酒呑童子が命と引き換えに得たもの




【はじめに】この記事は2019年2月10日に書いたものですが、2024年に発表した紀要論文(後述)の公開にあわせて加筆しました。


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その日の下北半島は心地よいほどの晴天だった。ようやく始まった青森の遅い夏が、今こそ本領発揮と言わんばかりの日差しで奥深い山の木々をを照らしていた。わたしは前日から山中にぽつんと位置する薬研温泉のちいさな民宿に泊まっていた。早朝に目覚め、無色透明の温泉に浸かった後は、かつて音楽に熱中したという主人の話を聞きながらの朝食を終え、レンタカーを走らせてつづら折りの山道を下った。恐らくこの数日が一年で最も混雑するであろう県道4号線、とはいえたかがしれた混雑ではあるのだし、わたしは多くの人が訪れるのとは逆方向から訪れたため、他の車の姿は全く見えなかった。目的地に近づくと、開け放した窓の外から硫黄の鋭い匂いがした。川の色は、明らかに水以外の何かが混ざったような、濁った黄色をしていた。

30分ほどして着いた広い駐車場には、少しずつ車が集まりはじめていたが、まだ山門に近いエリアに止めることができた。紫の装束に輪袈裟を掛けた信徒たちが、少し離れた場所に集まっていた。その独特の風采が、そこが信仰の中心たる霊場であることを強く匂わせていた。わたしは山門近くの売店で仏花と風車を買い、入山料500円を払って境内に入った。

2016年の7月22日だった。2日前から恐山菩提寺では大祭が始まっていた。この日は僧侶と念仏講や婆婆講の信徒らによる上山式があり、祭は佳境に入ろうとしていた。

わたしは大学の四回生で、恐山を訪れたのは東北地方における死者供養の民俗をテーマにした卒業論文の現地調査のためだった。1ヶ月に及んだ調査の締めくくりに選んだのが、東北随一の霊場である恐山の、1年で最も重要な祭礼の日であった。有名なイタコの口寄せのほか、亡き家族や先祖たちを供養するためにこの地に集う人びとと、ともに歩き、祈り、感じ、その姿を書き留めておきたかった。

この日までの一ヶ月、わたしは各地で、身近な人を亡くした方々や、その悲しみに寄り添い、弔いの手助けをする人たちの話を聞き、命の絶えたのちの人の心のゆくえを考え続けていた。我々と共に生きている死者たちの、目には見えない姿のありかたに思いを馳せていた。死者のゆくえが、人々の心や頭のなかにしかないという事実のさきにある真理にたどり着きたかった。ときに彼ら寄り添い、あるいは突き放しながら。それがあまりに遠く、尊くて手には取れないものだとしても、少しでもそこに近づきたかった。

祈りに訪れる彼らも、その外側にいるわたしたちも同じだった。あの世があるのかは分からない。ただ、今はいない、何もしてあげられない人たちに、なにかをしてあげたい、幸せでいてほしい、感謝と愛情を示したい、彼らが行く場所があるとしたら、生きているうちに好きだったものを食べ、できなかったことをして、豊かに暮らしていてほしい、その思いを込めて供養をするだけだった。そして、生き残ったひとたちが、生きているうちに彼らにしてあげられなかったことや、言いたかったけど言えなかったこと、今だからこそ伝えられることを、その地に来て、精一杯伝え、行おうとしていた。亡き人たちに会えないいま、せめてできることをしたい。それをできる場所が、この恐山なのだった。

わたしが恐山を訪れたもうひとつの理由が、亡き兄の供養だった。わたしは長男の顔を遺影でしか知らない。生まれて数ヶ月のある朝両親は、目覚めたときすでに息の止まっていた兄を見たという。今まではあまり意識したこともなかった。父と母が毎朝毎晩仏壇に手を合わせるのも、田舎から持ってきたただの古い習慣なのだと思っていた。しかし死を思う1ヶ月の旅のあとで、兄の存在の大きさが、わたしには受けとめられないくらい大きく、重たく、感じられるようになった。その思いをなんとかしたくて、兄の供養のために、恐山を訪れたのだった。ほとんどなにもできないとしても。

