遠く、離れた場所へ



いま思えばヨーロッパのありふれた観光地だったけれど、初めて一人旅をする心配性の十代だったわたしにとっては、行き先がどこであっても不安の連続でしかなく、漠然と憧れていた「バックパッカー」なるものに、自分を重ね合わせては心躍らせることによってきっと、不安に押しつぶされて投げ出してしまわないくらいには心を平常に保ち続けることができていたのだろう。

不安の量に比例して、45リットルのバックパックにはパンパンの荷物が入っていたし、それに加えて観光する時に持つ小さいトートバッグもたっぷり膨れていた。たった3週間の旅だったのに、カメラ一式とフィルム(当時は祖父のニコンS2を使っていた)はもちろん、ガイドブックなんか歩き方とロンプラの二冊も持って行ったし、「日本食が恋しくなる」という俗説に惑わされて普段は食べもしない練り梅や干し柿も詰め込み、電子辞書と現地語の会話集、バスタオルとフェイスタオルも三枚ずつ買って、なぜだか浴衣と帯まで詰め込み、後はもう何を持って行ったか分からないが、随分と重い荷物を背負っていた割には鞄の底で眠っていた物も多かった気がする。

空港の乗り継ぎですら不安で、ネットでどうすればいいか事前に調べまくっていた。そんなものだから当然、準備は周到にしていった。泊まる宿は事前でネットで予約していったし、バスや電車も前もって調べていった。まだスマホやタブレットが普及する前だったから、予約は全部プリントアウトして持って行った。

重たいバックパックに背中引き摺られるように歩いてるだけで「バックパッカー」になったつもりでいたけれど、旅先で旅人たちと出会うことで自分の情けなさや、自分と「バックパッカー」の距離に気付いていった。そもそも、3週間という期間は短すぎるし(これは、当時通っていた専門学校の夏休みが3週間しかなかったから仕方ない)、モノホンの旅人たちは事前に決めたルートを辿るのではなくてもっと自由に、気ままに旅していた。その時旅していたクロアチアにはSOBE(ソベ、部屋を意味する単語だが、民泊とかB&Bみたいなもの)の客引きがバスターミナルや駅にいて、飛び込みでも宿探しに困ることはなかったし、旅人たちと情報交換するうちに行ってみたい場所が出てきたりするもので、気に入った場所では延泊したり天気が悪ければ日程を延ばしたり、自分のペースで旅をすることができるということは、考えてみれば当たり前だったのだが、当時のわたしにとってはとても新鮮だった。むしろ前もって計画された旅というのは、なにかに縛られているようで、自分はなんて窮屈な旅をしているのだろうかと思い始めていた。

今ではSIMフリーのスマホも普及したしWifiもほとんどの宿で使えるようになった。AirbnbとかカウチサーフィンとかUberとか(そんなものもあるらしいけど、わたしはよく知らないまま書き並べてみた)も普及したから宿探しも移動も随分楽になった(のだと思う)。ネットで情報収集すればガイドブックだって別に要らないだろう。旅はずいぶん効率的になった(のだと思う)。宿探しやチケットを確保するための余計な手間も要らず、無用なトラブルを避けるための手段を前もって講じることができるようになったはずだ。


だけどそういう旅を便利にするためのツールが、旅を予定調和めいたものにしているのではないかとも思う。わたしの敬愛する旅行作家の田中真知さんは、こんなことを書かれていた。


以前なら、事前にいくら調べても得られる情報には限界があった。本やガイドブックを読めば、漠然としたイメージは浮かぶものの、それ以上の情報がなければ、そこで見切りをつけて、あとはどうにでもなれという気持ちで、まだ知らない土地に足を踏み入れる。情報より現地のほうがリアルだった。
ところが、いまは調べようと思えば、どこまでも調べられる。グーグルマップだってあるし、英語が読めれば、どんなにマイナーといわれれている地域についてだって、玉石混淆かどうかはべつとして、読み切れないほどの情報があっというまに手に入る。そして情報が手に入ると、おのずと無駄のない動き方や、効率的な歩き方を考えてしまう。実際に歩き出す前に、自分の脳内に旅のリアリティが形作られていく。これはかならずしも、旅にとって幸福とばかりはいえないと思う。
もちろん、そんな抽象的リアリティなど崩壊させるほどのインパクトのある現実も存在するだろう。だが、ともすれば、旅をしながら気がつけば自分の脳の中をぐるぐる巡っていることだってある。自分があらかじめ思い描いた美しさや楽しさをなぞっているだけで、その外部になかなか出られない。むしろ現実のほうが色あせて感じられてしまうということだってあるだろう。
(田中真知「道草するように旅したい」『旅行人』2009年上期号vol.159)


