傍流を生きる

 無駄の多い人生を送ってきました。

自分の判断でもって人生における大きな選択をしたと言えるのは、多くの人と同じように、高校受験の志望校を決めるときが、最初の経験ではなかっただろうか。行きたいと思った高校に、塾に通って1年間必死で勉強してなんとか合格した。まあまあ歴史のある進学校だったその高校生活は楽しかったけれど、大学受験が近づくにつれ、良い大学に入ることを目的に勉強することになんの疑問も持たない優等生だらけの学校生活に馴染めなくなり、2年で学校に足が向かなくなって中退してしまった。ブランクを経て高卒認定を取って鍼灸専門学校に入り、3年で今度こそは卒業し、国家資格も取得したものの、東洋の思想や歴史のほうに関心を持って大学に行こうと思い立ち、学費の馬鹿みたいに高い私立大学に入学。学部では文化人類学と歴史学を専攻して、民俗宗教や信仰に関心を寄せて東北にフィールドワークに行って大部の卒論を執筆し、それはそこそこ良いものが掛けたので調子に乗って進学し、修士課程では社会政策を専攻して今度はスピリチュアルケアの歴史研究に転向。研究者になりたくて院進したのに、修士課程を3年掛けて修了した頃に疲れ果てて休みがほしくなってしまい、旅に出たものの情勢悪化で旅を続けられなくなり帰国。ブランクを愉しんでいたところたまたま今の会社に拾っていただいて、いまは西洋哲学や倫理学の編集を手伝いつつ、海外文学とケアや生きづらさに関心をもって本作りをしています。あっちをふらふら、こっちをふらふら。おそらく過去の経験が、いまの自分にどう繋がっているか、上の文章を読んだだけでお分かりいただける方はほとんどいないと思う。というか、自分でもよく分かっていない。いったいわたしはなにをしているんだ?と思うと自分の人生なのにけっこう笑えてくる。しかるに一見して無駄なように見えたことのそれぞれが、今の自分に生きているし意味を持っていると思うし、その意味では無駄ではなかったかな、と思う。

以上をお読みいただければ分かるとおり、わたしの頭脳にはかなりの資金が注ぎ込まれてきた。しかしわたしがいまやっている人文書の編集という仕事は、有り体に言えば給料が安い。投資としては失敗。人文の専門書は読者が少ない。手間が掛かり専門知識を必要とするわりにはあまり売れるタイプの本ではないから、他の業種に競べても、出版業界のなかでも待遇には期待できない。少数の情熱ある人たちにむけて、細々と続けていく職業だ。だからこそ、と言うべきか。わたしは楽しく働いているし、自分の仕事にそれなりの矜恃を持っている。損得勘定だけでは測れない意義を、毎日、感じて生きている。


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「コスパ」という言葉をあちこちで耳にする。そのたび、どこか疎外感を覚え、距離を置こうとしていたし、それはわたしの人生では重要じゃない、と思って遠く離れた世界の話のように聞いていた。世の中ではそれが大切なことなんだろうけど、わたしはそういう考え方には乗れないな、と。だってそこでいわれている「パ」、つまりパフォーマンスって、あまりに偏狭な意味での……もう少し穏当に言っても、誰が見ても合意できる意味に限られた「パ」ではないのか。役に立つとか利益になるとか、そういう即効性があって単純に観測できる結果、誰が評価しても変わらない規準で客観的に評価できる数字。それは、とりもなおさず、評価の基軸を他人や社会に委ねてしまっている。

しかし自分が努力して費やした労力を顧みるとき、簡単に計測できる数字でアウトプットを測ってしまうのは、あまりに空しい。むしろわたしは、費やした時間と努力と情熱と苦悩が、自分の人生のなかで、少しずつじわじわと意味をもってくる、それは自分でも気付かないかもしれないし、どれだけの時間を経て意味を持つかも分からない、そういう秘めたる可能性のなかに、見出されるものだと思っていた。だれかが、みんなが評価してるとかはどうでもよくて、努力を費やしたことの価値とか、自分なりに納得できるかとか、美しい、愛おしい、素敵と思える、そういうことに価値を見出したいと、わたしは思う。

それでも世の中はコスパでものごとを測るらしい。そんなことは、生産性の低い人文書の出版社にいても、いやというほど感じられる。人文のジャンルでも売れている本はたいてい、(表面的なところしかなぞっていないくせに)一冊読めば○○学がマスターできてビジネスの役に立つ、世界のビジネスエリートはこれだけの教養を持っている、と大きすぎる看板を掲げた本だし、いかに無駄を省いて分かりやすく解説するか——つまり読者を分かったつもりにさせてあげること——に労力を割いた本ばかりだ。自分で努力すれば、さも世界のエリートに近づけるかのような煽り文句を並べて。努力によって成功に近づけると強調することで、(努力ではどうにもならない部分を捨象しつつ)読む人に空疎な希望を与え、その裏側で弱者が弱者たる所以をそのひと個人の努力の足りなさに還元していく、自己責任論を助長するようなやり方で。