仏花と風車は、湖のほとりの賽の河原に供えた。わたしは兄の生きられなかった人生を想った。そして、はじめての子供を失ったのちの両親の30年間を想った。ふたたび子を失うのではないかという不安のなかでわたしたち兄弟を育てた苦労を想った。その時間と重みを考えることもなく、ただのうのうと、自分勝手に生きたそれまでの25年間を悔いた。なにを、ともいえないすべてのなにかを、深く反省し、祈っていくうちに、視界がどんどん滲んでいった。




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知識を身に付けたり、別の仕方で考えてみたり、立場を変えてみたりしてみれば、全く違う景色が見えてくることがある。理解できなかったことが、晴れた霧の向こうに広がる町並みのように、ふと諒解されることがある。嫌な奴にしか思えなかったあいつも、いとおしい友達になれるときがある。何気なく見ていたできごとも、重い意味をもって受けとめざるを得なくなることだってある。辛かったできごとも、感謝の気持ちをもって受けとめられる日が来る。

「私たちが何かを学び続ける理由は、そこにもあるのかもしれない。」と、安田菜津紀さんは言う[1]。ひとつの視点に立ち止まり続けず、いろいろな角度から見てみることで、わたしたちはもっと寛容になれるし、豊かな心を持つことができるのかもしれない。

恐山もイタコも、山奥の変わった風習としか思っていなかった。しかしそこに訪れる人々は、どう見てもわたしと同じように感情を持ち、理性的に考える人たちであった。ただすこしの共感と理解のちからさえあれば、そのようなことは容易に理解できたのに、いままで奇習としか思っていなかったのは、ひとえに理解しようとする態度の欠如ゆえだったに違いない。




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あれから2年半経った先日、かねてより約束していたKとともに、根津美術館の企画展「酒呑童子絵巻 鬼退治のものがたり」を見に行った。源頼光と四天王による酒呑童子退治は日本美術によく描かれる画題の一つで、菱川師宣の「大江山酒呑童子図」をはじめ浮世絵や絵巻物に数多く描かれているし、明治6年にウィーン万博に出品され、その鋳金と彫金の技術が驚嘆を以て世界に迎えられた「頼光大江山入図大花瓶」などにも描かれている(解説は東京国立博物館のブログに詳しい。ちなみに本作品は通年展示されており、末尾で触れられている名刀「童子切安綱」は今年(2024年)も5月26日まで本館13室で展示されている)。


菱川師宣「大江山酒呑童子図」東京国立博物館蔵(出典:Colbase


横山孝茂・横山孝純作「頼光大江山入図大花瓶」
 明治5年(1872)  ウィーン万国博覧会事務局、東京国立博物館蔵(出典:Colbase


頼光四天王の酒呑童子退治のあらすじはざっとこんな感じだ。


大江山(あるいは伊吹山)に住む大鬼の「酒呑童子」は都に手下の鬼を送っては女房を攫い、人肉を食らうなどの悪事を働いていた。空海や最澄のような名僧の亡き後、彼を調伏できる僧侶もいなかった。腕に覚えのある強者である源頼光と、彼の家臣である四天王(渡辺綱、坂田金時(幼名の金太郎が有名)、卜部季武、碓井貞光)と、藤原保昌に酒呑童子討伐の勅命が下された。彼らは住吉、熊野、八幡の三神に祈ると、隊を組むよりも少数が良かろうという八幡神の霊言を得、一行は山伏に化け、笈(山伏が仏具などを入れて背負う)に鎧を入れて出発した。山中で三人の翁に出会い、彼らが三神の化身であることを見抜いた一行は、毒に化ける酒と、霊力を宿す兜を授かり、酒呑童子の住む屋敷へ向かった。途中の川で血のついた衣を洗う、酒呑童子に攫われた女房に出会い、酒呑童子の悪行や女房たちの惨状、童子の屋敷や弱点を聞き、屋敷にたどり着く。四季の草花の咲く庭のある綺麗な座敷で、童子は一行から都の話を聞き出し、舞を披露した。童子は、その後彼らを食うつもりだったのだ。一行が酒を持っていることを知った童子は宴を開き、毒酒で鬼と童子を眠らせた一行は深夜、童子の眠る岩屋へと向かう。神の力が眠る童子を縛り付け、岩屋の戸を開け、一行は童子の首を討った。飛んだ首は頼光に食らいついたが、神から授かった兜で事なきを得た。女房たちを救った一行は都へ戻り、人々に喝采を浴びて迎えられ、帝から褒賞を得た。めでたしめでたし(思いのほか長くなりまして、すみません)。

