青春のよりどころ
高校生のころ、西新宿に入り浸っていた。
西新宿といっても都庁のあるような高層ビル街のほうではなくて、7丁目、おもに西武新宿駅の西側で、小滝橋通りと職安通りと青梅街道に囲まれた三角形のエリアである。
西新宿にはバイト先の飲食店があったし、ロックに熱中していた十代だったから、中古レコード店や、ブートレグ店なんかにもよく出入りしていた。そう、まだYoutubeが広まっていなかった時代、海賊版のライブ音源なんかはこういうアングラな店でしか手に入らなかった。今はもう、ほとんどが営業していないんだろうな。
そんな店に入り浸っていた、とはいっても、お金のない高校生だったから、店に出入りしても手の届かない音源をどんどん「欲しいものリスト」に追加していったり、お店の雰囲気やかかっている音楽を楽しんだり、店に来るおじさまたちが慣れた手つきでレコードを物色し、躊躇なく山ほど買っていく姿に憧れたりしていた。
人見知りだったから、小さな店で人の良さそうな店員さんに話しかけられても、ただただ「いや特に…探してるものとかないです…」と言って、話しかけるなオーラだけ出して、そそくさと逃げ出した。きっと店員さんもお金がないのくらい分かっていたのだろうし、あの時ちゃんと話していれば、もっと音楽に詳しくなれていたのかもしれないな、なんてほろ苦い青春の蹉跌である。
当時西新宿にはcozzoという喫茶店があった。カウンターの13席だけ、マスターが一人でやっている小さな店で、ロックではなくていつもジャズがかかっていた。古びた木のカウンターの落ち着いた雰囲気の店だった。リー・モーガンもマイルスもコルトレーンも、ここで覚えた。
マスターは30すぎの若い兄ちゃんで、それなりに真面目に話を聞いてくれたし、ほかのお客さんがいないときはくだらない馬鹿話で笑ったり、女の子のことを話したりした。
コーヒー一杯700円で、わたしはずいぶん長居するほうだったと思うけど、マスターは嫌な顔しないで話に付き合ってくれた。暇な店だったというのもあるけれど、彼もまた学生時代には金欠にもかかわらず高い喫茶店に入り浸った経験があったのだ。たまにおかわりのコーヒーをサービスしてくれることもあった。
16歳そこそこの高校生にとって、喫茶店に通う人びとを見ているのは、人生の博物館を除いているかのような経験だった。いつも同じ席に座って水槽を眺めている物静かな年配の女性とか、屋台のおでん屋のご主人とか、休憩にきている他の喫茶店のマスター、神出鬼没な画商のおじさんなどの常連さんもいたし、書類の整理をするビジネスマンや映画帰りの老夫婦、時間に余裕のある主婦などいろいろな人がいた。お酒を出している店だったから、かっこ良く酔う人と駄目な酔い方をする人の違いも見て学んだ。背伸びしてやってくるカップルを横目で観察したこともあった。こんな大人になりたいな、こんな大人にはなりたくない、とお手本にしたけれど、一方で印象だけで人を見てはいけないということも学んだ。
家でも学校でもバイト先でもなく、自分が社会の片隅にいると感じられる場所は、あの頃の自分には貴重だった。社会がなんなのかもわからない子にとっては、それは漠然とした「社会」というものを見せてくれる、ひとつののぞき穴だったと思う。家にも学校にも居場所がなかったわたしは、少しでも風通しのいい場所を見つけたくて、社会を求めて通っていた。
そして背伸びをしたい年頃の高校生にとって喫茶店とは、大人と話せる場所、自分が大人の一員として参加できる場所だった。
不景気の影響もあって700円だったコーヒーはいつだか800円になった。その後マスターはさらなる値上げも考えたけれど、結局は上げ続けることが目に見えていると思い至り、閉店を決めた。わたしが成人してまもなくのことだ。
それ以来、マスターには会っていないけどどこかのホテルに就職してまた飲食店をやりたいという希望を持っているのだと、噂に聞いた。それももう何年も前の話だ。
20歳にとっての4年間といえば人生の5分の1に相当する期間だし、その後の人生に重要な影響を与える時期にこうした場所を見つけられたのはとても貴重な経験だったと思う。何も分かってくれない家族のいる家でもなく、規則と圧力で息苦しい学校でもなく、つまり息子や兄弟、あるいは生徒としてではなく、なにかに縛られることもなく、ただの一人の人間として他人と関われる場所。わたしはそこを拠り所として青春を生きた。
