インスタ映えしなくてもいい、キラキラしない人生を生きる
「インスタ映え」という言葉に馴染めずにいる。というか、本気で使う言葉とはどうしても思えなくて、なにかそれ自身を小馬鹿にした、冗談めいた言葉にしか思えない。「意識高い」と同じように。
だけど、「インスタ映え」する飲食店や観光地が人気だというニュースにふれると、やっぱりというか、ここまできたか、という感じもする。SNSが自己表現の強力なツールになっているから、印象的な自己像を表現するために消費する、というのは理解できる。
社会学や経済学では「衒示的消費 (conspicuous consumption)」という概念があって、経済力を誇示するための消費、例えばこれ見よがしに高いベンツに乗るとか、ブランドものの鞄を使うとか、金のしゃちほこを屋根に乗せることを指す。インスタ映えのための消費も、自分はこんな人間ですよとか、文化的な素養(社会学でいう文化資本)を顕示するための消費と言えるのではないか。デジタルなコミュニケーションツールを通じた、〈見られる〉ということの影響力の強さを改めて感じる。
それでも、「インスタ映え」を消費や行動の根拠にすることには、拒絶感に近い強い違和感を覚えるのは私だけではないと思う。思いたい。
『一緒にいてもスマホ』のシェリー・タークルによれば、SNSやLINEをつうじたコミュニケーションのありかたは、自分の望む自分の姿を、ちょうどいい量だけ発信することができる。そこには、言葉がでてこなくてどぎまぎすることも、ふと醜い言葉を口走らせてしまうこともなくて、当たり障りのないしかたでいい自分を演じることができるし、それが自分の自画像となる。
スマホ以前は、孤独な時間をもつことで、自分自身を省みる機会があったのだが、今は違う。スマホを手にすればいつでもひととつながることができる。内省しなくていいかわりに、つねに誰かとシェアしていることが自己をかたちづくっている。この状態をタークルは「われシェアする、ゆえにわれあり」と呼ぶ。
インスタも間違いなく、「われシェアする」ためのツールだ。
自分の生活の見栄えがいい部分を切り取って、ひとに見てもらうことが、自己表現であることは十分にわかる。
でも、見た目がキレイなものを探して、撮って、シェアすることが消費行動を促すほど影響を持つこと、言い換えれば〈見た目のキレイさ〉と〈見てもらうこと〉が圧倒的に優位になっていることには、違和感を覚える。とくに、インスタのようにたくさんの人がシェアしあうところでは、人並みかそれ以上にキラキラしたものを載せないと認めてもらえないわけだし。
極端なたとえだが、働くとなれば、「インスタ映えする職場」よりも、理解ある上司や同僚に囲まれてやりがいのある職場を選ぶでしょう。他人に見られるための人生ではなく、自分の生きる人生なのだから。
食事や旅行だって、自分の好みで行動すればいいではないかと思う。
私が好きな食べ物と言えば、きんぴらと、切り干し大根と、おかひじき。どれも、ぜんぜんインスタ映えはしないし、だれも「いいね」なんて押してはくれないけれど、それらを食べているとき、わたしは十分にしあわせだ。
写真に写らなくても、美しい景色、おいしい食べ物はたくさんあるし、私の人生を意味あるものにしてくれたたくさんのもの……人との出会い、失敗や挫折から得た学びや、人から受けた優しさや思いやり……それらは画面の中にはないし、いくら画面をたたいても「シェア」できるものではない。それでもたしかに、私をかたちづくっているものたちだ。
〈自分の行動の根拠を他人に求めてはいけない〉
これが、長いあいだ、同調圧力と闘いながら生きてきた私がたどり着いた決意のひとつだ。
他人にどう見られるかではなくて、自分が好きかどうか、自分にとって意味があるかを、第一に考えて行動する。他人のために自分を偽ってはいけない。他人の視線のために自らを動かしていると、いつしか自分がスカスカになってしまう。