要するに悪事を働く鬼を退治する、典型的な勧善懲悪の物語なのである。しかし、今回の根津美術館の展示では江戸時代後期に住吉弘尚が描いた8巻ものの絵巻物が全巻展示されるというので楽しみにしていた。8巻本には通常の(上記の)酒呑童子退治の前に、酒呑童子の生い立ちを描いた『伊吹童子』が加えられたもので、登場人物ひとりひとりの装束や屋敷や祭具など細部まで華やかに描かれており、大変美しく貴重な逸品である。日本の霊魂譚が好きなわたしは、酒呑童子退治よりも前半のほうが面白く、夢中になって見入ってしまった。酒呑童子の生い立ちというのは、以下のようなものだ。


村で美しい稲田姫に出会った須佐之男命は、まもなく八岐大蛇がやってきて娘を食べてしまう事を知る。須佐之男命は稲田姫との結婚を条件に大蛇退治を姫の両親に申し出、酒で大蛇を呼び寄せて眠らせ、大蛇を斬り殺した。退治の後、大蛇は伊吹明神として伊吹山に祀られた。
時代は下りあるとき、近江の郡司は40歳で大変美しい娘を授かり、玉姫と名付けた。将来は帝の妃や摂政の妻にしようと企てていたが、ある夜、直衣姿の男が娘の元に通っている事を知る。問いただせば夜な夜な身元の分からない男が通っているといい、身重になっていると明かした。その頃に郡司は病に倒れ瀕死となった。占うと伊吹明神が憑依し、玉姫を我が妻とすることと、子を郡司に育てることを求めた。郡司は従い、姫を輿入れし、子の父となると病は癒えた。
しかしその子(童子)は3歳から大酒飲みになり、行く末を案じた郡司は比叡山の最澄の元に修行に出し、断酒を命じた。しかしあるとき宮中の祝いのために童子らは鬼の仮面を拵えて鬼踊りをすると激賞され、褒美に酒を与えられた。このとき童子は大酒を飲んで乱暴を働いてしまい、最澄から下山を命じられ、仲間からも見捨てられた童子はなんとか郡司の元にたどり着いた。童子の身元を明かした郡司は父の明神の所に行くように進めると、童子は父がかつて酒で苦労した事を知り、断酒を命じられる。しかし時間が経つと童子は酒を飲み、女や子供を食ってしまうようになった。ここで最澄は童子の調伏のために七日間の修法を行い、満願の日に山王権現が童子を山から追い出した。諸神が童子を滅ぼそうとするが童子は這々の体で各地を逃げ回り、千丈ヶ嶽(大江山)に静かに住み着くこととなった。その百年後、再び都で女たちを攫うようになった。(また長くなって、すみません)ここで、上に書いた酒呑童子退治の話につながる。

頼光の酒呑童子退治では単に鬼をやっつけるだけの物語だったのだが、童子の生い立ちが加わると、それは神と人の重層的な関わり合いのスペクタクルになる。神が人の住む村に訪れては、晴れつ曇りつときに荒れる天気のように災いをもたらしては、人間の強さでそれを克服するという、力への賛歌。あるいは、美しき娘を求め、須佐之男命に酒が元凶となり殺された八岐大蛇の悲劇が、末代にまたくり返される輪廻のような神話。わたしは、映画に夢中になるように、この絵巻に見入ってしまった。Kとわたしは、思い思いのペースで追いついたり離れたりしながら、絵巻を見ていた。絵巻の終盤、一行が童子の首を刎ねる場面を見つめているKに、わたしは追いついた。



