旅に出るのに理由なんていらないけれど、世界の市民であるために(Andrew Solomon の『Far and Away』を読む)
ある人はそれを天命だといい、ある人はそれを抑えることのできない衝動だといった。人間が持つ基本的な欲求だという人もいた。
人生のある瞬間、それまで見えていた世界がモノクロだったのではないかと思わされるような経験も、いままで見えていなかった視界が急に開けて、新しい感情を与えられたかのような経験も、見たことのない美しい景色をも、幾度となく見せてくれたもの。苦しいと同時に喜びでもあり、別れの悲しみもあれば出会いの喜びも同時に持つ、人生の縮図。
わたしはそれを「するものじゃなくて、落ちるものだ」という。
旅が教えてくれたことは多く、旅がわたしの人生を豊かにしてくれた。それ以上に、死にたいくらい辛かったとき、旅がわたしを救ってくれた。旅がなければ今の自分はいないだろう。わたしにとって旅とは息苦しいこの社会から逃れて、呼吸のための空気穴を空けるものであり、自分のことをなにも知らない人と出会ってまっさらな自分から人間関係をはじめる、リセットの場所でもある。
たぶん、もっと崇高な理想を持って旅する人もたくさんいる。世界一周をしたり、貧しい人のため、世界をよりよくするために旅をする人たち。そういう人は輝いて見えるし、わたしは、ただ、旅をするだけで彼らと同じ範疇に入れられてしまうことは、なんだか日本人というだけで金持ちだと思われるのに似ている。旅なんてそんな立派なものじゃないよ、と思う。旅に出るのに理由も目的もいらないし、きっと人それぞれいろいろな旅の楽しみ方があると思う。何がいい旅なのかをわたしは決めることはできないし、たぶん、すべての旅がいい旅だ。
旅をすることが偉いことだとも思わないし、勇気や度胸のいることだとも思わない。ましてや、行った国の数が多い方が偉いなどとも思わない。何ヶ国くらい行ったんですか? と訊かれることもよくあるけれど、数えていないから分からないし、分かったとしても答えない。そんなことで自分を判断してほしくはない。
だけど慥かに思うのは、旅は人生を豊かにするということだ。絶望の淵にいるとき、そっと手を差し伸べてくれることも、地獄のような苦しみから別世界へと誘ってくれるような旅もあるし、そっと悲しみに寄り添ってくれる旅もある。しっとりとした哀しみにつつまれて、ひとつ大人になれる旅もある。自分の知らなかった人たち、考え方のまったく異なる人たちと時間を掛けて意見を交換しあい、彼らを理解することで、自分の見識や視野を広げてくれる旅がある。人の優しさに心打たれ、自らの行動を顧みる気付きの旅もある。なにもかも分からない状態に投げ込まれて、自分の無力を思い知らされる旅もある。もちろん、欺されて怒り狂ったり、理不尽に絡め取られて自暴自棄になる旅も、あるだろう。出たことに後悔するような旅だってなお、自分の常識とはかけ離れた状況に身を置き、理解しようとし、行動することで自分の殻を破って成長することは確かだと思う。
もっとたくさんの人が旅に出れば、国は豊かになり、この世界はもっと豊かになるだろう。映画『いろとりどりの親子』の原作者であるアンドルー ソロモンは、「もし全ての若者が外国に2週間住むことが義務づけられたとしたら、外交問題の3分の2は解決できるだろう」(p.25)という。「私が旅を始めたのは好奇心があったからだけれど、やがて旅が政治的に重要であり、国民に旅をさせることは学校に行かせることや、環境保護や、国家財政と同じくらい重要かもしれないと信じるようになった」(p.2)という。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、ソロモンがどうしてこのような考えに至ったのか、彼の著書Far and Away : How Travel Can Change the Worldからたどってみたい。本書は主に詳細なリサーチと洞察に基づく世界各地の紀行文で成り立っているが、ここでは彼の旅を動機づけたことについて、序章と終章から紹介する。(なお、いつものことですが、このブログの筆者(荒木)が自分を指すときは「わたし」と書いています。「私」は主にソロモンの引用部分であり、ソロモンや発言者自身を指していると考えてください。)
ソロモンの旅の原点となったのは、幼少期の両親との会話だった。
ソロモンは幼い頃から、両親に連れられて世界各地を旅したし。旅好きだった母は、イギリス、フランス、スイスなどに彼を連れて行った。「母はいつでも、また戻ってくると思って旅をしなさいと言った。一度限りの旅だと思ったら、きっと何でも見ようとしてしまって、結局のところなにも見てないことになってしまうから。」(p.5) 大人になると彼は1人でも旅をするようになった。友達を訪ねてモロッコに行ったときは、紹介されたドライバーが来ないだけで不安になった。彼を恐れさせたのは、実在する恐怖ではなくてむしろ自分自身のあどけなさだったと彼は振り返る。ドライバーの叔父の住むマラケシュの古い住宅に招かれたこともあった。ラジオが一台あることが誇りであるような貧しい家で、毎日タジンでもてなしを受け、彼らの拙い英語に懸命に耳を傾けた。二年後にエクアドルを旅した時、道にタイヤが挟まって立ち往生した所を反政府勢力に襲われた。この時には、モロッコの空港で不安になっていたときとは全くの別人になっていたと振り返る。
