「下町」とは何か:谷中から下町を再定義する

0.前口上

もう随分前の話になるが、授業の課題で台東区の文化と社会について調べることになった。台東区といえば上野や浅草がある。東京の歴史を語る上では欠かせない。
その中でも私の興味を引いたのが谷中だった。といっても、ひねくれた私のことなので、単純に谷中っていい街だな、なんてことを思ったわけではない。数年前から、「谷根千」の一つとして注目を浴びている街で、なんとなく昭和レトロな、「昔ながら」が売りになっている。
こういうとき、おそらく人類学者は(もし人類学者がそんなにひねくれ者でないのだとしたらごめんなさい。単に私だけかも知れない。)反射的に「嘘くさい」と思ってしまう。いわゆる「創られた伝統」の存在を疑うのだ。

創られた伝統の議論はあとでするとして、なぜ谷中が注目を集め、人気なスポットになっているんだろう?という疑問をもとに(こういうのを"リサーチ・クエスチョン"といいますね)調べ物を始めた。


谷中をググってみると、「下町」として語られていることがおおい。たとえばこことかこことか。これらの記事は検索して上位にでてきたまとめサイトだが、それだけでなく谷中銀座商店街振興組合なんかも「東京下町レトロ」を自称している。

しかし一方で、Yahoo知恵袋を見ていたらこんな質問もあった。つまり谷中って下町って言われているけど、山の手ではないの?というものだ。
答えからいえば山の手である。これについては後述する。

しかし、人類学徒としては、単に「これは誤解だ!」と指摘するだけでは不十分で、なぜ本来山の手であるはずの谷中が下町と言われているんだろう?と考えることが大切だ。間違いを指摘するのは簡単だが、起きていることをありのままに受け入れ、その内側で何が起きているのかを分析するのが人類学の視点だ。
言語学からの借用(厳密にいえば、Phonetics とPhonemicsからの派生語)でeticとemicという言葉がある。前者が、現象を外側からの視点で分析する方法論的観点、後者が内側からの視点で分析するものであり、人類学が大事にしているのは後者だ。だから単に斜に構えてひねくれているだけなのではなくて、簡単に批判したりせず、相手の立場に立って考えてみる優しさも持ち合わせているのです。

あ、ここで、単にYahoo知恵袋なんか見ててネットサーフィンしてるだけで学問になる訳ないだろ、と思ってらっしゃる方がいらっしゃるかもしれません。そうなんですけど、人びとのあいだで何が起こっているのかを解析するために出発点としてネットを使うことはよくやります。私の指導教員なんか、Yahoo知恵袋を面白がって見てて仕事をおろそかにしてますけど。。。

前置きが長くなったが、ここでまずふたつの疑問(リサーチ・クエスチョン)が生まれた。

1.そもそも下町とは何か?
2.谷中は下町か?

というわけで、下町の定義について説明する。


1.下町/山の手 定義と歴史

下町というのは元々、江戸の初期の都市計画に由来する。

徳川家康が江戸に幕府を開く前は江戸は田舎町だったのはみなさんご存知だと思う。太田道灌が築城した江戸城を家康が手に入れた。イエヤスというくらいだから、ずいぶん安く買ったんでしょうね。という落語のくすぐり(小ネタ)があるくらいだ(「道灌」)。

都市計画はもちろん地の利を活かすことに重点が置かれる。江戸城の東の方から隅田川、東京湾(かつてはもっと江戸城から近かった)にかけての平らな低い土地に運河を築き、物の行き来がしやすいようにして、そこを町人に割り当てた。これが低い町、つまり「下町」の起源である。

一方、侍たちは高台の側の地盤の安定した場所に住む。これが「山の手」だ。こうして下町と山の手という二つの区分が江戸の町にうまれた。
ところで英語ではDowntownという言葉がある。文字通りとれば下町と同じような意味だが、実際にはDowntownは中心地を指す。日本ではエリートが商業地区には住まず行政の中心地が商業の中心地と対応していないのに対し、あっちでは概ね一致しているからだ。