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「酒呑童子がかわいそう」

静かな展示室に、ぽつりと漏らしたKの声が響いた。

頼光の酒呑童子退治の話だけ取り上げれば、悪を征伐するだけの話である。しかし前日譚から読み込むと、童子には童子の人生があることが分かる。好きだった酒に溺れ、それがもとで寺を追い出され、育ての親からも捨てられ、神々に追われ、山の奥でひっそりと暮らすことになった苦難の人生が明らかになる。好きな酒と人肉と女を諦めきれず、都に出てきたのが災いして、頼光らに討たれることになってしまったのだ。

「でも、酒呑童子は幸せだったのかもしれないですね。好きなお酒を飲んで……」

数少ないとはいえ、晩年の酒呑童子には鬼という仲間たちがいて、美しい女房たちに囲まれ、好きな人肉を食べて暮らしていた。童子の屋敷は美しく、四季の花々が咲く庭があった。そして最期のときには、宴を開いて舞を楽しみ、好きな酒を飲んで心地よく眠っていた。それを、山伏を装った客人に、いわば不意討ちを被るかたちで斬られた。無念だったとはいえ、寝ているところを斬られたのだから、苦痛も少なかったに違いない。


山崎博司・小畑茜「めでたし、めでたし?」
2013年度新聞広告クリエーティブコンテスト

「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」という衝撃的なコピーで2013年度新聞広告クリエーティブコンテスト最優秀賞を受賞した広告を、記憶されている方も多いと思うし、福澤諭吉が「日々の教え」のなかで桃太郎を批判したのも有名な話だ。鬼の大切にしまっていた財宝を奪う桃太郎は、盗人であり、欲に動かされた悪人だと福澤は断罪した。

芥川龍之介は大正13年に「桃太郎」という短編を発表している。物語は昔話の桃太郎を土台にしているが、芥川の書く主人公の桃太郎はいたく横柄で自信家である。「桃から生れた桃太郎は鬼が島の征伐を思い立った。思い立った訣はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。」という、ひどく身勝手な理由から鬼退治を思い立つ。供となる猿や雉が黍団子を強請ると「一つはやられぬ。半分だ。」を繰り返すという吝嗇ぶり。「桃太郎は何といっても「半分やろう」を撤回しない。こうなればあらゆる商売のように、所詮持たぬものは持ったものの意志に服従するばかりである」という芥川の皮肉が効いている。鬼ヶ島は絶海の孤島だが、「椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を享けた鬼は勿論平和を愛していた」土地であり、「鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた」という。

桃太郎の襲撃を受けた鬼たちは狼狽し、逃げ惑い、ついに降伏する。しかし襲撃されることに何の心当たりもない鬼は、「わたくしどもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じて居ります。しかし実はわたくしを始め、鬼が島の鬼はあなた様にどういう無礼を致したのやら、とんと合点が参りませぬ。ついてはその無礼の次第をお明かし下さる訣には参りますまいか?」と問う。これに対して桃太郎は、
「日本一の桃太郎は犬猿雉の三匹の忠義者を召し抱かかえた故、鬼が島へ征伐に来たのだ。」
「ではそのお三かたをお召し抱えなすったのはどういう訣でございますか?」
「それはもとより鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。――どうだ? これでもまだわからないといえば、貴様たちも皆殺してしまうぞ。」
という傍若無人ぶり。

こうして桃太郎は凱旋した訳だが、その後度々仕返しにやってくる鬼たちに辟易したといい、鬼たちは恋することも忘れて人間の襲来に備えて爆弾を用意するようになった。桃太郎の征服欲、身勝手から始まった憎み合いの発端である。これが書かれた大正13年と言えば関東大震災で朝鮮人虐殺があった翌年であり、芥川が自警団の活動についてきわめて批判的な視点を持っていたことは思い出しておこう。