イギリスの大学院に留学したソロモンは、その後イギリスの出版社に職を得て、六年後にイギリス国籍を取得した。「新しいパスポートを見て、『彼らには行き場がなかったのだ』と父が言ったことを思い出さずにはいられなかった。私には「行き場」ができたのだ、永久に。」(p.16)
旅とは窓であり、また鏡でもある。旅を通してわたしたちは他者を見るが、旅を通して自分自身の姿を見ることになる。「旅とは自分自身を広げる試みであるし、自分の限界を見極める試みでもある。旅は日常持っている関係から解放された、ありのままの自分へと純化してくれる。完全に知らない場所に来たときほど、自分自身が明確に見えることはない。」(p.20) 普段のわたしたちは、同級生とか同僚とか先輩とか部下とか親とかいう関係であったり、所属する組織や仕事、喋り方や着ているもので判断されることが多い。だけど旅先では、そういった関係よりもむしろ、国籍で判断されることになる。しかしそれはかならずしも快いことではない。
2011年の春、わたし(荒木)はキューバを訪れた。平均月収が20~30ドルの共産主義下のキューバでは、自営業が認められているのはドライバーや政府認証の民宿などの一部だけだ。彼らと、海外に出稼ぎに行った家族の送金がある人と、それらがない人の間での貧富の差は広がっていた。たくさんのキューバ人がわたしに話しかけて、一緒にサルサを踊ったり、ギターを弾いて音楽を歌ったり、クラブのようなところに連れて行ってくれて、とても楽しい時間を過ごしたのだけれど、いつもお金を払うのはわたしだったことに釈然としない思いをしていた。奢ってほしくて声を掛けているようには見えず、本当に仲の良い友達のように感じていたからだ(なかにはたかりのような人も何人かいたけれど)。あるとき友達と話していて分かったのは、この国ではつねに、そのときにお金を持っている人が払うのが暗黙のルールであり、それが彼らのにとっての「平等」なのだといった。だからキューバ人同士でジュースやモヒートを飲むときも、その時点で現金を持っている人が払う。奢って貰っても、お礼は言わない。彼らは若いときからそうしてきたから払って貰うのが当たり前だと思っていて、別に悪気があるわけではないし、君のことを本当に友達だと思っているよ、と教えてくれた。事実その後わたしがお金を使い果たしたときは、友達がモヒートを奢ってくれた。
この世界にはたくさんの平等がある。割り勘もそうだし、財力に応じて払うのも、そのときの所持金に応じて払うのも。だけど自分が持っている公平とか正しさは、それを共有する人だけの輪のなかにいても見えてこないし、時にはそれを無意識に、あまりに自明に思いすぎていて、その価値観で他人を判断してしまうことも、あるだろう。だからこそ旅人は謙虚にならなくてはいけない。自分が正しいとかこの国の人はおかしいとか、安易にそう考えてはいけないのだ。
ラダック(インドのチベット)のある村の祭りを訪れたときは、「汚い」という感覚を問い直された。村の人たちは、干した牛の糞(冬の間燃料として使うので、干して取っておくのだ)を座布団代わりにして座っていた。親切なおばさんが、わたしにも一枚の牛の糞を渡してくれたが、わたしは汚いと思って断ってしまった。遠慮していると思われたのか、さらに薦められることになったのだけど。カラカラに乾いて、日光に当たった牛の糞に細菌はもう棲んでいないだろうし、残ったのは草の繊維と土のような何かだ。地べたに座るのと、おそらく変わらない。そのときわたしが「汚い」と考えている枠組みと、彼らにとってのそれとの違いを意識した。
旅に出ると嫌でも、自分が日本人だと思わされる場面に度々遭遇する。出会った人に鈴木大拙や引きこもりやラブホテルや日本の女の子について聞かれるときだけではなく、たとえばチップの渡し方がスマートじゃないとき、うっかり左折時に左車線に入ってしまいそうになるとき、相部屋で下着姿で平気でうろつく女性にドキッとするとき。無意識に身に付けてしまった価値観や条件反射が、旅に出ると違和感として立ち現れる。
自分らしさを作っているものは、実は自分の外側にもたくさんある。普段から囲まれすぎて見えないようなものや環境たちが、自分をかたちづくっている。当たり前すぎて、気付かないことばかりだけど、当たり前がなくなったときにそのギャップが違和感として見えるようになってくる。だから違和感は大切だ。そこから、くりかえし「なぜ」と問うことで、自分や他人を深く理解できるようになるから。
逆説的だけれど、旅はわたしをより一層「日本人」にしてくれたと思う。自分が生まれそだった環境について自覚し、より深く知るようになった。日本人であることは、自分が手に入れたり成し遂げたことではないから、日本人であることに誇りに思いはしないけれど、日本を理解し、それを大切にしようとは思う。自分が生活する場所の、足下に広がっている物語を知り、身に付けようと思うようになった。旅をしなければ、たぶん茶道を学んだり着物を着たりはしなかっただろう。
世界中の人が行き来することによって世界は均質になるのではない、と思う。むしろ世界の多様性を守るために、わたしたちは国境をこえなければならないのだと思う。
少し話がそれてしまったが、ソロモンの本に戻ろう。旅と観光では全く違うと、ソロモンはいう。観光客 は集団で移動し、訪れた場所を自分の国と比較して安心している人たちだが、旅人 は見るだけではなく、その土地を経験するために見知らぬ土地に進んでいく。(8)
とはいえ、異文化の他者を理解することはたやすいことではない。異国に住むことは旅とは全く異なる経験であると、ソロモンはいう。英語圏であるイギリスに留学した時ですら、彼はその地を理解することは簡単ではなかったという。
