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一般論や正論ではなく、「わたし」を主語にしたことばを語ります。

2017年7月6日木曜日

自分らしさと同調圧力のあいだで

新しい環境は苦手だ。
子供の頃から変わり者と呼ばれ、協調性のない子だったので、集団には馴染めずに苦労した。環境が変わってからの最初の数ヶ月はいつも苦痛で、夏頃になると、何とかして馴染めなさに折り合いをつけて、生きていけるようになる。
集団に馴染む、というのは大変なことだと思う。





思えば、同調圧力とかがすごく嫌いだった。人はこうでなくちゃいけない、こうあるべき、こうであるのが普通・・・・・・そういう無言の圧力をかけられて、そこからはみ出ると異端視されるのが苦痛でしかたなかった。だからといってはみ出したくてはみ出しているのではないのだ。奇をてらっているのではなくて、自分にたいして忠実なことがみんなにとっては普通じゃなかった。


世の中には普通であれというメッセージがあふれてるみたいに思える。人にたいしてこうあるべきだと暗に命令するものが、身の回りには多い。
大学に行くのが普通、企業に就職するのが真っ当な生き方、人は男か女かに分けられるもので、男ってこういう生き物だ、今時スマホ持ってて当然、既読スルーはよくない・・・
電車の広告は常に女の子に「キレイで/可愛く」あることを要求するし、健康診断は人を男女の二つに分けようとするし、学校の進路指導は「真っ当な生き方」を要求する。メディアや広告が発信する流行を追いかけ、流行の芸人のネタを面白がる。そういうことが普通。



まるでひとつの「期待される人間像」があるみたいだ。

ところで「期待される人間像」ってすごい言葉だ。英語にするとexpected personality? この言葉、日本社会をよく表していると思うのでよく外国の人と話すときに使うのだが、これが中央教育審議会という政府の組織に使われた言葉だというと大抵の欧米の人はびっくりする。




とても細かいことなのだけど、この春大学院に入学して、授業二日目のこと。学部生も受ける大きめの教室の授業をとっていたのだけど、教室に入ると座席は後ろから埋まっていくみたいで、わたしは前の方に座りたかったのに、そうすると浮いてしまう、、、と感じて、浮かないように後ろの方に座った。Day 2 にして私は同調圧力に負けた。しかもみんな真面目に授業聞いているふうには見えなくて、発言を求めて当てられるのを嫌がってたし、熱心にノートをとって頷きながら授業を聞いていると「意識高い系」になってしまいそうだった。(私のいた学部はここよりも偏差値の低い私立大学だったのに、授業は熱心に聞いて発言するのは普通だった・・・)


そんな同調圧力に屈して、まわりに合わせて意に反して行動している自分なんかどうやっても好きになることができない。



同調圧力のなかにいたら、自己肯定感がどんどん削がれていってしまうのかもしれない。
自己肯定感(self-esteem )とは、「人はかくあるべき」という枠によって低められるものではないかと、私はおもう。



たとえば。母のしていた仕事の愚痴。
母はとある女子高の保健室で働いているのだが、生徒の一人が自らの裸体の写真をネットに上げて生活指導を受けたという。話を聞くと彼女はLGBTで(母はLGBTの意味を理解していないので実際彼女がLGBTQ+の何に該当するのかはわからないけど、レズビアンらしい)、誰にも理解してもらえないのが辛くて、ネットに自分の身体の写真を公開するとキレイだねと褒めてくれるのがうれしかったという。彼女は学校でLGBTについて何も教えていないからみんな理解してくれない、だから授業でLGBTについて教えてほしいと言った。
(ここで母は、君の自尊心が低いからこういうことをするのであってLGBTのせいにしてはいけないという趣旨の、偉そうで見当違いの審判的なお説教をしたらしくて私は怒りと悲しみと彼女が感じたであろう理不尽さを思うと押しつぶされそうだった)


自分の望むままの自分でいるだけで、自らの望むふるまいをしているだけでルール違反を宣告されるゲームの中で、どうやって自己肯定感など持てるというのか。
だれも分かってくれないという彼女の悲しみは、「普通」であることへの圧力の側が作ったものではなかったか。そして、彼女やマイノリティに理解を示す努力もなしに、自分を認めてくれる人を求め、自分の居場所を作るために裸体を晒す彼女の行いを責めるという暴力。それが、教育の場で行われているということが、圧力を再生産しているのではないか。

問題はLGBTQ+だけではもちろんなくて、たとえば性に関してでも、「可愛く」も「キレイ」でもない女の子、体毛が濃いとか、体型が理想とは違うとか、「下品」とか、、、あるいは、男らしくない男、女性の衣服を着たい男性、スカートをはく男子(わたしのことです)、そういう「普通」ではないことは、同調圧力のなかにいるととても生きづらい。だからみんな「普通」であろうとして、可愛い女の子であるための努力をしたり、他人の期待に寄り添って生きようとする。そのなかに、自己否定は含まれていないだろうか?




私がこの同調圧力の強さと自己肯定感の弱さを再認識するようになったのは、この春に大学を移ったからだろう。
私が学部の四年間を過ごした大学は特殊な場所だったと思う。私のようにほかの道を経由してから大学に入る人は珍しくなかったし、国籍が多様なのはもちろん、障害を抱えた人(視覚、聴覚、身体)、性的マイノリティであることをカミングアウトしている人(LGBTとQueer,Questioning,Asexualは私の周りにもいた)、そのほか多様人びとがいたから、「普通」は通用しなかった。
同調圧力がなかったとはいわないけれど、少なくとも、「人はこうでなくちゃいけない」という枠は、広かったように思う。だからこそ、自分が自分らしくいることができた。私が私でいることを認めてくれる人がいたのだ。
でもそれは、決して(LGBTも歓迎します!みたいな企業がやってることとは違って)、認める−認められるという不均衡な関係ではなくて、互いに異なった他者同士を尊重し合うという協力関係だったようにも思う。



均質な集団に馴染むというのは、センター試験で何科目も高得点を取れる器用さを持ち合わせた方には簡単なことかもしれない。そうでなくても、日本社会での「普通」を疑わずに何年も生きてきた人たちは、期待される枠の中で適度に個性を主張して、この世界で普通に生きていく。それもひとつの生き方だろう。
だけど、どうしてもそれができない人もいる。「普通」に生きるすべを身につけた「普通」の人たちが、「普通」ではいられない人たちにも無言の圧力で変革と自己否定を求めるとすれば、それはひとつの暴力だ。



自分らしさになやむ必要なんて、けっしてなくて、自分を受け入れてくれる場所はこの世界のどこかにかならずあるでしょう。そういう場所を少しでも増やしていけたらいいな、と思います。たくさんの、色も形も違った花が咲いて、この世界がもっともっと彩りに満ちて、私たちの住む地球がもっと楽しくなりますように。

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