ここに持ってきたのは国土地理院の画像。黄色いあたりが山の手、青いところが下町、といえる。これを見れば日暮里駅の西側にある谷中は山の手に位置することが一目瞭然だ。

ただし、もともとの江戸の町はもっと狭いし、埋め立て地もない。もともとの下町とは前にも述べた通り、江戸城から江戸湾、隅田川に掛けての地域であって、浅草ですら江戸初期は下町ではなかった。下町の中心部は日本橋や銀座の辺りで、旧吉原(今の人形町)は江戸初期には江戸の端に位置していたことを考えれば、当初の江戸がいかに小さかったかわかるだろう。明暦の大火(1657)に新吉原(=今の吉原)に移転したが、そんなのは僻地であったのだから、今の東京と当時の江戸のサイズの違いが大きく違うことはなんとなく分かっていただけると思う。
したがって隅田川の東側は下町でもなんでもない。寅さんで有名な葛飾・柴又の帝釈天だとか、スカイツリーのある辺りなんかも、本来は下町ではない。というか、江戸ですらなかったのだろう。。。

というわけで、前節のリサーチ・クエスチョンへの答えは一応出た。谷中は下町ではない、山の手だ。今の言説とは全く逆転した答えが出た。美川憲一が紅組で紅白に出るようなものだ。

そうすると、また新しい疑問が生まれる。この誤解が生まれるためには、「下町」というコンセプトに何かしらの変容があるはずだ。したがって、以下の二つのリサーチ・クエスチョンを元に調査を進めることにした。
3.なぜ谷中が下町だと言われているのか?
4.「下町」とはどのような概念であると認識されているか?

これらの疑問に答えるべく、下町/山の手の歴史を調べることにした。



2.山の手/下町の歴史

当然のことながら、江戸から明治に時代が移ったところで、下町と山の手の区別がなくなるわけではない。下町に住んでいた商人や職人は下町に住み続けるし、武士出身の者は山の手に住み続ける。東京の中心は依然山の手の側にあったわけだ。
したがって、明治日本の近代化・西洋化も山の手を中心に進んでゆく。日銀本店(日比谷)や東京帝国大学(本郷)、鹿鳴館(内幸町)なんかはみんな山の手だ。したがって山の手の側では開発が進み、江戸の面影は殆ど残らなくなってしまった。

下町も発展を続ける。交通の発達で新橋や銀座周辺が栄え、のちには浅草にも鉄道が開通した。消費は庶民にまで及び、明治23年には浅草に12階建てのビル「凌雲閣」が完成。これは日本初のエレベーターを搭載していた(すぐに使えなくなるのだが)。
それでも、下町は庶民の町でありつづけた。そのシンボルとも言えるのが長屋で、人口密集地帯として今で言うアパートとして機能していた。人びとの距離が近いので近隣の住民とは嫌でも密接に関わることになる。

町の様子は変わったが、山の手は概して西洋化していったのに対して、下町、特に住宅地では比較的江戸らしさが残る結果になった。

また、東京の東側には人口が密集していたから、立ち退きさせる訳にもいかず、町は西に向けて拡大してゆくことになる。特に1923年の関東大震災では、下町は壊滅的な被害を受けることになった。山の手は地盤が固いし下町の長屋ほど建物が密集していないので、被害は下町に比べたらそれほどでもなかったし、政治的にも重要な山の手は復興が進み、下町は時代から取り残される結果となった。

一方、大正になるとエリートと庶民といった区分も薄れてくる。身分社会の江戸時代は武士と町人の区別は絶対的だったが、明治には出自はそれほど重要ではなくなり、人びとの移動も活発になったし、東京の町自体が広がったので山の手と下町の階級的な区分は以前ほど重要ではなくなった。大正期から、エリートも銀座や日本橋で買い物をするようになった。今でこそ銀座や日本橋は金持ち臭がするけれど、むかしはそんなハイソな町ではなかったらしい。

戦後になると東京もさらに拡大する。新宿や渋谷といった新興都市が現れて「副都心」と言われるようになるし、鉄道網の拡大で発展した西側には新しい層であるサラリーマンが住むことになる。
下町に住んでいたのは自営業者の職人や小規模な商人だったから、ここで東京西側の郊外と下町の間でも対比が生まれることになった。(いわゆる「旧中産階級」と「新中産階級」というやつです)

ここで、なんとなく以下のような構図が生まれたのが分かるだろう
山の手=エリート、官庁街、政治的、西洋的、近代的、発展してる
下町=町人、庶民、自営業者、人口密集、時代遅れ、商業的
郊外=サラリーマン、住宅街