人々が交流するときに、自分が彼らのまねをするか、彼らが自分たちの流儀を受け容れることを強いるか、の二つに一つではない。日本に来るなら日本のやり方に従うのか、自国と同じように振る舞うのか、のどちらかを選ばなければいけないわけではない。世界は多様だ。もしある文化が他の文化のやり方を受け容れる必要があるというなら、誰かが自分の流儀を捨てて、他の人の流儀を真似する社会になる。そして世界を我が物にしようとするのは往々にして、文明や近代を自認する西洋諸国の流儀である。そんなことをしたら、世界はいづれ均質になっていくだろう。そんな世界を、誰が望むのか。差異に基づく承認こそ、わたしたちが求めていることではないのか。
言うまでもないことだが、世界は、もともと多様である。多様性を尊重するという言葉があるし、ダイバーシティという言葉が流行りつつあるけれど、それはあまりに傲慢な言葉の使い方だと思う。あなたが尊重するとか受け容れるとかいう以前から世界は多様なのであり、それは地球が丸いことと同じように、その真実の前にわたしたちは無力なのだ。
だけど実際には、わたしたちは異なった人々を愛したり憎んだりする。「もし世界の国々が自分の国を愛したり憎んだりする理由を理解したくなかったら、旅になど出ないで家にいた方がいい」とソロモンはいう。
だからこそ、ソロモンは国境は開かれている方が安全だと断言する。そして多くの人が海外に出た方がいいし、多くの人を受け入れた方がいいと。彼がカダフィ政権下でのリビアで取材をしたとき、西欧諸国に留学経験のある人は皆アメリカとの融和を望んでいて、留学経験のない人は望んでいなかったという。「留学生を受け容れることが問題を解決すると言いたいわけではなく、訪れてもいない国を愛するのは難しいということだ。疑わしいとされる国々から来る人を拒むことは、この国にはアメコミよりももっと尊敬すべきものがあると彼らの国で話してくれる人々を拒むことであり、ゆくゆくはこの国にとって大きな損失となるのだ。」(p.38)
ソロモンは、イギリス人としてはBrexitに、アメリカ人としてトランプに反対の票を投じた(そしてどちらも負けた)。「どこにも行き場がないということは致命的であり、行き場があることは人間の尊厳の必要条件である。行き場を提供することは、両者を利する利口な寛容さである」といい、警鐘を鳴らす。アメリカやイギリスだけではない。ハンガリーでも、ポーランドでも、トルコでも、右翼政党が躍進して壁を作ったり、外国人や特定の宗教を排除したりする動きが、ここ数年で広まった。しかしそれらは結果としてムスリムやマイノリティへのヘイトクライムを増加させる結果となっただけだ。壁を作り他者を排除する同族主義に、彼は断固として反対する。
わたしは思う。むしろ、旅をしない人の方が世界を分かったつもりになって、勝手に批評したり思い込みで判断したりしがちだ。あの国は社会主義だからとか、儒教だからとか、イスラムだからとか、国民性がどうだとか。旅が教えてくれたのは、むしろ、世界の驚くほどの広さと多様性であり、どんなに旅をしたところで、訪れることのできない場所、見ることのできないもの、理解することのできないこと、話すことのできない人々のほうが、よっぽど多い。だからこそわたしたちは、異なった人々の前で謙虚にならなければいけない。そして思う。イタリアに行ってコロッセオやピサの斜塔を見てピザやパスタを食べたところで、イタリアの人々が分かるわけではないし、行った国の数が多い方が世界のことをよく分かっている訳ではない。むしろ分からないことの方が、分かったことの数の何倍も増えていくのがこの世界のようだ。この世界は敵とか味方とか右とか左とかの簡単な言葉で理解できるものではない。分かろうともしないくせに分かったつもりになって、人を貶めたり蔑んだりする人もいる。だから人は壁を作り、連合から離脱し、世界の市民であることを諦める。だけどソロモンは、「壁は排除される側と同じくらい、排除する側も傷つける」(p.498)という。壁の中で増長するのは安心ではなく、むしろ憎しみであり、また排除することは壁の外の人々が壁の内の人をもまた憎むからだ。
ソロモンがアフガンで取材をした時の、興味深いエピソードがある。
だけど思う。自由とは、周囲の視線とか、社会の決める○○らしさとか、規範やルールとか、そんな外側にあるものによって決定されるものではないのだと。もっと、自分の内なる思いを達成するときに手に入るものなのだと。ブルカを着ることや、壁を作ることくらいで手に入る自由など、手に入れるに値する自由ではないのだと。
そして、気付くことのなかった社会の呪縛を炙り出し、自分の叶えたい内なる思いを見つけるために、人は旅にでなければならないのだと。
けだし、旅とは生まれ変わることだ。今までの暮らしで与えられたり、獲得してきた属性や地位や役割や舞台衣装を脱ぎ捨てて、まったく新しい自分となれる場所に行き、その社会での文化や規範をひとつずつ身に付けて、成長していく。○○人を定義するものが国籍である限り、わたしたちはアメリカ人にもアフリカ人にもなることはできないかもしれない。だけど生まれ変わることによって、彼らに近づくことはできるはずだ。そして世界中の市民の小さな断片を少しずつ身に付けることで、わたしたちは世界の市民になることができるのではないか、と思う。
【参考文献】
Solomon, Andrew. (2016) Far and Away : How Travel Can Change the World. Vintage.