そんな芥川は、「大江山の酒顛童子や羅生門の茨木童子は稀代の悪人のように思われている。しかし茨木童子などは我々の銀座を愛するように朱雀大路を愛する余り、時々そっと羅生門へ姿を露したのではないであろうか? 酒顛童子も大江山の岩屋に酒ばかり飲んでいたのは確かである。その女人を奪って行ったというのは――真偽はしばらく問わないにもしろ、女人自身のいう所に過ぎない。女人自身のいう所をことごとく真実と認めるのは、――わたしはこの二十年来、こういう疑問を抱いている。あの頼光や四天王はいずれも多少気違いじみた女性崇拝家ではなかったであろうか?」などと皮肉たっぷりに頼光四天王を扱き下ろす。

わたしたちは、ややもすれば、罪を犯したひと——のみならず、自らとかけ離れた他者を「悪人」という範疇にしまい込むことで、理解しようともせずに切り捨ててしまおうとする。逆に悪者に仕立て上げることによって、強奪や支配を正当化することだってある。けれど犯罪者には、犯罪を犯すに至る思考を形成するような生い立ちがあり、それを生むようなひずんだ社会構造がある。

水戸黄門にしても桃太郎にしても、あるいはネット上にあふれる「悪い奴」をやっつけるだけの物語が「スカッとする話」などと言われていることにしても、正義感を振りかざして人を斬り捨てることが社会的にも、情緒的にもよきものであるかの言説は昔も今もずっと変わっていないように思える。忠臣蔵や曽我物語のような、私怨を晴らすだけの復讐劇が極端に美化される風習も未だに日本のなかに深く根付いているようで、当事者になりかわって(なりかわったつもりになって、が正しいのだが)「被害者遺族の気持ちを考えろ」だとか「死刑でも足りない」といった、加害者を吊すことが何の疑問もなく正当化されるというのも、残念ながら脈々と受け継がれてしまっているように思われる。刑事罰はいまだに仇討ちや市中引き回しの上さらし首のような、私的制裁や社会的な抹殺の代替である日本社会ではいつまでも死刑制度は止められないだろう。わたしたちに圧倒的に足りないのは、「悪者」とされる側にそれなりの事情があり、彼らもまたわたしたちと同じ人間なのだという単純な事実に思いを馳せるという、きわめて簡単なことなのかもしれない。

酒呑童子は、自らの持て余す欲望と、犯す罪との葛藤に悩んでいたのかもしれない。魔境に陥った神の末裔である酒呑童子にとって、人間とは同種ではなくむしろ、極上のご馳走だったに違いない。しかしそれを楽しむことは、人の生きる社会では悪でしかなかった。いま、わたしたちが牛肉を食べることにはあまり抵抗はないし、牛の方から文句を言われることも、牛に復讐されることも(たぶん)ない。藤子・F・不二雄は牛と人の立場を入れ替えた「ミノタウロスの皿」というSF作品でそうした倫理観に疑問を投げかけたし、最近では倫理的な側面から菜食が進められる動きはあるものの、わたしたちはいまのところ家畜を殺して食べることは許容の範囲という社会的合意のもとに生きている。奴隷制度やさらし首や闘牛のように、その合意が崩れるときは遠くないのかもしれない。わたしたちはつねに揺れ動く「正しさ」の範囲の中で行動を決定し、そこからの逸脱を「悪」と設定して生きている。だから正しさは変えられることはできるし、悪とされる側にもなんらかの理があることも、想像できる。しかし、酒呑童子が人肉食を正当化するためには、童子はあまりに孤独で、挙げる声をもっていなかった。



「酒呑童子は、殺してほしかったんだと思います。」根津美術館の庭園を眺める静かなカフェで、Kは言った。「自分ではどうすることもできなかったから。頼光たちが入ってきたときの酒呑童子の目は、そういう目でした。きっと殺されることも分かっていて、それを待っていたんです。」