しかもその手の本があまりに薄っぺらいのは、ちょっと読んだだけで分かってしまうほど優しく書かれた、そしてその文体では説明できないような難しい部分は省かれた、お子様でも頭を捻れば分かるような文章で書かれているからだ。他人の頭脳を借りているだけで、ちっとも自分の思考を使っていないと思うのだが、自分で考えることはきっとコスパが悪いのだろう。

そんなことにいちいち意義を申し立てるわたしの人生、コスパ悪いよと言われればそれまでだし、たぶん返す言葉はない。


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先日、日本基督教団吉祥寺教会で奥田知志さんの講演会があった。奥田さんと言えばNPO法人抱樸の代表で、ホームレスや困窮者支援の第一人者であり、かつ東八幡キリスト教会の牧師として心揺さぶる話をされる宗教者として尊敬を集めている方だ。困窮者支援をする牧師といえば、隣人愛とか慈悲の精神に基づいて献身的に人に尽くす姿を想像されるかもしれないが、奥田さんの第一印象はお酒が大好きな気の良いおっちゃんであり、彼自身が自分を「逃げ遅れた」と形容するように、自ら積極的に人に尽くすというより、やむにやまれず困窮状態にある人に寄り添って生きざるをえない、そういう生き方をされている。少なくともそう、わたしの目には映る。

講演のその日。夕方に吉祥寺で所用を抱えていたわたしは、その朝に奥田さんが吉祥寺に来ることを知り、あわててアポを早めてもらってどうにか都合をつけて会場に駆けつけた。長年の経験に裏付けられた説得力と優しさとユーモアを持ち合わせた深みのある奥田さんの言葉を、信仰を持たないわたしが要約するのは僭越にすぎるし、おそらく記憶を頼りにここに書いてもその言葉の力は適切に伝わらなくなってしまうと思うのだけど、以下に少し振り返ってみたい。

「助けてと言える社会をめざして」という講演のタイトルは、奥田さんがつねに主張してきた目指す社会の方向性でもある。「人に迷惑を掛けてはいけない」そう子どもの頃から、この社会に生きていればさんざん聞かされてきたことだろう。その結果世の中がどうなったかと言えば、みんなが幸せに暮らせるどころか、孤独を抱えるようになっていったのではなかったか。たとえば一昨年、過去最多の499人を記録した子どもの自殺者のうち、半数以上が自殺の理由が「不明」とされる。これはつまり、学校に馴染めないとか親から暴力を受けているとかいじめられているとか、そういう言葉にできる理由が把握されていないということ。幼い彼ら彼女たちが抱えていた苦しみを、周りの人たちがが分かってあげられなかったということだ。誰にも助けを求められないまま、ある日突然命を絶った。そういうことだ。それでもなお、わたしたちは「誰にも迷惑を掛けるな」と言い続けるのだろうか。

奥田さんはいま、北九州の工藤会本部事務所跡地を買い取り、総合型の共生・支援施設をつくる「希望のまちプロジェクト」を計画されている(ぜひご支援をよろしくおねがいします)。困窮の種類や程度や、あるいは障碍の有無に限らず、生活を互いに支え、ただのホームではなくハウスになるような場所をつくり、地域で子どもを育てていく、そのなかで大人たちも自分の役割を見つける、そういう街を奥田さんは構想している。「家族機能の社会化」、つまり家族が担っていた、狭い家族の壁の中に囲われていたケアの機能を、地域社会を担うようにする。迷惑を掛けないなんてとんでもない、「迷惑を売って歩くような街にしますよ」と笑って紹介する。

実際のところ、迷惑を掛けながらみんなで助け合うという理想とは逆に、コロナ禍ではむしろ「自分さえよければいい」という「自分病」が蔓延したという。内村鑑三の以下の言葉を引きながら、奥田さんは説いた。

国が亡びるとはその山が崩れるとか、その河が干上がるとか、その土地が落ち込むとか云うことではない。(中略)、国民の精神の失せた時にその国は亡びたのである。民に相愛の心なく、人々に互いに相猜疑し、同胞の成功を見て怒り、その失敗と堕落とを聞いて喜び、我一人の幸福のみを思うて他人の安否を顧みず、富者は貧者を救わんとせず、その教育はいかに高尚でも、かくの如き国民はすでに亡国の民であって、只わずかに国家の形骸を存しているまでである。(「既に亡国の民たり」、下線は荒木による)