人生のある瞬間、それまで見えていた世界がモノクロだったのではないかと思わされるような経験も、いままで見えていなかった視界が急に開けて、新しい感情を与えられたかのような経験も、見たことのない美しい景色をも、幾度となく見せてくれたもの。苦しいと同時に喜びでもあり、別れの悲しみもあれば出会いの喜びも同時に持つ、人生の縮図。
わたしはそれを「するものじゃなくて、落ちるものだ」という。
旅が教えてくれたことは多く、旅がわたしの人生を豊かにしてくれた。それ以上に、死にたいくらい辛かったとき、旅がわたしを救ってくれた。旅がなければ今の自分はいないだろう。わたしにとって旅とは息苦しいこの社会から逃れて、呼吸のための空気穴を空けるものであり、自分のことをなにも知らない人と出会ってまっさらな自分から人間関係をはじめる、リセットの場所でもある。
たぶん、もっと崇高な理想を持って旅する人もたくさんいる。世界一周をしたり、貧しい人のため、世界をよりよくするために旅をする人たち。そういう人は輝いて見えるし、わたしは、ただ、旅をするだけで彼らと同じ範疇に入れられてしまうことは、なんだか日本人というだけで金持ちだと思われるのに似ている。旅なんてそんな立派なものじゃないよ、と思う。旅に出るのに理由も目的もいらないし、きっと人それぞれいろいろな旅の楽しみ方があると思う。何がいい旅なのかをわたしは決めることはできないし、たぶん、すべての旅がいい旅だ。
旅をすることが偉いことだとも思わないし、勇気や度胸のいることだとも思わない。ましてや、行った国の数が多い方が偉いなどとも思わない。何ヶ国くらい行ったんですか? と訊かれることもよくあるけれど、数えていないから分からないし、分かったとしても答えない。そんなことで自分を判断してほしくはない。
だけど慥かに思うのは、旅は人生を豊かにするということだ。絶望の淵にいるとき、そっと手を差し伸べてくれることも、地獄のような苦しみから別世界へと誘ってくれるような旅もあるし、そっと悲しみに寄り添ってくれる旅もある。しっとりとした哀しみにつつまれて、ひとつ大人になれる旅もある。自分の知らなかった人たち、考え方のまったく異なる人たちと時間を掛けて意見を交換しあい、彼らを理解することで、自分の見識や視野を広げてくれる旅がある。人の優しさに心打たれ、自らの行動を顧みる気付きの旅もある。なにもかも分からない状態に投げ込まれて、自分の無力を思い知らされる旅もある。もちろん、欺されて怒り狂ったり、理不尽に絡め取られて自暴自棄になる旅も、あるだろう。出たことに後悔するような旅だってなお、自分の常識とはかけ離れた状況に身を置き、理解しようとし、行動することで自分の殻を破って成長することは確かだと思う。
もっとたくさんの人が旅に出れば、国は豊かになり、この世界はもっと豊かになるだろう。映画『いろとりどりの親子』の原作者であるアンドルー ソロモンは、「もし全ての若者が外国に2週間住むことが義務づけられたとしたら、外交問題の3分の2は解決できるだろう」(p.25)という。「私が旅を始めたのは好奇心があったからだけれど、やがて旅が政治的に重要であり、国民に旅をさせることは学校に行かせることや、環境保護や、国家財政と同じくらい重要かもしれないと信じるようになった」(p.2)という。ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、ソロモンがどうしてこのような考えに至ったのか、彼の著書Far and Away : How Travel Can Change the Worldからたどってみたい。本書は主に詳細なリサーチと洞察に基づく世界各地の紀行文で成り立っているが、ここでは彼の旅を動機づけたことについて、序章と終章から紹介する。(なお、いつものことですが、このブログの筆者(荒木)が自分を指すときは「わたし」と書いています。「私」は主にソロモンの引用部分であり、ソロモンや発言者自身を指していると考えてください。)
ソロモンの旅の原点となったのは、幼少期の両親との会話だった。
私が7歳の頃だったと思う。父がホロコーストについて教えてくれた。私達は黄色のビュイックに乗ってニューヨーク州道9A号線を走っていて、私は父にpleasentvilleという町が本当に快適な 町なのかを尋ねていた。なぜそこから1、2マイル進んだ頃にナチスの話になったのかは思い出せないが、父は私がすでに「最終的解決」について知っている前提で話していたことは覚えている。強制収容所で何が起こったのかを、父は説明してくれなかったからだ。父は、ユダヤ人はみんな収容所に送られたのだと言った。私や父がユダヤ人であることは知っていたし、もし自分がその時代のその場所にいたら、我が身に起こっていたかもしれない、という思いが募ってきた。それでも私は父に、少なくとも4回は説明するようにせがんだ。父の話を理解するためには、何かが欠けていると思ったからだ。すると父は大げさに、「完全な悪そのものだった」と言って、この話を終わらせようとした。だが私には、まだ訊きたいことがあった。
「なぜそのユダヤ人たちは逃げなかったの?」
「彼らにはどこにも行き場がなかったんだよ」
そのとき、私はいつでもどこかに行き場があるようにしておこうと決めた。そして、頼る人がいなかったり、何かに依存したり、軽々しく誰かを信じたりはしないと。ものごとが今まで上手く行っていたからといって、これからも上手く行く保証はない。家にいれば安全だという観念は、粉々に砕けていった。ゲットーの壁から出られなくなる前に、電車が終着地についてしまう前に、国境が閉鎖される前に、逃れてしまおうと決めた。もしマンハッタンをジェノサイドの恐怖が襲ったら、パスポートを持って私を温かく迎え入れてくれる場所に行こうと決めた。父はユダヤ人以外に助けられたユダヤ人もいたと言った。だから私はいつも自分とは異なる友達を持ち、いざというときは私を連れ出したり、迎え入れたりしてもらおうと思った。この時父が話してくれたのは、恐ろしい出来事の話でありながら、愛について語ってもいたようにも思う。そして時が経つにつれて、愛情を広く持つことによって自分自身を救えるのだと分かるようになった。ユダヤ人たちは、自分たちの土地や集団にばかり目を向けていたから死んだのだ。わたしは覆轍を踏まないようにしようと思った。