もちろん、他人にどう思われようと自分を貫いて生きていけるほど、私は強くない。周囲の冷たい視線に怯えることも、自分が他人と違いすぎることにビクビクしてしまうこともある。だけどそこで自分を偽ってしまえば、私は自分を押しつぶそうとしてきた波の中に飲み込まれてしまう。
人生はインスタみたいにキラキラしていない。
ハワイに行くことがあっても、有名店でご飯を食べることがあっても、自分の人生の大半は、淡々と進む平凡な日常の中にある。この日常の圧倒的な引力に逆らおうとしてキラキラを作ってみても、はかなく通り過ぎていくだけだ。
だとしたら、わたしたちが生活を豊かに生きるためにできることとは、1%のキラキラを演出することではなくて、99%の平凡な日常を、手抜きせず、丁寧に、誠実に偽りなく生きることではないだろうか。
「お気に入りの傘や雨靴があれば雨の日に出かけるのが楽しくなりますよ」
そう教えてくれたのは、かつて片思いをしていた子だった。
結局その恋が実ることはなかったし、今ではすっかり疎遠になってしまったのだけど、
彼女の教えてくれたことは、今でもずいぶんと私の生活に明るい光を取り込む窓になってくれたと思う。
雨の日は外出も億劫になる。そんなときに持って出かけるのが楽しくなるようなお気に入りの傘を一本備えておけば、雨にたいする心持ちもずいぶんと変わってくる。
これだ、と思えるような一本の傘を、長いことかけて探して回った。男性用の傘は種類も少ないので、そのなかから自分のお気に入りを見つけるのはなかなか苦労した。結局わたしが選んだのは、紺の地に麻の模様の入った、木の柄の上質な傘で、欲しかった本が何冊も買えるくらいの値段がした。血を吐く思いで買ったけれど、そのぶん大切にしているのでこれからも末永く役に立ってくれるだろう。
特別な日に贅沢をするよりも、普段の生活がちょっと楽しくなるように彩りを添える、そのほうが生活の質は向上する。
彼女の教えてくれたのは、そんなことではなかったか。
せんだって、万年筆を購入した。店頭でとことん試し書きさせてもらい、書き味に惚れたものはすこし高かったけれど頑張って買った。日頃お世話になっている靴職人の店で万年筆入れを買い、蔵前の文具屋で自分だけの色のインクを作った。
それからは書くことが楽しくて、気が乗らないときに机に向かう苦痛がいくぶんほぐれた。とにかく何か書きたいと思えることが、思考に行き詰まったときに背中を押してくれる。地味で無骨な見た目だけど、書くことが幸せなくらいに、いい万年筆だ。
ごちそうでなくても旬のものを食卓に取り入れておいしく食べるとか、お気に入りの服を着回すとか、大切な人へのプレゼントは、日々の生活の中で使えるものにするとか。安いものを使い捨てるのではなく、ドカンと打ち上げ花火を上げるでもなく。いいものを、愛着を持って、手入れをしながら使い続けること。そうやって毎日の生活が豊かになればいい。
地味な生活を、地味に、たいせつに生きること。
"No Facebook, Face to Face"
とあるゲストハウスに張り出してあった言葉が忘れられない。
理想のままの自分を演出できるSNSとは違って、言葉に詰まってどもることも、言葉がでてこなくてちぐはぐになることもある。いやそれどころか、私は誰かのちょっとした言動にいらついたり、悪意のない行動に傷ついてしまうことだってある。それもすべてありのままの自分だ。そしてそれが、わたしの生きているリアルで唯一の、生活、人生である。なにも演出せずに等身大の自分を生きたい。
だけど、「インスタ映え」する飲食店や観光地が人気だというニュースにふれると、やっぱりというか、ここまできたか、という感じもする。SNSが自己表現の強力なツールになっているから、印象的な自己像を表現するために消費する、というのは理解できる。
社会学や経済学では「衒示的消費 (conspicuous consumption)」という概念があって、経済力を誇示するための消費、例えばこれ見よがしに高いベンツに乗るとか、ブランドものの鞄を使うとか、金のしゃちほこを屋根に乗せることを指す。インスタ映えのための消費も、自分はこんな人間ですよとか、文化的な素養(社会学でいう文化資本)を顕示するための消費と言えるのではないか。デジタルなコミュニケーションツールを通じた、〈見られる〉ということの影響力の強さを改めて感じる。