酒呑童子は、頼光たちの力を必要としていた。情緒的に絵巻を読んだKとはちがい、わたしはむしろ霊魂譚として絵巻を見た。そしてわたしは、霊魂のめくるめく物語として、Kとは違う仕方で、童子が頼光に頼っていたという見方に、深く同意した。




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わたしは東北での調査を踏まえた卒業論文を改稿して2024年3月に発表した論文「頼る死者と贈る生者の民族誌——死者供養としての「ムカサリ絵馬」」[2]において、供養における霊魂と生者との関係を分析した。そこで、霊魂の物語を読み解く鍵として、宗教学者である池上良正の理論を叩き台として検討した[3]。池上は、日本の霊的・神的現象への対処として、ふたつのあり方を提唱している。ひとつが「〈祟り—祀り/穢れ—払い〉システム」で、もうひとつが「〈供養/調伏〉システム」である。ふたつの違いは時代的なものであり、前者は仏教が日本に影響を及ぼす前のもの、後者は仏教の影響を受けて変容したのちのものである。

前者から解説する。霊的現象の内、神聖で強力なものが「祟り」であり、人々は祟る霊を「祀る」ことでその難を逃れようとした。一方、好ましくない霊現象の原因は「穢れ」とされ、それに対しては「払い」を施すことで対処したという。





たとえば典型的な「祟り」は、日本三大怨霊として有名な崇徳院。保元の乱で敗れ、讃岐に配流されたのち、供養の意を込めた写経を都に送ったが、これが都から送り返されたことに激怒。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」といって舌を噛んで自殺されたとされる。これに敵対者の後白河院らは葬儀も行わなかったが、親族や摂関家に死者が相次ぎ、都は大火や戦災に見舞われたことで人々は崇徳院の祟りだと理解しはじめ、後白河院は崇徳院のために廟をこしらえ、丁重に祀ったという。一方、狐憑きのような邪悪で弱い霊に対しては、祀るのではなくお祓いとか厄除け祈願のような「払い」を行うことで対処してきたという。ただし、このふたつのシステムの境界は不明瞭であり、邪悪な霊であっても祀られることがあったことを池上は書き添えている。

仏教はこのシステムを吸収し、「〈供養/調伏〉システム」として定着したという。日本仏教は死者らの「成仏」をめざして法要や修法を施す。このシステムにおいて、先祖のような霊魂にたいしては「供養」を施し、仏教的な功徳を廻向することによって成仏させる一方で、悪しき魂に対しては修法を執り行い「調伏」を行うことで仏の教えで諭し、転化させるという。亡き人へのお葬式や年忌法要は「供養」だし、酒呑童子への最澄の修法や、厄を祓うための護摩などは「調伏」とされる。しかしこのふたつも明確に分かれる訳ではなく、調伏の修法が供養に用いられることもあるという。

酒呑童子絵巻を読み解くために、池上にいくつかの補足を加えておきたい。池上が供養と調伏が明確に分けられる物ではないと述べているように、日本の神や霊はときに利益をもたらしつつも、ときに災いをもたらす、邪と正が一体のものとして存在している。八岐大蛇が人間に災いをもたらす一方で、神として祀られることで人に利益をもたらすように、神も魔境に落ちれば人にとって不利益となり、安定すれば人のために利益をもたらす。そして、神の神たるゆえんは人が祀るからであり、祀られなくなった神は人に災いをもたらすこともある。いわば人は神を祀ることで利益を得て、神は人に祀られることで安定するという、相互依存的な関係にあるし、その均衡が崩れれば災厄の元凶になる。神とは絶対的に善きものなのではなく、人の心がけ次第で善くも悪くもありうるものなのである。

そしてまた、日本の神は、人に近い。伊吹明神が人に姿を変えて玉姫のもとに現れたり、神と人の間に子供が生まれたり、神が人を依り代として憑依したり、神の末裔が天皇としてこの世に現れるなど、神と人は共に関わりうる身近な存在であるとされている。その神は感情を持ち、怒りや悲しみにくれて災厄をもたらし、人の女に思いを寄せるなど、超越的な存在ではなくてむしろ人格を備えた、人間的な存在である。