数ヶ月後のある日、私は母と靴屋にいた。店員は私が扁平足だから将来腰痛になるだろうと言った(そして残念なことに、実際そうなってしまった)が、徴兵検査に通らないだろうとも言った。折しもベトナム戦争が大きな社会問題になっていて、学校を卒業したら戦争に行かなければならないのだろうかと気を揉んでいた時だった。砂場の取っ組み合いですら弱かった私は、ジャングルに銃を持って入っていかなければならないと思うとぞっとした。私の母は、ベトナム戦争は若者の命を無駄遣いしていると話した。一方で、第二次世界大戦は、若者たちが、扁平足かどうかにかかわらず、皆よく戦ったし、それだけの価値のあった戦争だと考えていた。私はただ、自分が死に直面する意味があると考えるような正しい戦争と、関与すべきでないと考える戦争と、その2つの評価を決めている基準を理解したかった。アメリカ本土で戦争は起きていなかったけれども、アメリカが世界のどこかに兵士を送り込んでいくかもしれない。それが正しくても間違っていても、扁平足でも健康な足でも。私は自分自身でその判断ができるように、世界のどこかにあるその場所を理解したかった。(p.1-2)
ソロモンは幼い頃から、両親に連れられて世界各地を旅したし。旅好きだった母は、イギリス、フランス、スイスなどに彼を連れて行った。「母はいつでも、また戻ってくると思って旅をしなさいと言った。一度限りの旅だと思ったら、きっと何でも見ようとしてしまって、結局のところなにも見てないことになってしまうから。」(p.5) 大人になると彼は1人でも旅をするようになった。友達を訪ねてモロッコに行ったときは、紹介されたドライバーが来ないだけで不安になった。彼を恐れさせたのは、実在する恐怖ではなくてむしろ自分自身のあどけなさだったと彼は振り返る。ドライバーの叔父の住むマラケシュの古い住宅に招かれたこともあった。ラジオが一台あることが誇りであるような貧しい家で、毎日タジンでもてなしを受け、彼らの拙い英語に懸命に耳を傾けた。二年後にエクアドルを旅した時、道にタイヤが挟まって立ち往生した所を反政府勢力に襲われた。この時には、モロッコの空港で不安になっていたときとは全くの別人になっていたと振り返る。
イギリスの大学院に留学したソロモンは、その後イギリスの出版社に職を得て、六年後にイギリス国籍を取得した。「新しいパスポートを見て、『彼らには行き場がなかったのだ』と父が言ったことを思い出さずにはいられなかった。私には「行き場」ができたのだ、永久に。」(p.16)
旅とは窓であり、また鏡でもある。旅を通してわたしたちは他者を見るが、旅を通して自分自身の姿を見ることになる。「旅とは自分自身を広げる試みであるし、自分の限界を見極める試みでもある。旅は日常持っている関係から解放された、ありのままの自分へと純化してくれる。完全に知らない場所に来たときほど、自分自身が明確に見えることはない。」(p.20) 普段のわたしたちは、同級生とか同僚とか先輩とか部下とか親とかいう関係であったり、所属する組織や仕事、喋り方や着ているもので判断されることが多い。だけど旅先では、そういった関係よりもむしろ、国籍で判断されることになる。しかしそれはかならずしも快いことではない。
同時に、ソビエトに行って学んだことは、そのような社会的な匿名性は私を不安にするということだ。この不安は他の文化で人を判断することの難しさと、彼らにとっての私自身の理解し難さに由来するものだろう。私が彼らを理解できないとき、おそらく彼らもまた私を理解できないのだ。新しい場所で知らないルールを覚えなければいけないとき、人は突然未熟な人間へと退化する。旅は人を謙虚にする。自国では権威のあることでも、外に出れば無意味だとか馬鹿げていると思われるかもしれない。基準の違う場所では、自分の意見の正確さに頼ることもできなくなるし、彼らにとってなぜそれが面白いのか、なぜそれが真剣なことなのかを理解できない場面に遭遇するだろう。そうして自分自身のユーモアや厳粛さや、道徳さえ問い直すことになるのだ。見慣れた景色の中ではいる場所と自分が誰かの境界は曖昧だから、自分が誰なのかを考えなくても済む。しかし知らない場所では、自分自身がはっきりと見えてくる。自分が本当は誰なのかというのは、家にいても外国にいても変わらないものだからだ。(p.20)わたしたちは普段生活している場所の外に出ることで、自分をより強く意識する。宇宙を想定しなければ、「地球人」というアイデンティティはありえないし、海外がなければ日本人もない。そして、自分とは異なる価値を持つ場所で暮らすことで、自分が知らず知らずのうちに身に付けていた意識や価値観を、見直すことになる。
2011年の春、わたし(荒木)はキューバを訪れた。平均月収が20~30ドルの共産主義下のキューバでは、自営業が認められているのはドライバーや政府認証の民宿などの一部だけだ。彼らと、海外に出稼ぎに行った家族の送金がある人と、それらがない人の間での貧富の差は広がっていた。たくさんのキューバ人がわたしに話しかけて、一緒にサルサを踊ったり、ギターを弾いて音楽を歌ったり、クラブのようなところに連れて行ってくれて、とても楽しい時間を過ごしたのだけれど、いつもお金を払うのはわたしだったことに釈然としない思いをしていた。奢ってほしくて声を掛けているようには見えず、本当に仲の良い友達のように感じていたからだ(なかにはたかりのような人も何人かいたけれど)。あるとき友達と話していて分かったのは、この国ではつねに、そのときにお金を持っている人が払うのが暗黙のルールであり、それが彼らのにとっての「平等」なのだといった。だからキューバ人同士でジュースやモヒートを飲むときも、その時点で現金を持っている人が払う。奢って貰っても、お礼は言わない。彼らは若いときからそうしてきたから払って貰うのが当たり前だと思っていて、別に悪気があるわけではないし、君のことを本当に友達だと思っているよ、と教えてくれた。事実その後わたしがお金を使い果たしたときは、友達がモヒートを奢ってくれた。
この世界にはたくさんの平等がある。割り勘もそうだし、財力に応じて払うのも、そのときの所持金に応じて払うのも。だけど自分が持っている公平とか正しさは、それを共有する人だけの輪のなかにいても見えてこないし、時にはそれを無意識に、あまりに自明に思いすぎていて、その価値観で他人を判断してしまうことも、あるだろう。だからこそ旅人は謙虚にならなくてはいけない。自分が正しいとかこの国の人はおかしいとか、安易にそう考えてはいけないのだ。