あの店にこれといった思い出話があるわけではないけれど、十代後半を振り返るときにかならず思い出すのは好きだった女の子のことと、家出のことと、cozzoのことだ。
わたしにとってのcozzoのように、青春時代、自分の支えになる場所や活動を、わたしは〈青春のよりどころ〉と呼ぶことにした。部活に打ち込んだひとにとってそれは、野球とかサッカー、音楽だったかもしれない。読書でも漫画でも絵を描くことでもいいし、特定の場所でもいい。仲間とたむろした公園とか。
ひとは青春のよりどころを通じて、人との関わり方を学んだり、自分の立ち位置を確認したり、自分自身を振り返ったり、成長したり、未熟な部分をいやというほど見たり、夢を追いかけたりする。目標に向かって努力することを知り、それが必ずしも報われないことを知る。自分の意見と他人の意見が対立することを知り、いろんな感情を経験して、折り合いの付かないことと向き合いながらなんとかして生きていく術を身につける。自分がやりたいことを見つける一方で、夢と現実は乖離していることも知る。
自分の生活と言えば、家と学校しかなかった子ども時代が終わったとき、青春のよりどころは、はじめて自分を束縛するそのふたつの世界からはなれて、自分だけの世界を持つ場所だ。家でも授業でも学べないことがたくさんあることを知る。そして、それを通して自分を表現することも学ぶ。
青春のよりどころは、ひとつじゃなくてもいい。きっとわたしにとってはギターを弾くこともよりどころだったかもしれない。
いづれにしても、家とか学校とか、強制されたものではなくて自ら選び取った居場所がある。そこを通じて成長するということは、親や教師に「育てられる」のではなくて、じぶんで「育つ」ことであり、ほかの誰かと同じではない、ただひとりだけの自分、を作ることになるのではないか、と思う。
cozzoが西新宿からなくなった頃から、わたしは世界を旅するようになった。
わたしはこの地球を、青春のよりどころにした。
西新宿といっても都庁のあるような高層ビル街のほうではなくて、7丁目、おもに西武新宿駅の西側で、小滝橋通りと職安通りと青梅街道に囲まれた三角形のエリアである。
西新宿にはバイト先の飲食店があったし、ロックに熱中していた十代だったから、中古レコード店や、ブートレグ店なんかにもよく出入りしていた。そう、まだYoutubeが広まっていなかった時代、海賊版のライブ音源なんかはこういうアングラな店でしか手に入らなかった。今はもう、ほとんどが営業していないんだろうな。
そんな店に入り浸っていた、とはいっても、お金のない高校生だったから、店に出入りしても手の届かない音源をどんどん「欲しいものリスト」に追加していったり、お店の雰囲気やかかっている音楽を楽しんだり、店に来るおじさまたちが慣れた手つきでレコードを物色し、躊躇なく山ほど買っていく姿に憧れたりしていた。
人見知りだったから、小さな店で人の良さそうな店員さんに話しかけられても、ただただ「いや特に…探してるものとかないです…」と言って、話しかけるなオーラだけ出して、そそくさと逃げ出した。きっと店員さんもお金がないのくらい分かっていたのだろうし、あの時ちゃんと話していれば、もっと音楽に詳しくなれていたのかもしれないな、なんてほろ苦い青春の蹉跌である。
当時西新宿にはcozzoという喫茶店があった。カウンターの13席だけ、マスターが一人でやっている小さな店で、ロックではなくていつもジャズがかかっていた。古びた木のカウンターの落ち着いた雰囲気の店だった。リー・モーガンもマイルスもコルトレーンも、ここで覚えた。
マスターは30すぎの若い兄ちゃんで、それなりに真面目に話を聞いてくれたし、ほかのお客さんがいないときはくだらない馬鹿話で笑ったり、女の子のことを話したりした。
コーヒー一杯700円で、わたしはずいぶん長居するほうだったと思うけど、マスターは嫌な顔しないで話に付き合ってくれた。暇な店だったというのもあるけれど、彼もまた学生時代には金欠にもかかわらず高い喫茶店に入り浸った経験があったのだ。たまにおかわりのコーヒーをサービスしてくれることもあった。
