「終戦の日」に (2020年)
今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、終戦から75年を迎えた今も、私たちは決して忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。(全国戦没者追悼式 安倍首相の式辞全文 - 毎日新聞)
終戦から75年経った今日、全国戦没者追悼式で安倍晋三首相はこう述べた。戦没者を「犠牲」と呼ぶことには、以前から様々な疑問が投げかけられており、犠牲などではなくて無駄死にだったという声もある。尊い犠牲という言葉は、靖国神社を参拝した小泉進次郎、萩生田光一らの閣僚も用いていた。そして今年も、総理の口からは加害の責任については十分な言及がされなかった。
犠牲、といったとき、何かと引き替えに棄てられるものと、災害や人災で命を落とす人という二つの意味がある。これを混同すべきではない。戦没者は後者の意味では「犠牲者」であることに間違いはない。だけど彼らはなにかの為に、命を落としたのだろうか。そしてそれは命を落とすに値するだけのものだったのだろうか。
アジア・太平洋戦争では日本の軍人・軍属230万人、民間人80万人、そして日本国外で2000万人の「犠牲者」を生んだ。被害者はそれだけではない。戦没者の遺族、引揚者、在留邦人、収容者、政治犯……。戦争は単なる人殺しではない。奪われるのは人の命だけではないからだ。愛する人や土地、自由な表現、夢、時間、平等、尊厳。家族や郷里から引き離され、言いたいことも言えず、他人に銃口を向けることを強いられる。戦争はそれをするだけの価値のあることだったのだろうか。彼らの死亡と苦節をもって平和と繁栄をもたらしたと言えるだけ、闘う価値のある戦争だったのだろうか。2300万人の命を使い棄てにすることを肯定するような論理がいったい存在すると言えるのだろうか。
戦没者を尊い犠牲ということは、彼らを追悼するための情緒の言葉としては用いやすい。けれども一度その情緒の前に立ち止まって考えなければならない。
戦没した軍人の6割は餓死と言われている。彼らは「国を守る」ために闘って死んだのではなかった。生き延びるはずもない戦争を国によって闘わされ、捨て駒にされたのだ。靖国神社に祀られる軍人を「英霊」と呼び、尊い犠牲という言葉で形容できるほど価値のある死だったとは、残念ながら思えない。だからこそ、彼らの命が使い捨てにされたことを反省し、過去に学び前を見て歩きたいと思う。それが平和な日本に生きるわたしたちの責任であると思う。
「戦争責任」には様々な意味が込められる。山崎雅弘氏は、戦争責任を①国の指導部の責任 ②政府を支持し賛同した市民の責任 ③実際に非人道的行為を行った軍人の責任 ④過去の戦争を知り学び継承する責任 ⑤未来に戦争を起こさないために考えて行動する責任 の5つに分けている(8月15日 “わたし”にとっての 戦争責任とはなにか - Choose Life Project)。①②③の責任は、戦後生まれのわたしたちにはない。しかし、④と⑤は戦後責任とも言われるが、戦後に生きるわたしたちにも関連する、応答できること=responsibilityとしての責任である。
上のChoose Life Projectの配信で山崎雅弘さんが言われていたが、責任を引き受けること、反省することは決して恥ずべき事ではないし、屈辱でもない。よりよい未来を作るために努力し、未来に対して胸を張るための、とても前向きな行為だ。まして「自虐」などといい切り捨てるべきではない。傷付くことを恐れて責任に蓋をしてはならない。反省することがプライドを傷付けることはないのだから。
8月ジャーナリズムとも言われる。毎年この時期になると、戦争に関する番組が放送され、記事が掲載される。そうして学び、考える機会が毎年訪れることをありがたく思い、平和への思いを再び胸に刻む。わたしたちは戦争を知らない世代だ。そのことに感謝し、誇りに思い、そしてまた子どもたち、その子どもたちの世代にも伝えていくために、努力したいと思う。
2020.8.15 荒木駿
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