ラダック(インドのチベット)のある村の祭りを訪れたときは、「汚い」という感覚を問い直された。村の人たちは、干した牛の糞(冬の間燃料として使うので、干して取っておくのだ)を座布団代わりにして座っていた。親切なおばさんが、わたしにも一枚の牛の糞を渡してくれたが、わたしは汚いと思って断ってしまった。遠慮していると思われたのか、さらに薦められることになったのだけど。カラカラに乾いて、日光に当たった牛の糞に細菌はもう棲んでいないだろうし、残ったのは草の繊維と土のような何かだ。地べたに座るのと、おそらく変わらない。そのときわたしが「汚い」と考えている枠組みと、彼らにとってのそれとの違いを意識した。
旅に出ると嫌でも、自分が日本人だと思わされる場面に度々遭遇する。出会った人に鈴木大拙や引きこもりやラブホテルや日本の女の子について聞かれるときだけではなく、たとえばチップの渡し方がスマートじゃないとき、うっかり左折時に左車線に入ってしまいそうになるとき、相部屋で下着姿で平気でうろつく女性にドキッとするとき。無意識に身に付けてしまった価値観や条件反射が、旅に出ると違和感として立ち現れる。
自分らしさを作っているものは、実は自分の外側にもたくさんある。普段から囲まれすぎて見えないようなものや環境たちが、自分をかたちづくっている。当たり前すぎて、気付かないことばかりだけど、当たり前がなくなったときにそのギャップが違和感として見えるようになってくる。だから違和感は大切だ。そこから、くりかえし「なぜ」と問うことで、自分や他人を深く理解できるようになるから。
逆説的だけれど、旅はわたしをより一層「日本人」にしてくれたと思う。自分が生まれそだった環境について自覚し、より深く知るようになった。日本人であることは、自分が手に入れたり成し遂げたことではないから、日本人であることに誇りに思いはしないけれど、日本を理解し、それを大切にしようとは思う。自分が生活する場所の、足下に広がっている物語を知り、身に付けようと思うようになった。旅をしなければ、たぶん茶道を学んだり着物を着たりはしなかっただろう。
世界中の人が行き来することによって世界は均質になるのではない、と思う。むしろ世界の多様性を守るために、わたしたちは国境をこえなければならないのだと思う。
少し話がそれてしまったが、ソロモンの本に戻ろう。旅と観光では全く違うと、ソロモンはいう。
旅人が長い時間を掛けて求めているのは、現地の人や文化を批評するように眺めたり、行きたい場所を訪れて観光地を見るだけでは、自分の視野は広がらない。見たいものを見るだけでは、おそらく何も見ていないのと同じだ。「区分わけすることでは世界を理解できないと知るまでには、随分と時間が掛かった。最近では、海外からの友達がよく私の家に滞在する。それは絶え間ない文化交流のプロジェクトなのだ。」(p.22)本物の経験 だ。それを探すことはできても、計画して手に入るものではない。私が28歳の頃、友達のタルコット キャンプとボツワナの大きな道を走っていた。時折、牛の群れが横切って行く手を阻まれることがあった。あるとき、はるか遠く離れた場所に動物の群れがあるのを見つけた。牛の群れに見えたが、確証はなかった。そこに近づくと、私達がそれが象の群れであることに気付いたのだ。私達はすでに象の「自然生息地」とされる保護区域で何度も象を見ていた。しかしお金を払って観光客が象を観察するような定められた空間では、出会いの楽しみは奪われてしまう。決められた境界の外で偶然野生の生き物に出会うことは、比べようもなく私達を釘付けにした。象は1時間ほど掛けて道を渡ったから、わたしたちは車を止めた。1時間ほどそこに座っていると、日が沈み、ピンクの明かりの影に象やカバの影が見えた。その後もたくさんの国で象を見たけれど、あれほど解放されたような気持ちを経験したことは2度となかった。
とはいえ、異文化の他者を理解することはたやすいことではない。異国に住むことは旅とは全く異なる経験であると、ソロモンはいう。英語圏であるイギリスに留学した時ですら、彼はその地を理解することは簡単ではなかったという。
イギリスでは学問が(アメリカで思われているような)希望に裏付けられた必要なものではなく、むしろ贅沢な楽しみだということを理解するのには時間が掛かった。イギリスのように階級で分断された社会で、実力で成功者へと上り詰めていくことが他人の目に快く思われないということも理解していなかった。なぜ食べ物がこんなに長く煮て提供されるのかも分かっていなかった。何世紀も同じ土地に住み、土地を耕すことで家族の絆が深まるということも想像できなかった。思ったことを率直に話さない上品なユーモアも、この国全体が、なにか永遠に続くような安心感に支えられていることも、分かってはいなかった。私の好きな作家が英語で書いているのに読まれていないことにも、彼らの好きな詩人を私が聞いたこともなかったことにも驚いた。私達アメリカ人とイギリス人は、私が想像したよりも共通点の少ない共通の言語によって分断されていたのだ。(p.9-10)こうしたことは、時間を掛けて現地の人々と対話を重ねることで、ようやくわかってくるものだ。安易に言葉に頼ってわかったつもりになることが、実は理解をさまたげていることもある。そのことを示すのがソ連での経験だ。出版社で働くようになってから、サザビーズが初めてソ連のアーティストのオークションを開催することになった。作品を見たら、ありふれた作品を金持ちに高い値段で売りつけようとしているように見えたという。暴露記事を書いてはどうかと思い立った。そしてモスクワに飛んだ。
私がモスクワに着いて三日目、ファーマニー通りにあるスタジオでアーティストにインタビューする予定だったが、通訳が急に来られなくなった。無礼なことをしたくなかったから、私だけでスタジオに行った。しばらくの間そこにいてもいいと彼らは身振りで示した。最初の内は、コミュニケーションはあまりなかった。私はロシア語を話さないし、彼らもまた英語を理解しなかった。数時間後、フランス語を話す人が来た。私も少しだけ話すことができたから、すこし前進した。また数時間してから英語を話す人が来たけれど、それを知らず、言葉でコミュニケーションをしなかったが、それがむしろ幸運だった。私は彼らの行動を観察していた。彼らがお互いに自分の作品を見せ合っているうちに、私は今まで気付かなかったことに気付くようになったのだ。ソ連のアーティストたちは、KGBに目を付けられないように見た目は普通の作品を作っていたが、隠れた意味を鏤めていたのだ。その意味を理解する鍵は彼らの個人的な関係にあって、決して多くの人に見せるつもりではなかったらしい。