あの時モノホンのバックパッカーに出会ったわたしが気付いたのは、こんなことではなかったか。結局、ガイドブックに書いてあるところを巡って、前もって計画された道筋をなぞるだけの旅なら、旅行会社にお膳立てしてもらっているツアーと、なにも変わらない。それは、誰かが先に見つけていた美しさとか、これを読者に紹介したら受けるだろうなというガイドブックを書いた人の目に映った景色を再確認しているにすぎない。だとしたら、べつに家で旅行番組見ててもいいんじゃないの。といったら言い過ぎかもしれないけど、そんな旅ならべつに、新しい何かを発見しているわけではない気がして、わたしは嫌だった。

話は変わるが、子供の頃から地図を見るのが好きだった。小学校に入った頃だか入る前だか覚えていないが、父が地図帳をくれた。表紙には製薬会社の名前が印刷されているから、きっと学会か何かで営業の人に貰ったものなのだと思う。50頁にも満たない、世界地図と日本地図の地図帳だったけれど、毎日のようにそれを眺めては知らない国のことを夢想し、自分ひとりでは受けとめることもままならない世界の大きさを思い、圧倒されていた。地図には畏怖すべき世界の縮図だったのだ、わたしにとって。

タイトルも著者も忘れてしまったが、学部生の頃に読んだ本に、たしか、地図とは世界をありのままに写し取ったものではなくて、我々が世界を解釈するためのツールである、みたいなことが書かれていた。地図の記載が正確か否かという点は実は読者のあずかり知らぬものであって、わたしたちは、地図に引かれた国境線や国名や地域性によって、その国や地域を理解しようとする。でなければ世界は混沌としていて手の付けようがないからだ。この世界を解釈する手がかりとして、わたしたちは地図の図形や言葉やガイドブックやメディアや他人の言説に頼る。

誰でも、既存の価値観から完全に自由になって見知らぬ土地のことを見ることは難しい。起こっていることを、ありのままに、なんの価値付けや解釈もなしに読み解いていくことは、ほとんど不可能といっていい。誰もが見知らぬものと出会うとき、既存の知識や枠組みを手がかりにする。それはわたしだって同じだ。どんな旅をしていても、それは変わらない。旅をするというと、なにか未知のものに出会うような印象があるけれど、実際には前もって知っていることを確認したり、知識をアップデートする間に、不確定な要素や知らなかった物が入り込んでくる、くらいのものなのかもしれない。わたしたちの私的生活の大部分が、そうであるように。それでもなお、観光地に行って、歴史的あるいは文化的に価値のあるものを自分の目で見て、より深く知ろうとすることは間違いなく大切な経験になるはずだとも思う。

しかるに、事前に分かっていることをその目で確かめるよりも、知らないところを歩いてみるほうが、得られるものも多いと思うのは、わたしの旅にたいする単なる思い入れなんだろうか。見るものは同じかもしれないけれど、人に教えて貰うのと、自分の足や頭で苦労しながら読み解いていくことでは、随分と違う気がする。効率を求めて事前に予防線を張って旅をすれば楽だけれど、同時に失っているものだってあるように思う。田中真知さんはこんなことも書いていた。

旅の本質は、じつは道草なのではないかと思う。どこに行くかわからないけれど、ふとした好奇心につられて、道を外れてみる。それが役に立つとか立たないかなんて、どうでもいい。無駄かどうかなんてことも、どうでもいい。意味があるかないかなんてことも、やっぱりどうでもいい。旅は、すぐに結果が出るものではない。すぐに結果を出さなくてはならない旅は取材であって旅ではない。もちろん、取材も楽しいことはあるのだけど、それを支えているのはやはり道草の気分なのだと思う。(前掲「道草するように旅したい」)


即効性を求めるビジネスの論理が最近では、学校教育だけではなくて「教養」という名で世界史や哲学や美術の(付け焼き刃にすぎないのだが)知識にまで波及したり、おそらく旅にも及んでいるのだと思う。「旅に出るべき理由」みたいな言説が、ネットや本にも溢れているけれど、たぶん旅には意味も目的も理由もいらない。旅そのものが意味なのだと。意味とか目的なんていう、俗世の論理から離れたところに旅があるからこそ、きっと取材ではなくて旅なのだと思う。

もちろん、旅は人生に有用だし、きっとたくさんの価値観を持つ人びとに出会い対話する機会を持つことは、仕事をする上でも役に立つのだとおもう。それでも、わたしは旅に即効性を求めるべきではないと思う。なにかの目的をもって行くような旅なら、道草できなくなってしまうから。目的のある道草なんて、道草じゃない。

