人生の数だけ、戦い方があるはずだから

 「戦争法案絶対反対」

2015年の夏、国会前ではそんな言葉が響き渡っていた。それまで何ヶ月も抗議の声は挙がっていた。だけどわたしは、安全保障関連法案成立を目前にしたタイミングでようやく、それまでずっと足が進まなかった国会前に辿り着いた。そして、ああ、ここでもやっぱりそうなんだ、と居場所のなさを感じたのを覚えている。同質性。同僚圧力。全体主義。前へ倣え。

足並みを揃えること、声を合わせること、わたしはそれらがひどく苦手だった。わたしにはその法案を「戦争法案」と言い切ることも、それに「絶対反対」と叫ぶことも、したいとは思わなかった。それはわたしの言葉ではなかった。求めていたのは、わたしたちの代表者であるはずの⸺とてもそうとは思えないときもあるが⸺政治家に、ちゃんと国民の声に耳を傾け、問題を議論してほしい、そして法案を廃案にしてほしい、ただそう思っていただけだった。そしてそのために自分にできることを探していた。

あれだけ盛り上がっていた国会前に、可決直前まで行かなかったことには今もずっと後ろめたさを感じているし、それ以上に、声を挙げたことが結果的に何にもならなかったことはいまも記憶の中に暗い影を落としている。もっと早く行っていれば、もっと大きな声、強く訴えかける言葉を持っていれば変わったかもしれない、という思いがあの時を思い出す度に過る。あれがひとつの挫折体験になって、それ以来デモとか抗議行動とか言われるものに苦手意識を持っていることは確かで、今でも政治の世界で起きていることに強い憤りを覚えても、なかなか人が集まる場に行って「行動」することができない理由はただ自分が出不精で内気なだけではなく、2015年の夏の記憶が原風景として染みついているからでもある。



沈黙することは差別への、戦争への、虐殺への加担だと言われる。あるいはそうなのかもしれない。むしろ結果を見れば明らかに、声を挙げなかった多数の人が惨事を起こることを許容したことは否定できない。自分が沈黙することの結果を考えると、恐ろしさに足がすくむ。

それでもわたしは、沈黙することを批判したくはなかい。声を挙げない、挙げられない理由は人生の数だけあるのだから。

毎日死ぬことばかりを考えて布団にくるまっていた日々のなかで、わたしにとっては毎日をなんとかやり過ごすことが最大の戦いだった。少し元気になってくると思考は様々なところに巡るのだけど、自分の部屋の外で起きていることを考えると、外の世界にはあまりに理不尽が溢れいてることに思い至り、この世界で生きていくだけのことがとても自分の手に負えるものには思えなくなってきた。

望まない妊娠をした友達は、この世界の素晴らしさを享受するかもしれない命を奪うことの罪に震え、他方でシングルでどうやって子どもを育てていけばいいかを考えて考え続けて気が変になりそうだった。彼女の子どもの遺伝上の父親であるはずの人物の行方は知れない。そんななかで「戦争法案」のために少しでも思いを巡らす時間があっただろうか。日々を恙無く生きていくことすらままならないのに。

家族のために進学をあきらめた友達は、わたしの話す政治の話が難しくて分からないという。でも分かりやすく伝えることは、本来複雑であるはずの現実を都合良く切り分けて自分の思うように相手に受け止めさせてしまうみたいで、彼に分かるような言葉で伝えることは自分にはできなかった。というよりも、自分が政治のこと、国会や議会のことを人に教えられるだけ充分に分かっているとも思えなかった。結局、信頼して聴いているラジオ番組を教えるくらいしかできなかった。

毎日仕事で遅くまで働く友達は、仕事以外の時間はもうなにも考えたくないと言った。時間があれば短い動画を見続けるだけで、なにかを考える余裕がないと。またある友達は、自分の思ったことを言葉にすることも、それを声に出して言うことも、どうしてそんなにみんな簡単なことのようにできるんだろうと言った。彼女にはただリツイートやいいねのボタンひとつ押すことだって大変なことに思えるのだという。

言いたい、言うべきだと思うことがあっても、それを言うことで自分の立場を危うくしたり、まわりの人を危険にさらしたり、そういう事情があって言えない人も、もちろんいるはずだ。その人の人生で自分が肩代わりできないはずのものに、自分が口を出す権利はないと、わたしは思っている。



この世界であまりに複雑で分かりづらくて、ただでさえそうなのに、悪いことを企む人たちがそれに黒いヴェールを何重にも掛けるものだから、鈍くて理解力のない自分には世の中のことはほんとうに分からない。これは皮肉でも嫌味でも謙遜でもなくて、本当にそう思う。

なにか大きなことが起こっている、だからなにかしないといけない、少なくともなにか言わないといけないと思う。でも言葉の貧しい自分は言うべきことを適切に言い表すだけの言葉を持っていない。そんなときに手近な、誰かが発した分かりやすくて簡単な言葉を借りるというやり方もあるのだろうし、それが有効なことも多々あるのだろうと思う。でもそれは、わたしの戦い方ではないと思う。

だから沈黙する。立ち竦む。それだってとても、勇気のいることだ。分かりやすい結果や行動を求められる今の世の中ではなおさら、みんなが声を挙げているなかで沈黙するのは孤独や恐怖を感じることだと思う。

だけどそこで自分は沈黙する勇気を持ち続けたいと思う。

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