作品は内輪ネタに溢れていた。そして大切なことは、彼らは、真実そのものが掘り崩されてしまいそうな体制の中で、芸術家は高潔を守っていると信じていることだった。あの朝通訳が来ていれば、私はそれを全く理解できなかっただろう。(p.11-2)その場所を知ることは、人を知ることに似て、深く心理を理解しようとする試みである。ジャーナリストとして彼は、できるだけ観察者であろうとし、彼らに関わらないように努めようと思っていた。しかし現場に出てみると、それは甘い見通しだったと気付く。旅には助けられることも、助けることも必須の条件なのだと。「私は旅に出るにつれて、関わりと助け合いについて考えるようになっていった。どのような新しい出会いも、今まで保たれていたバランス壊すことで生まれる。[...]周囲の人のように振る舞っているだけでは、彼らに溶け込むことはできない。自分のやり方が彼らにも好ましいと思い込むのをやめて、自分と彼らの違いを積極的に話さなければならないのだ。」(p.17-8)
人々が交流するときに、自分が彼らのまねをするか、彼らが自分たちの流儀を受け容れることを強いるか、の二つに一つではない。日本に来るなら日本のやり方に従うのか、自国と同じように振る舞うのか、のどちらかを選ばなければいけないわけではない。世界は多様だ。もしある文化が他の文化のやり方を受け容れる必要があるというなら、誰かが自分の流儀を捨てて、他の人の流儀を真似する社会になる。そして世界を我が物にしようとするのは往々にして、文明や近代を自認する西洋諸国の流儀である。そんなことをしたら、世界はいづれ均質になっていくだろう。そんな世界を、誰が望むのか。差異に基づく承認こそ、わたしたちが求めていることではないのか。
言うまでもないことだが、世界は、もともと多様である。多様性を尊重するという言葉があるし、ダイバーシティという言葉が流行りつつあるけれど、それはあまりに傲慢な言葉の使い方だと思う。あなたが尊重するとか受け容れるとかいう以前から世界は多様なのであり、それは地球が丸いことと同じように、その真実の前にわたしたちは無力なのだ。
だけど実際には、わたしたちは異なった人々を愛したり憎んだりする。「もし世界の国々が自分の国を愛したり憎んだりする理由を理解したくなかったら、旅になど出ないで家にいた方がいい」とソロモンはいう。
海外にいるときも私はアメリカの愛国者でいるが、同時にアメリカが尊厳や共感や知性の面で上手くいっていないことも見えてくる。難民キャンプや移民局を訪れなければ、アメリカに対する移民政策の非難を理解することはできないだろう。厳しい銃規制がある他の国で過ごさなければNRA(全米ライフル協会)の奇妙な暴挙を理解することもできないだろう。経済格差を是正するために努める国を知らなければ、アメリカが経済の流動性に失策を犯してきたかを理解できないだろう。旅とは、ぼやけた世界の現実を見るためのレンズなのだ。E.M.フォースターが『インドへの道』を書くのにどれだけ掛かったかと聞かれたとき、彼は時間ではなくて場所の問題だと言った。「そこから出たときに、書けるようになったんだ」(p.24)日本でも同じことで、日本にいればアメリカで起こっている銃の乱射や経済政策や移民政策がおかしく見えるけれど、同じくらい日本の安全保障やジェンダーや福祉政策も、外から見てみればおかしいだろう。日本のジェンダーに関する問題、たとえばJKビジネスなど未成年が性的に消費されていることとか、職場での服装や靴が理不尽に決められていることなどは、日本の社会に忠実に生きているだけでは、そのおかしさに気付くことはできないし、「西洋の価値観に基づいた干渉」に見えることすらある。だけど西洋の価値観も日本の文化も固定的なものではない。つねに交流や対話や、時に抗議を経てつねにアップデートされ、よりよい社会へと変化していくものだ。そのためにこの社会を冷静な視点で見つめる人が必要であり、そのために旅に出て外側の価値観に触れることや、外からやってくる人たちの視線が必要なのだ。
だからこそ、ソロモンは国境は開かれている方が安全だと断言する。そして多くの人が海外に出た方がいいし、多くの人を受け入れた方がいいと。彼がカダフィ政権下でのリビアで取材をしたとき、西欧諸国に留学経験のある人は皆アメリカとの融和を望んでいて、留学経験のない人は望んでいなかったという。「留学生を受け容れることが問題を解決すると言いたいわけではなく、訪れてもいない国を愛するのは難しいということだ。疑わしいとされる国々から来る人を拒むことは、この国にはアメコミよりももっと尊敬すべきものがあると彼らの国で話してくれる人々を拒むことであり、ゆくゆくはこの国にとって大きな損失となるのだ。」(p.38)
ソロモンは、イギリス人としてはBrexitに、アメリカ人としてトランプに反対の票を投じた(そしてどちらも負けた)。「どこにも行き場がないということは致命的であり、行き場があることは人間の尊厳の必要条件である。行き場を提供することは、両者を利する利口な寛容さである」といい、警鐘を鳴らす。アメリカやイギリスだけではない。ハンガリーでも、ポーランドでも、トルコでも、右翼政党が躍進して壁を作ったり、外国人や特定の宗教を排除したりする動きが、ここ数年で広まった。しかしそれらは結果としてムスリムやマイノリティへのヘイトクライムを増加させる結果となっただけだ。壁を作り他者を排除する同族主義に、彼は断固として反対する。
2016年 6月、イギリスは僅差でEU離脱を決めた。Brexitは世界に広がる国家間の協調と政治的統一に対する反感に裏付けられていた。そしてそれは同族意識、つまりは自分たちの類似性に頼っていた。離脱票を投じた人は、同じ国籍を持つ人は自分たちと似ていて、そうでない人は異なっていると信じているようだった。この排外主義者の国家主権にたいする見方は、実際にはほとんど存在しない共通認識に基づいていたし、 本当の共感が生まれるかわりに不満だけを広げるようなものであった。その考えというのは、反対票を投じた中高年の労働者階級のイングランド人は、同じく中高年で労働者階級のスペイン人よりも、ロンドンの銀行家で貴族院議員の方が共通点があると考えるもので、古典的で封建的な、国家意識とアイデンティティである。