トイレットペーパーの買い占めもそうだし、医療従事者に(感謝はしつつも)アパートを貸さない、子どもを保育園で預からないというのもそうだ。それも自分が損をしないため、感染しないために、他人のことは慮らないで「我一人の幸福のみを思う」。そういう国民は、いかに教育がすぐれていても「亡国の民」だと内村はいう。

講演の後半は相模原のやまゆり園事件、とりわけ植松聖被告の思考を、この自分病の蔓延する日本社会の文脈に位置づける話へと進んでいった。植松君(と奥田さんは呼んだ)は意思疎通のできない、自力で食事も排泄もできない人間を「心失者」とよび、生きるに値しないとして次々にその命を奪っていったのはご存じの通りだ。役に立たない命なら殺してしまった方が良い、そう植松君は信じて犯行に及んだのだった。

奥田さんは植松君に手紙を書き、面会に訪れた。植松君はそのとき、「わざわざ遠くからありがとうございます」と頭を下げて、礼儀正しいまともな人間に見えたという。そしてその面会の中で、彼はまた「心失者」は殺すべきだという持論を展開した。「つまり役に立たない人間は、殺せとそういうことなんですか?」奥田さんは彼に聞いた。即座に植松は「そうだ」と応えたという。奥田さんは「じゃあ事件を起こす前に君は、役に立つ人間だったの?」と聞いた。「僕はあまり役に立たない人間でした」と植松は答えたという。

人間を役に立つか立たないかを峻別することは植松君が自分自身に対して行ってきたことだし、それは植松君だけではなく、いまこの社会のあらゆるところでみられることだ。自分は生きている意味があるんだろうか、役に立つ人間なんだろうか。植松君はその悩みを解決する手段を間違えたけど、人の生きる意味を問うことは植松君の独自のものではなくて、この時代のなかで生まれてきたことだ。その彼を、生きていても意味がない、まともじゃない人間だとして死刑にしてしまうことは、彼が投げかけたメッセージと同じなのではないか、と奥田さんはいう。

人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 (「マタイによる福音書」7章1-2節)

続けて奥田さんは、千代さん(仮名)というある女性ホームレスの話をした。彼女は路上生活が長く、支援住宅に入ることを提案しても拒否し続けていた(100回断られても101回目に助けてほしいと言うかもしれない、そのときのためにつながり続けるのが困窮者支援だ)。そして長年の説得ののち、彼女はNPO抱樸の持つ住宅に入り、生活保護を受け、それなりに自立した生活ができるようになっていった。

そんなあるとき、千代さんは奥田さんに、「友達が死んだからお香典5000円貸してくれ」と頼みにきた。奥田さんは財布から5000円を貸して千代さん出掛けていくのを見送った。その翌週、また「親戚が死んだから5000円貸して」と言われ、奥田さんは首をかしげながら5000円を貸した。さらにその翌週。「娘の旦那が死んだ。10000円貸して」と千代さんは言った。奥田さんは「さすがに毎週毎週そんなに人が死ぬのも都合が良すぎるんちゃうか。いまから娘さんに電話するからよく聞いとき」といって目の前でスピーカーホンで娘に電話。もちろん娘の夫は健在だったのだが、千代さんは「なんであの子そんな嘘つくかなあと悪びれなかったという。

そんな千代さんも1年ほどで亡くなった。娘に見放されていた彼女の葬式は、牧師である奥田さんが喪主をつとめた。献花にきた元ホームレスのおじさんたちは「千代さんにはやられたなぁ」とつぶやいていたという。お金をだまし取られていたのは、奥田さんだけではなかったのだ。貸したお金はみんな、パチンコに消えていったのだという。それでも元ホームレスのおじさんたちは、千代さんに「ありがとな、また会おうな」と言って別れを告げたという。また会っても、騙されるだけなのに。


奥田さんの教会に来ていたある女性は、交通事故で半身不随になった娘の面倒を何年も見て、それから看取った。事故の後は娘の食事も排泄もぜんぶ彼女が面倒を見たという。そんな彼女が植松君に言いたかったのは、娘の事故は不幸だったけど、彼女の世話をするのは不幸ではなかった。だけどその大変さを分かってほしい。そういうことだったという。

