。(10)

もう一度言う。感じるにしろ、考えるにしろ、どちらが正しいという訳ではない。知性で美に迫る見方もあるけれど、美しさに身を任せ、移りゆく自分の感情を楽しむことだってできる。ミステリー小説みたいな美もあれば、恋愛小説のような甘美な美も、純文学的な美もある。必ずしも世間の評価に乗っかる必要はない。ハーストや会田誠を評価するのは批評家の仕事であって、ただの愛好家がその基準を身に付けて評価する必要はなく、自分なりの見方で見ることだって立派な美術の楽しみだと思う。批評家が評価しているからといって自分が評価する必要はないし、評価できないからと言って自分の感性が劣っていると嘆く必要もない。自由に見て、考えて、感じればいいではないか。

そう言ったら、あの子はデートの誘いに乗ってくれただろうか。


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(1) なんとなく国立新美術館だったような記憶が残っているので調べてみたが、2010年1月からのルノワール展であるような気がする。だとしたら19歳の頃の話だから、笑って許してほしい。
(2) 枡野浩一、『てのりくじら』、1997年、実業之日本社、35頁。
(3) 椹木野衣、『感性は感動しない:美術の見方、批評の作法』、2018年、世界思想社、4頁。
(4)同上、5頁。
(5) 岡本太郎『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』光文社知恵の森文庫、[1954]1999年、98頁。
(6) 上村松園、「棲霞軒雑記」、『青眉抄・青眉抄拾遺』、1976年。青空文庫。
(7) 高階秀爾、『近代絵画史(上)』2017年、中公新書、i-ii頁。
(8) 小崎哲哉、『現代アートとは何か』、2018年、河出書房新社、211頁。
(9) 岡本太郎、『強く生きる言葉』、2003年、イーストプレス、24頁。
(10) 田中真知、『美しいをさがす旅にでよう』、2009年、白水社、14頁。
(11) デュシャン(の価値が認識されるようになった1950年代)以降、artは「美」を探究することを手放したので「美術」ではなく「アート」といいます。

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