幼少の頃から両親に連れられて世界を旅した作家で心理学者のアンドルー ソロモンは、母にこんなことを言われたそうだ。

いつでも、また戻ってくると思って旅をしなさい。一度限りの旅だと思っていると、なんでも見ようとしてしまって、結局なんにも見てなかった、なんてことになってしまうから。
(Andrew Solomon.『Far and Away: How Travel Can Change the World』2016年、Vintage)


目的を満たそうと思えば思うほど、視野は狭くなって、目的以外のものが見えなくなっていく。偶然の出会いや道草からは、遠ざかっていくだろう。ふとした出会いはきっと、心や時間の余裕があるから生まれてくるのだと思う。

前もって用意した道筋を辿るのではなくて、偶発性に身を任せてみる。そのためにわたしはあるとき、ガイドブックを持つのを止めた。行き着いた先で、出会った人に話を聞いて、訪れる場所や次の行き先を決める。そうすれば、すべてが道草みたいになるように思えたから。
観光客(tourist)は集団で移動し、訪問先を自分たちの国と比べては安心している人たちのことだが、旅人(traveller)たちは見るだけでなくて、その土地を経験するために未知の世界に飛び込んでいく。
(前掲『Far and Away』)


そんなことを思うようになってから、カメラを持つのもやめた。ファインダーを覗いているあいだは、写真を撮るために、その瞬間を五感のすべてで感じることを犠牲にしているような気がしたから。撮ることに満足して、その場所をじっくり見ることをおろそかにしているようにも思えた。シャッターを切る一方的なまなざしが、暴力的に思えることもあったし、その行為が、自らの小さなアイデンティティを必死で探そうとするような行いみも思えた。そしてその場所から切り離された写真の中の景色に、だんだん意味を見いだせなくなっていった。記憶に残らないような景色なら、わざわざ記録に残さなくたっていいし、なによりもわたしは素子に映る世界じゃなくて、自分の目に映る世界をじっくりと味わっていたかった。

スマホや電子機器もすべて、持つのをやめた。情報収集は現地ですればいいし、旅先にいてまで俗世間と繋がっていたくはなかった。正直に言えば、ちょっと不安である。いや、かなり不安である。だけど、家に居るのと同じように友達と連絡が取れて、SNSで訪問先の写真をシェアできるのは楽しいし便利かもしれないけれど、自宅にいるのと変わらないような人とのコミュニケーションをfacebookでするよりも、その場にしかない出会いをface to faceで楽しみたい。
旅とは自分自身を広げる試みであるし、自分の限界を見極める試みでもある。旅は日常持っている関係から解放された、ありのままの自分へと純化してくれる。完全に知らない場所に来たときほど、自分自身を明確に見えることはない。
(前掲『Far and Away』)


せっかく、日常から切り離されて自分をみつめる機会になるのだから、日常の関係性のなかに戻ってしまうような繋がりを旅先で得るのは興ざめな気がした。旅はたぶん、誰かに写真をシェアしたところでなにも分からない、自分だけの秘め事だと思うから。
本物の旅には保障がない。必要とされる時間も費用も、見聞も出会いも、すべて自分の責任にまかされる。そのことに他者が介在することもないし、他者が責任を持たされることもない。それだから旅する者には個人的な秘密という宝物が特権として与えられる。これは世間に知られてはまずいというようなつまらない種類のものではない。わたしだけの時間と場所、わたしだけの出会いと発見、わたしだけの物語のことである。その秘密を得た時に、旅人は驚く。自分だけの驚きを驚く。

旅では人との触れ合いが景色を彩る。人の善意の背後で悪意が笑う。その逆もある。愛と憎しみがいとも容易く姿を現す。その一部は本物であり、残りの部分は偽物である。寛ぎは常に不安に支えられている。友情が芽生えれば、孤独が同時に生まれてくる。こうしたことの連なりが、道中での自分を旅人にする。
旅への憧れ。それは、我に返れという自分自身の叫び声なのではないだろうか。
(西江雅之「旅への憧れ」、1994年『東京のラクダ』所収。)


人が旅に出る理由はわからない。きっと、人の役に立つための旅もあれば、仕事の役に立つための旅もあるだろう。自分を癒やす旅もある。人に見て貰もらうための旅も、お金を稼ぐための旅もきっと、あるだろう。

わたしが厭世的なだけかもしれないけれど、この生きづらい世界の中で、人に塗れて生きることは、自分を見失ったり、他人の期待に応えるために自分を空疎にしてしまったりすることの連続のように思われる。だからこそ、生活から離れて、遠く、離れた場所に、俗世の雑音の届かないところへ、行くことを切望する。それは物の洪水と人の波のなかで見失いがちな自らを取り戻し、我へ返ろうとする魂の叫びなのだ。きっと。

スマホもPCもいらない。カメラもいらない。ただ人びとと向き合い、自分と対話する。それでなんの不足があろうか。それこそがもっとも、満たされた旅というものではないか。

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