次節では、この対比をもう少し詳しく見ていこうと思う。



3.下町のイメージ


下町がどういうイメージで受け止めれているのかをここで考えてみたい。「日本国語大辞典」を引いてみると、「下町」を含む言葉がいくつか見つかる。下町気質、下町情緒、下町娘、下町風、下町育ち、下町言葉など。それぞれがどんなものかは、説明しなくてもいいでしょう。ただこれらに共通しているのは、江戸から伝わる「粋」であったり、古い良さであったり、長屋暮らしの昔ながらの生活に由来するものであったりするのだ。

下町と言われる町にはいくつかの特徴がある。
1.町自体が古いこと。浅草や合羽橋などは昔からある。ただし、必ずしも江戸時代の江戸と繋がっている必要はなくて、たとえば柴又なんかは江戸時代は僻地だったけど、帝釈天のような歴史を示唆するシンボルがあるのでそれで十分。
2.大きな建物がないこと。下町は庶民の町として発達し、山の手や副都心にはビルが建ち並んだが下町には凌雲閣などの例外はあるものの、あまり大きな建物がない。
3.大型資本の流入が少ないこと。これも同じで、もとは自営業者の町だから。
4.密接な人間関係。これは長屋暮らしや、近所づきあいの長さに由来する。人口密集地域であり、かつ昔から住んでいる人が多い。
5.「古い」感じがする。これも発展の遅れに由来すると思われる。特に1980年にオープンした下町風俗資料館なんか、昭和や大正の人びとの暮らしを体験できるようになっているが、下町=昭和というイメージが消費されている例だ。

簡単に言うと、下町とは古くて、小さくて、昔ながらで、伝統的で、人びとの関わりが密接で、フレンドリーで。そういうイメージが、下町情緒とか下町気質という言葉に集約されているのだろう。

つまり、下町と山の手の地理的区別がそこまで重要ではなくなったので、こういう「下町らしさ」の方が重要な「下町」概念になった。だからこそ、あいまいな地理的区分の下町と、下町情緒の掛け合わせが谷中や柴又を「下町」と認識するに至ったのだろう。
これでクエスチョン3の謎は解けた。

前節では非常に残念なイメージだった下町だが、こういったイメージをもとに、高度成長期から巻き返しを図ります。
60~70年代にかけて、「下町リバイバル」のような動きが始まる。下町には「日本の伝統」や「古き良きくらし」があるとして、下町が再評価されるようになる。この背後には、成長に伴い新中産階級が急増し、社会が画一化してしまったことがあるのだろう。下町を舞台にした映画などが現れる。その筆頭が寅さんだ。

もちろん、明治期から下町に注目した文学者は多かった。永井荷風はフランスから帰ったとき、明治の建築が西洋の真似に過ぎず、日本の歴史を全く反映していないことを嘆いた。かれは庶民の暮らしに根付いた江戸の芸術を愛好したし、下町にしろ山の手にしろ、庶民生活の見える路地裏を愛した。
永井の影響を受けた文人、木下杢太郎や高村光太郎は「パンの会」を設立して、隅田川をセーヌ川になぞらえて江戸の面影を探したりもしたし、泉鏡花は下町を舞台に幻想的で怪奇な文学作品を残した。泉の超自然的なテーマは、やはり近代的な山の手よりも江戸の面影残る下町によく合っていたのだろう。
昭和初期の映画にもたとえば小津安二郎の「出来ごころ(1933)」なんかは長屋の独特の人との繋がりを描いているし、東京物語の舞台は堀切の荒川土手だ。東京の僻地。戦争の前後には五所平之助監督が下町や山の手の地域性を反映した映画を作っている。その代表格が「煙突の見える場所」だろう。これも下町の人情を典型的に描く。

60年代になると少し違った視点で下町が描かれるようになる。山田洋次監督の「下町の太陽」なんか典型的で、下町育ちの女性町子と、彼女の恋人道男の対比が面白い。町子は下町娘で貧しいながらも近所の人達と密接な付き合いをしているが、道男は下町にコンプレックスがあり、出世して団地(当時はある種のステータス)に所帯を構えることを夢見ている。町子は道男のような上昇志向に疑問を呈し、自分は人との繋がりのある下町で生きていくことを決意するのだ。明らかにこの背後には、上昇を目指す社会的風潮への反発が見て取れる。
そんな中でヒットしたのが「男はつらいよ」シリーズだった。寅さんは垢抜けない、教養もない、多弁な義理堅い面倒見のいい、典型的な下町気質の持ち主だ。
まぁ、わたしは山田洋次のこういう典型的すぎる人の描き方が好きじゃなくて、見てないんだけど。。。

