「ポエム」と呼ばないで
政治家や著名人の、何かを言っていそうで何も言っていない発言、あるいは、実行や決断を伴わないただの感想、それらを、「ポエム」というの、やめませんか。
やめてもらえませんか、とほんとうは言いたいけれど、新人賞に送っても取り上げられることはほとんどなく、人に見せたことさえ数えられるくらいしかないわたしが、たいそうなお願いをできた立場ではないけれど、書くことや読むことでなんとか自分を支え、眠れない夜を明かすことができたわたしにとって、それらの無責任なことばが「ポエム」と形容されてしまうとき、たとえるなら子どもの頃から大切にしていたぬいぐるみが見知らぬ誰かの悪戯によって引き裂かれてしまうような、そんな気持ちになる。
好奇心も向上心も摩耗して蒸発してしまいそうなこんな日々の中で、好きなように詩を書いたり読んだりすること、それがいかに下手くそでも、堂々と続けていいのだということを、改めて気付かせてくれたのは、立ち竦んでしまうほど美しい言葉を書く詩人、川口晴美さんのこの言葉に出会ったから。
ときに淀み、ときに唸るような感情の渦に振り回される日々にとって、哀しいときは哀しいといい、嬉しいときは嬉しいと言いたい。それを抑圧する社会を望む人はきっと、どこにもいないだろう。しかし「かなしい」ということばに込められた言葉に自分の存在の揺らぎを表現してしまうことを満足できる人は、はたしてどれだけいるだろうか。ありがちな感情の最大公約数の寄せ集めにすぎない言葉を口にすることで、日々立ち向かう理不尽に折り合いを付けられるほど安い人生を、ひとは生きてはいないのではないだろうか。
やりきれない思いを、気心知れた友達に打ち明けることで、解消する人もあろう。しかし孤独な人間にとって、分かってあげられるような誰かの感情なんて、ほんのわずかな、擦れ違うような重なり合いに過ぎないのだとおもう。
誰も経験したことのないような痛みや苦しみに面したとき、ひとは新しい表現を欲する。
思い出してほしい。誰かの心ないことばに傷ついたときでもいいし、束になって押し寄せる理不尽に打ち拉がれたときでもいい、強くなりたいと思ったことはないだろうか。自分を傷付けるなにかを説き伏せることができるほどの強い言葉を持ちたいと願ったことは、ないだろうか。
たとえ打ち克つことができなくてもいい、その押しつぶされそうな哀しみや苦しみのなかで、あなたが呼吸を続けるために、自由に詩を読んだり書いたりすること、それは職業詩人や文芸批評家がするのとはまったくちがうやり方で、みずからの思いを発散するためであっても、そうすることは、生きていくために必要なことなのだと思う。
それは「痛い」ことでも、恥ずかしいことでもなんでもなくて、とてもたいせつなことなのだと。つたなくたって伝わらなくたって、ぜんぜん問題などないのだということを、無責任な言葉が飛び交ういま、つよく、思う。
しょせん人がことばにしうることなど、ほんの僅かにすぎない。だけどそれを諦めてはならないのだと、むしろことばに縛られるからこそそこから外れようとすることばが美しいのだと、日常ではないことが日常にとって変わろうとする日々を生きていて感じている。
やめてもらえませんか、とほんとうは言いたいけれど、新人賞に送っても取り上げられることはほとんどなく、人に見せたことさえ数えられるくらいしかないわたしが、たいそうなお願いをできた立場ではないけれど、書くことや読むことでなんとか自分を支え、眠れない夜を明かすことができたわたしにとって、それらの無責任なことばが「ポエム」と形容されてしまうとき、たとえるなら子どもの頃から大切にしていたぬいぐるみが見知らぬ誰かの悪戯によって引き裂かれてしまうような、そんな気持ちになる。
好奇心も向上心も摩耗して蒸発してしまいそうなこんな日々の中で、好きなように詩を書いたり読んだりすること、それがいかに下手くそでも、堂々と続けていいのだということを、改めて気付かせてくれたのは、立ち竦んでしまうほど美しい言葉を書く詩人、川口晴美さんのこの言葉に出会ったから。
辛かったり苦しかったり浮かれたりもする日々のなかで、日常の言葉だけでは立ち向かえないことはきっとあるから。だから、詩を読んだり書いたりすることは文学的な評価みたいなことと全然関係なくやったっていいんだって、それはとても必要なことだって、詩の講座の長い月日を経てそう思っています。
— 川口晴美 (@mizutori1) April 13, 2020
ときに淀み、ときに唸るような感情の渦に振り回される日々にとって、哀しいときは哀しいといい、嬉しいときは嬉しいと言いたい。それを抑圧する社会を望む人はきっと、どこにもいないだろう。しかし「かなしい」ということばに込められた言葉に自分の存在の揺らぎを表現してしまうことを満足できる人は、はたしてどれだけいるだろうか。ありがちな感情の最大公約数の寄せ集めにすぎない言葉を口にすることで、日々立ち向かう理不尽に折り合いを付けられるほど安い人生を、ひとは生きてはいないのではないだろうか。
やりきれない思いを、気心知れた友達に打ち明けることで、解消する人もあろう。しかし孤独な人間にとって、分かってあげられるような誰かの感情なんて、ほんのわずかな、擦れ違うような重なり合いに過ぎないのだとおもう。
誰も経験したことのないような痛みや苦しみに面したとき、ひとは新しい表現を欲する。
思い出してほしい。誰かの心ないことばに傷ついたときでもいいし、束になって押し寄せる理不尽に打ち拉がれたときでもいい、強くなりたいと思ったことはないだろうか。自分を傷付けるなにかを説き伏せることができるほどの強い言葉を持ちたいと願ったことは、ないだろうか。
たとえ打ち克つことができなくてもいい、その押しつぶされそうな哀しみや苦しみのなかで、あなたが呼吸を続けるために、自由に詩を読んだり書いたりすること、それは職業詩人や文芸批評家がするのとはまったくちがうやり方で、みずからの思いを発散するためであっても、そうすることは、生きていくために必要なことなのだと思う。
それは「痛い」ことでも、恥ずかしいことでもなんでもなくて、とてもたいせつなことなのだと。つたなくたって伝わらなくたって、ぜんぜん問題などないのだということを、無責任な言葉が飛び交ういま、つよく、思う。
人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。言葉にならないことで全身が満たされたとき人は、言葉との関係をもっとも深めるのではないだろうか。(若松英輔『悲しみの秘義』)
しょせん人がことばにしうることなど、ほんの僅かにすぎない。だけどそれを諦めてはならないのだと、むしろことばに縛られるからこそそこから外れようとすることばが美しいのだと、日常ではないことが日常にとって変わろうとする日々を生きていて感じている。
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