16歳そこそこの高校生にとって、喫茶店に通う人びとを見ているのは、人生の博物館を除いているかのような経験だった。いつも同じ席に座って水槽を眺めている物静かな年配の女性とか、屋台のおでん屋のご主人とか、休憩にきている他の喫茶店のマスター、神出鬼没な画商のおじさんなどの常連さんもいたし、書類の整理をするビジネスマンや映画帰りの老夫婦、時間に余裕のある主婦などいろいろな人がいた。お酒を出している店だったから、かっこ良く酔う人と駄目な酔い方をする人の違いも見て学んだ。背伸びしてやってくるカップルを横目で観察したこともあった。こんな大人になりたいな、こんな大人にはなりたくない、とお手本にしたけれど、一方で印象だけで人を見てはいけないということも学んだ。
家でも学校でもバイト先でもなく、自分が社会の片隅にいると感じられる場所は、あの頃の自分には貴重だった。社会がなんなのかもわからない子にとっては、それは漠然とした「社会」というものを見せてくれる、ひとつののぞき穴だったと思う。家にも学校にも居場所がなかったわたしは、少しでも風通しのいい場所を見つけたくて、社会を求めて通っていた。
そして背伸びをしたい年頃の高校生にとって喫茶店とは、大人と話せる場所、自分が大人の一員として参加できる場所だった。
不景気の影響もあって700円だったコーヒーはいつだか800円になった。その後マスターはさらなる値上げも考えたけれど、結局は上げ続けることが目に見えていると思い至り、閉店を決めた。わたしが成人してまもなくのことだ。
それ以来、マスターには会っていないけどどこかのホテルに就職してまた飲食店をやりたいという希望を持っているのだと、噂に聞いた。それももう何年も前の話だ。
20歳にとっての4年間といえば人生の5分の1に相当する期間だし、その後の人生に重要な影響を与える時期にこうした場所を見つけられたのはとても貴重な経験だったと思う。何も分かってくれない家族のいる家でもなく、規則と圧力で息苦しい学校でもなく、つまり息子や兄弟、あるいは生徒としてではなく、なにかに縛られることもなく、ただの一人の人間として他人と関われる場所。わたしはそこを拠り所として青春を生きた。
あの店にこれといった思い出話があるわけではないけれど、十代後半を振り返るときにかならず思い出すのは好きだった女の子のことと、家出のことと、cozzoのことだ。
わたしにとってのcozzoのように、青春時代、自分の支えになる場所や活動を、わたしは〈青春のよりどころ〉と呼ぶことにした。部活に打ち込んだひとにとってそれは、野球とかサッカー、音楽だったかもしれない。読書でも漫画でも絵を描くことでもいいし、特定の場所でもいい。仲間とたむろした公園とか。
ひとは青春のよりどころを通じて、人との関わり方を学んだり、自分の立ち位置を確認したり、自分自身を振り返ったり、成長したり、未熟な部分をいやというほど見たり、夢を追いかけたりする。目標に向かって努力することを知り、それが必ずしも報われないことを知る。自分の意見と他人の意見が対立することを知り、いろんな感情を経験して、折り合いの付かないことと向き合いながらなんとかして生きていく術を身につける。自分がやりたいことを見つける一方で、夢と現実は乖離していることも知る。
自分の生活と言えば、家と学校しかなかった子ども時代が終わったとき、青春のよりどころは、はじめて自分を束縛するそのふたつの世界からはなれて、自分だけの世界を持つ場所だ。家でも授業でも学べないことがたくさんあることを知る。そして、それを通して自分を表現することも学ぶ。
青春のよりどころは、ひとつじゃなくてもいい。きっとわたしにとってはギターを弾くこともよりどころだったかもしれない。
いづれにしても、家とか学校とか、強制されたものではなくて自ら選び取った居場所がある。そこを通じて成長するということは、親や教師に「育てられる」のではなくて、じぶんで「育つ」ことであり、ほかの誰かと同じではない、ただひとりだけの自分、を作ることになるのではないか、と思う。
cozzoが西新宿からなくなった頃から、わたしは世界を旅するようになった。
わたしはこの地球を、青春のよりどころにした。
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