そして人もまた、神に近い。崇徳院だけではなく、太宰府に流された菅原道真や平将門の怨霊が祟りという霊的な力となって人々を襲うように、抜きん出た才能や力量を持った人間の、強力な感情は神のような力を持って人々に働きかけることがある。山伏(修験者)は、霊的な力の宿る山に籠もり、修行を重ねることで霊験を授かろうとした人たちであるし、酒呑童子絵巻に現れる最澄もまた、仏の力を借りて霊的な力を動かそうとした人間である。


こうした霊現象を、宗教人類学者の佐々木宏幹の提示する「招き」「訪れ」「払い」「離れ」という四つの要素で理解することもできるだろう。

「救い現象の基軸」[4]

たとえば守護霊が弱って悪霊に憑かれたときに守護霊を招魂することで悪霊を祓う場合、離れ(守護霊)→訪れ(悪霊)→招き(守護霊)→離れ(悪霊)のように理解することができる。酒呑童子絵巻に関して言えば、酒呑童子の悪さ(訪れ)に対して、最澄の調伏(払い)によって解決するとか、酒呑童子(訪れ)を三神の加護(招き)によって征伐するという理解が可能だ。いずれの要素にしても、悪しきものと善きものの区別なく使うことができるし、人からみた視点と神からみた視点が異なることも留意したい。そして日本の文脈においては、訪れる神がその感情によって善くも悪くもなりうるという点も忘れてはならない。

さて、酒呑童子がふたたび都に至って女房を攫いだしたとき、人々にとってそれは、神とも人ともつかぬもの(鬼)の「祟り」、佐々木のいう「訪れ」だったのだろう。しかし訪れたものは、邪悪な霊とも言い切れない、感情を持った何者かではなかったか。それは日本でいまも各地に現れている(とされる)霊魂とさほど違いのないものではなかったか、と思う。

冒頭で触れたように、亡児や水子に風車を捧げることがある。子供は風車が好きだから、あの世で遊んで幸せでいてほしいと願うものだ。風に吹かれて回ることが、マニ車のように功徳を重ねることとも関係しているのかもしれない。亡き子のお墓やお仏壇にお菓子を捧げることもあるし、亡き人がたとえばお酒好きの大人だったら、お酒をお供えするだろう。太宰治はゴールデンバットを吸い、さくらんぼが好きだったから桜桃忌(太宰の遺体が上がった日であり、誕生日)には彼の墓にはゴールデンバットと桜桃が供えられる。このように、佐々木の4つのいずれにも属さないが、亡き人に捧げ物をすることによって冥福を祈り、成仏を祈ることをわたしは「贈り」と呼んでいる。成仏や冥福を願って捧げるお経も葬儀も、この「贈り」に属すると理解している。

一方で、無念を抱えた死者は容易には成仏できないとされる。それは崇徳院や菅原道真公に代表される怨霊でもあるが、より身近なところにも存在している。たとえば、「へっつい幽霊」という落語がある。だいたいこんな話だ。