2016年10月の保守党大会で、反対陣営にいながらも離脱の流れに乗ったメイ首相は「もしあなたが世界の市民だと考えるなら、あなたはどこの市民ではないということだ。市民であることの意味が分かっていない」といった。もしこの二つの間で市民権を選ばなければいけないのだとすれば、Brexitで明らかになった対立に解決策はないだろう。しかし市民権は2つに1つではない。もしイギリス人かヨーロッパ人を選ばなければいけないのなら、イギリスが勝つだろう。特にヨーロッパが国家に背くことだと思い込まされている状況においては。しかし、国を愛することは国家主義とは違って、国を愛しながらも排外主義者にはならないでいることもできる。もしアイデンティティ政治がひとつだけ教えてくれることがあるのなら、インターセクショナリティ(交差性)という言葉の意味だろう。黒人でクィアであることも、白人でフィミニストであることも、アジア系でスコットランド民族主義者であることも、ゲイでネトウヨであることも、アメリカ人でイギリス人で世界市民であることもできる。複数のアイデンティティを持つことは知性の証であり、それがないことは卑賤のしるしである。(p.497)
この本は国境についての本である。私達の違いの美しさと、違いにもかかわらず持っている共通点についてであり、人間の経験の多様性と愛おしさについてである。メイのBrexitについての見解やトランプの国境の考え方は、その違いが美しいのではなく私達を脅かしていると考えおり、我々が共有する人間性を否認するものである。この本で書いてきたこととは正反対の見方を示している。このような状況下では、マイノリティの利益は暴力的に、あるいは無関心に蔑ろにされる。そしてもう一つの危機は分断であり、マイノリティは異なった人々であると認識されることだ。(pp.511-12)彼は偉大な地理学者であるアレクサンダー フォン フンボルトの「世界を見たことのない人の世界観ほど危険なものはない」という言葉を引いて、「最近の政治的な動きは世界を見ることを軽視する人や、旅をせずに世界を見る人の手によって作られている」(p.493-4)と批判する。
わたしは思う。むしろ、旅をしない人の方が世界を分かったつもりになって、勝手に批評したり思い込みで判断したりしがちだ。あの国は社会主義だからとか、儒教だからとか、イスラムだからとか、国民性がどうだとか。旅が教えてくれたのは、むしろ、世界の驚くほどの広さと多様性であり、どんなに旅をしたところで、訪れることのできない場所、見ることのできないもの、理解することのできないこと、話すことのできない人々のほうが、よっぽど多い。だからこそわたしたちは、異なった人々の前で謙虚にならなければいけない。そして思う。イタリアに行ってコロッセオやピサの斜塔を見てピザやパスタを食べたところで、イタリアの人々が分かるわけではないし、行った国の数が多い方が世界のことをよく分かっている訳ではない。むしろ分からないことの方が、分かったことの数の何倍も増えていくのがこの世界のようだ。この世界は敵とか味方とか右とか左とかの簡単な言葉で理解できるものではない。分かろうともしないくせに分かったつもりになって、人を貶めたり蔑んだりする人もいる。だから人は壁を作り、連合から離脱し、世界の市民であることを諦める。だけどソロモンは、「壁は排除される側と同じくらい、排除する側も傷つける」(p.498)という。壁の中で増長するのは安心ではなく、むしろ憎しみであり、また排除することは壁の外の人々が壁の内の人をもまた憎むからだ。
ソロモンがアフガンで取材をした時の、興味深いエピソードがある。
2002年2月にアフガニスタンに行ったときに、友達のマーラ ルジッカが3人の高等教育を受けたリベラルな考えの女性を紹介してくれてインタビューを行った。3人は、ブルカを着てやってきて、すぐにそれを脱いだ。私はなぜ彼女たちがブルカを着ているのか疑問に思った。タリバーン政権が崩壊して、法的にはもう着なくてもいいはずだったからだ。1人目は「いつも、時代が変わったらこんなものを着ないだろうと思っていた。だけど今はこの変化がいつまで続くか分からない。もしブルカを着ないで出歩いたら、タリバンが再び支配した時に石を投げられて死ぬだろう」と言った。2人目は、「私は着たくないけれど、社会の価値観がまだ変わっていないから、もし着ずに出歩いてレイプされたら自分のせいだと責められる」と言った。3人目は、「私はこの服が嫌いでタリバーン政権が崩れたらすぐにでも脱ごうと思っていた。だけど時が経つと、ブルカを着て誰からも見られないことに慣れてしまった。ブルカが人を決めてしまうの。もう一度人の目にさらされることが、とても恐ろしいことに思えるようになった」と言った。(p.27)壁の中の安心感は、ブルカの中の自由と同じだ。ブルカを被って人から判断されないことで、彼女は安心を感じた。だけどそれと同じだけ彼女には失った自由がある。ブルカだけではない。女らしく、上品であるためにヒールの高い靴を履いたり脱毛したりする女たちや、男らしくあるために身体を鍛えたり仕事に精を出す男たちは、何かを得ているのと同じくらい、失った自由がある。敵だと思う人から身を守るために人は壁を作り、規範を逸脱することの恐怖から身を守り地位を手に入れるために、人は自由を差し出す。そして自由になったつもりになる。
だけど思う。自由とは、周囲の視線とか、社会の決める○○らしさとか、規範やルールとか、そんな外側にあるものによって決定されるものではないのだと。もっと、自分の内なる思いを達成するときに手に入るものなのだと。ブルカを着ることや、壁を作ることくらいで手に入る自由など、手に入れるに値する自由ではないのだと。
そして、気付くことのなかった社会の呪縛を炙り出し、自分の叶えたい内なる思いを見つけるために、人は旅にでなければならないのだと。
けだし、旅とは生まれ変わることだ。今までの暮らしで与えられたり、獲得してきた属性や地位や役割や舞台衣装を脱ぎ捨てて、まったく新しい自分となれる場所に行き、その社会での文化や規範をひとつずつ身に付けて、成長していく。○○人を定義するものが国籍である限り、わたしたちはアメリカ人にもアフリカ人にもなることはできないかもしれない。だけど生まれ変わることによって、彼らに近づくことはできるはずだ。そして世界中の市民の小さな断片を少しずつ身に付けることで、わたしたちは世界の市民になることができるのではないか、と思う。
【参考文献】
Solomon, Andrew. (2016) Far and Away : How Travel Can Change the World. Vintage.
コメント
コメントを投稿