「絆は傷を含む」、奥田さんはいろいろなところで説いている。人と人が出会い、一緒に生きていく、そこにはかならず大変なこと、辛いことを、痛み分けしながら歩んでいかなければいけない。それは不幸なことではない。大変かもしれないけど、それを消してしまえばいいものではない。おじさんたちが、千代さんになけなしのお金をだまし取られたのに仲良く一緒にすごしていたように。友達同士だって恋人同士だって、いつだって仲良く明るいときが過ごせるわけではない。辛さとかしんどさを共有しながら、絶望の淵にあって、人に迷惑を掛けることしかできなくなっても、傷付けても、それでも見棄てずにともに歩んでいく。それが絆だし、人と人がともに生きていくって、そういうことだ。コストとかパフォーマンスという基軸で人の価値を計ることはない。

国家が富を再分配するなら、地域社会の役割は傷を再分配することだ、と奥田さんはいう。いまその機能が失われて、一人で誰にも迷惑を掛けずに生きていくことが良しとされて、それで失敗したら自己責任だという社会、これは非常にあやうい。なんど躓いても、条件をつけずにつながり続けること、それは単に助けるとか助けられるとかいう一方的な関係ではない。ケアすることはギブアンドテイクではなくて、両者がケアすることでケアされる関係だからだ。だからこそつながり続けることが必要なのであって、命の尊厳はそうやってたしかなものになっていく。「生きる意味」を問うのではなく、生きることそのこと自体が意味なのだと、そう考えることから始めようと奥田さんは言う。


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わたしはクリスチャンではないし、奥田さんの話を適切に理解できているかは分からない。どうしても自分のことばかり考えてしまうのが自分の未熟なところだけれど、誰にもしんどさを打ち明けられないまま、一人でその辛さを抱えて苦しんできた、十代の頃のことを、思い出しながら、奥田さんの話を聞いていた。危ない橋を渡りながら、いろんな傷を含みながら、それでもなお命の綱が切れないで今日まで生きてこられたのは、いろんな絆に支えられていて、傷を共有できていたからなのだな、と感じながら。奥田さんの話を自分の人生の話に結びつけるなんて、我田引水にも程がある。それでもなお、わたしは確信している。役に立つとか立たないとかでものごとを決めつけないことが、自分を生かしてくれたのだと。遠回りをした、そのひとつひとつの景色を見なければ、いまの人生につながる歩みを進めることがなかっただろうと思う。それぞれの学校や職場で出会った人たちももちろんだけど、高校をサボって家出した先の小笠原でも、フィールドワーク先や旅先でも、いろんな人に迷惑を掛けてきたし、助けられてきた。そういう経験が根底にあるから、奥田さんの話は胸に響いたし、希望のまちプロジェクトが成功してほしいと、心から願う。そしてそこで、さまざまな困難を持ち寄ってみんなで迷惑を掛けながら生きていける街が生まれてほしい、できれば北九州だけじゃなくて色々な場所で、そういう街が生まれてほしいと思う。

順風満帆な人生ではなかった。でも、いや、だからこそ。生きてきて良かったなと思う。世の中にはまだまだ届けられるべきたくさんの言葉があるということが分かったから、そしてその言葉を届けるために、生きていこうと思えるから。現役で難関大学に進学して大企業に就職していたら(それは立派な人生だと、心から思うけれど)、こうやって言葉を紡ぐこともなかったし、言論の仕事を選ぶこともなかっただろうし。

都心の大学を出て、周りもそういう人ばかりに囲まれて生きている、そうしてどこかの企業や組織で仕事をするようになる、そういうライフコースでは見えてこなかったものを持っている。もちろん私が持ってなくて、彼らが持っているものも、たくさんあるはずで、どちらが優れているとかそういうことが言いたいのではない。敢えて自分の側を外野とか傍流と言うとすれば、世の中は無数の傍流が結びついてできているし、外野を守っている人たちの仕事でできている。「社会人」と言われるひとに見えている「社会」などこの世界のわずかな部分にすぎない。それが偏狭だと言いたいわけではないが、しかし、同質性の高い集団のなかからは、豊かな発想が芽生えることは難しいし、弱者やマイノリティにも風通しのいい空間が生まれることも難しい。世の中に迎合せず、自分の経験から出てくる言葉を探し、行動することが、きっと誰かの支えになると思う。

血を吐く思いで学校を辞めたとき、家族も教員も誰も分かってくれなかったし、アホだとか無駄だとか勿体ないとか、さんざん言われた。自分にとって最も意味があると思うその選択を、「客観的に」評価する大人たちの、その上から目線がとても不愉快だったし、自分のことを誰もわかってもらえないのだと思うとむなしかった。

その根底にあったのも、費やした時間や努力に分かりやすい「価値」を見出そうとする「コスパ」思考だったと思う。その安直な思考法をうち捨てて、人が選ぶどんな選択も尊重されて、どんな生き方も尊重される、世の中であってほしいと心から願う。



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