ある男が古道具屋で見つけたへっつい(かまどのこと)を1分2朱で購入し、自宅に設置した。しかし、その晩すぐに男は古道具屋に慌てた様子で駆け込み、今すぐに竈を引き取って欲しいと頼み込む。古道具屋は訳が分からなかったが、押しに負けて仕方なく7割の値で引き取る事にした。翌日も翌々日も同じように竈が売れたが、夜になると決まって客が青白い顔で駆け込んで来て、引き取って欲しいと頼む。ある日、古道具屋は客に尋ねてると、客が言うには夜中に竈から幽霊が出てきて「金出せぇ〜」と迫るのだという。
 古道具屋は毎日3割ずつ儲かるので竈を売っては引き取る商売を続けていたが、やがて幽霊の噂が立ち、客足が途絶えた。困った古道具屋は町内の荒くれ者、熊五郎に3両を付けて引き取らせることにした。熊五郎は薬屋の徳さんと竈を運び出し、徳さんの家に設えたが、このとき誤って竈をぶつけてしまう。その時竈から300両が転がり出てきて、2人は大喜びして折半した。熊五郎は博打、徳さんは吉原で遊女遊びをし、2人とも一晩のうちに使い果たす。
 次の夜に幽霊は2人の元に現れ、「金返せぇ〜」と迫った。幽霊を怖がらない熊五郎は幽霊に何の用かと尋ねた。幽霊は左官の長五郎という男で、ある日博打で大儲けしたので、300両を竈に隠し、夜の町に遊びに行くと河豚に当たって死んでしまったのだという。その金が惜しくて毎晩出てきたのだが、怖がられて話にならなかったのだそうだ。
 熊五郎は徳さんの親に300両を借りて長五郎に差し出し、礼として半分よこせと無理を言って承知させた。長五郎はこの150両を2人で賭けて博打をやろうという。幽霊は一度に150両を丁に賭けるが、熊五郎に負けて全て取られてしまう。
 悔しい長五郎はもう一度やろうと提案する。「もう銭がねぇ、冗談じゃねえや」という熊五郎に対して、長五郎は「私も幽霊です、決して足は出しません」

へっついから出てきた幽霊の長五郎は「祟り」であり「訪れ」であるが、彼は同時にまた成仏できず、この世を彷徨い人心を惑わす霊であった。そして彼は、無念を抱え、自分自身ではなんともできないがために人に「祟って」きたのであった。つまり「祟り」とは、この世へ無念を持ちながら、自分ではなんともできないがために人の供養を要求する「頼り」であると言い換えることができるのである。そしてお金をあげるとか、お経をあげるとか、個人が他界で欲しているものや功徳をささげること(=「贈り」)で無念を晴らし、成仏させ、祟りを解決することができるのである。

拙論では、霊魂の供養の事例として「ムカサリ絵馬」や「花嫁人形」という風習を取り上げた。独身でなくなった霊のために、前者は個人と花嫁/花婿の結婚式の様子を絵に描いてお寺などに捧げるもので、後者は夫婦に見立てた人形を捧げるものである。いずれも、独身で他界したという無念を持った死者がおり、そのために結婚を贈ることで供養を行うという風習である。そして「祟り」のような頼り現象も、民俗学者や人類学者によって報告されていた。

酒呑童子絵巻に戻ろう。自らの制御できない欲求と罪とに苛まれつつも、都に女子供を求めた酒呑童子も、人々に頼って(祟って)、何らかの救いを求めていたのではなかったのだろうか。酒呑童子は、殺してほしかったんだと思う、というKの言葉を、わたしはこのように理解した。神の子として、子供の姿のまま何百年も生きざるを得なかった酒呑童子は、悪者のレッテルを貼られて山奥で孤独に生きた。それが幸せな日々だったのかは分からないが、彼の自尊心が満たされることは、ほとんどなかったのだろうと思う。人からは恐れられ、白い目で見られ、誰からも愛されなかった酒呑童子は、死ぬことによってしか救われなかったのだと思う。だとしたら頼光に殺されたことは、無念であると同時に、待ちわびた救済であったにちがいない。しかしその救済は、命を代償にしてしか得られないのだとしたら、彼の背負っていた原罪とはどれほどに重い荷だったのだろうか。彼一人の責任として、彼を抹殺すれば片づけられるようなものだったのだろうか。




そして、最期に彼の得た救いとは、命と引き換えにしてなおあまりあるような、尊いものだったのだろうか。




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[1]安田菜津紀「国籍と遺書、兄への手紙」2018年12月13日
[2] 荒木駿「頼る死者と贈る生者の民族誌——死者供養としての「ムカサリ絵馬」」国際基督教大学アジア文化研究所『アジア文化研究』、2024年3月、79–108頁。
[3] 池上良正『死者の救済史 供養と憑依の宗教学』2003年、角川書店。(2019年、ちくま学芸文庫)
[4] 佐々木宏幹『宗教人類学』1995年、194頁。

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