また、最近では「Always 三丁目の夕日」もそうで、「古き良きもの」を表象する下町を舞台に、典型的な日本の古い父親像や母親像のキャラクターを使って50年代を振り返る博物館的な映画になっている。ただし、これも私は見ていない。。。

つまり、ここまで見てみると分かるのが、下町は単なる地域ではなくて、それぞれの時代の要請によって重ね合わされたイメージを反映している複合的な概念だということだ。
急進的な西洋化に対して反発する永井荷風が江戸の面影を探った下町。だから下町には山の手に対して古い日本の暮らしがあるというイメージが定着した。
高度成長期に薄れていった人情、貧しかったけど満たされていた時代の面影を昭和の激動の時代に、人々は下町に求めた。
今はあるいは、大量生産、大量消費社会への反発を、下町に投影しているのかもしれない。



4.谷中をあるく

谷中を歩いてみると、古い建物が目につく。谷中は関東大震災も東京大空襲も逃れた数少ない地域で、築百年以上の建物も多い。
寺町といわれるように、お寺も多いし、霊園だってある。だけど全てが古いわけではなくて、わりと新しいお店も結構ある。でもそこにも共通点があって、対面販売であったり、小規模な個人店であったり、大量生産品を売らないことであったり。食べ歩きできる場所も多い。食べ歩きというのは、つまり単に食べ物を売ることではなくて、食べながらその地域性を消費することなのだ。

Bestor(1994:53)という社会学者は、下町は商品を売るかわりに、シンプルだけれど洗練されていた古きよき時代のスタイルを売っているのだ、と分析した。実際、先に述べた下町風俗資料館は古き良き時代を体験するための施設であるが、下町の地理的区分自体は昭和とは何も関係がないのだ。

一方で、Bestorは「下町」という概念が暴力的な使われ方をされていることも指摘する。下町のある地域では、サラリーマンの家庭が町内会に参加しても発言権がなく、自営業者の住民が主導的な立場にいることが指摘された。下町はもともと町人の町だから、郊外にいるべきサラリーマン家庭は下町の人間じゃない、という理屈らしい。
ある意味で、これは下町が人々を分類するためのレッテルとしても機能しているということだし、下町がアイデンティティとなりうることの証左でもある。

また、谷中を歩けば、実際には古くもないのに、古さを装った建物も多い。
はじめに「創られた伝統」という本について言及した。これはホブズバウムとレンジャーという歴史学者が書いたのだが、伝統的であると思われているものの多くは昔からあるものではなくて、平たい言い方をすればでっち上げられたもの、ということ。たとえばバグパイプとキルトはどっかの田舎の、誰も気にしないような寂れた文化だったのに、それを社会的必要からスコットランドの伝統だということにして再構成した。

下町も同様に、昔から連続してあるものではない。「われわれが昔持っていたもの」を再構成したものが伝統であり、下町なのだ。だからこそ谷中には新しいお店ができても古きよき時代の表象でいられる。

だから、わたしがここで言いたいのは、下町が単に歴史のでっち上げだということではない。
明治以降、ずっと人々は、西洋化され近代化され合理化されてゆく社会のなかを生きていた。一方で人々は、そんな時代に息苦しさを感じていた。自分たちが生きている時代が不満で、下町に古きよき時代の面影を求めたのだ。
だからといって、下町は江戸の凍結ではない。人も町も変わるし、新しいものもどんどん生まれていく。そのとき、下町の地域性に合わせて、下町らしさが再生産されたのだ。
過去にヒントを見つけて新しいものを生み出そうとする。それを下町という文脈と整合性を図った結果生まれたのが、現在の下町の姿なのだ。
だからこそ、下町はこれからも変わっていくだろう。変わっていく時代に対して持つ不満の慰めを下町に求めて、下町は新しく作り替えられてゆく。だけど、変わりゆく時代に人々が満たされないかぎり、下町は下町でありつづけるだろう。


この文章は授業の課題として書いた小論文を再構成、加筆、翻訳してまとめたものです。元の文章はiBookの形で公表されました。参照文献やより詳しい内容はこちらのiBookより。第二章が私の書いた部分です。

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