それでも、「インスタ映え」を消費や行動の根拠にすることには、拒絶感に近い強い違和感を覚えるのは私だけではないと思う。思いたい。
『一緒にいてもスマホ』のシェリー・タークルによれば、SNSやLINEをつうじたコミュニケーションのありかたは、自分の望む自分の姿を、ちょうどいい量だけ発信することができる。そこには、言葉がでてこなくてどぎまぎすることも、ふと醜い言葉を口走らせてしまうこともなくて、当たり障りのないしかたでいい自分を演じることができるし、それが自分の自画像となる。
スマホ以前は、孤独な時間をもつことで、自分自身を省みる機会があったのだが、今は違う。スマホを手にすればいつでもひととつながることができる。内省しなくていいかわりに、つねに誰かとシェアしていることが自己をかたちづくっている。この状態をタークルは「われシェアする、ゆえにわれあり」と呼ぶ。
インスタも間違いなく、「われシェアする」ためのツールだ。
自分の生活の見栄えがいい部分を切り取って、ひとに見てもらうことが、自己表現であることは十分にわかる。
でも、見た目がキレイなものを探して、撮って、シェアすることが消費行動を促すほど影響を持つこと、言い換えれば〈見た目のキレイさ〉と〈見てもらうこと〉が圧倒的に優位になっていることには、違和感を覚える。とくに、インスタのようにたくさんの人がシェアしあうところでは、人並みかそれ以上にキラキラしたものを載せないと認めてもらえないわけだし。
極端なたとえだが、働くとなれば、「インスタ映えする職場」よりも、理解ある上司や同僚に囲まれてやりがいのある職場を選ぶでしょう。他人に見られるための人生ではなく、自分の生きる人生なのだから。
食事や旅行だって、自分の好みで行動すればいいではないかと思う。
私が好きな食べ物と言えば、きんぴらと、切り干し大根と、おかひじき。どれも、ぜんぜんインスタ映えはしないし、だれも「いいね」なんて押してはくれないけれど、それらを食べているとき、わたしは十分にしあわせだ。
写真に写らなくても、美しい景色、おいしい食べ物はたくさんあるし、私の人生を意味あるものにしてくれたたくさんのもの……人との出会い、失敗や挫折から得た学びや、人から受けた優しさや思いやり……それらは画面の中にはないし、いくら画面をたたいても「シェア」できるものではない。それでもたしかに、私をかたちづくっているものたちだ。
〈自分の行動の根拠を他人に求めてはいけない〉
これが、長いあいだ、同調圧力と闘いながら生きてきた私がたどり着いた決意のひとつだ。
他人にどう見られるかではなくて、自分が好きかどうか、自分にとって意味があるかを、第一に考えて行動する。他人のために自分を偽ってはいけない。他人の視線のために自らを動かしていると、いつしか自分がスカスカになってしまう。
もちろん、他人にどう思われようと自分を貫いて生きていけるほど、私は強くない。周囲の冷たい視線に怯えることも、自分が他人と違いすぎることにビクビクしてしまうこともある。だけどそこで自分を偽ってしまえば、私は自分を押しつぶそうとしてきた波の中に飲み込まれてしまう。
人生はインスタみたいにキラキラしていない。
ハワイに行くことがあっても、有名店でご飯を食べることがあっても、自分の人生の大半は、淡々と進む平凡な日常の中にある。この日常の圧倒的な引力に逆らおうとしてキラキラを作ってみても、はかなく通り過ぎていくだけだ。
だとしたら、わたしたちが生活を豊かに生きるためにできることとは、1%のキラキラを演出することではなくて、99%の平凡な日常を、手抜きせず、丁寧に、誠実に偽りなく生きることではないだろうか。
「お気に入りの傘や雨靴があれば雨の日に出かけるのが楽しくなりますよ」
そう教えてくれたのは、かつて片思いをしていた子だった。
結局その恋が実ることはなかったし、今ではすっかり疎遠になってしまったのだけど、
彼女の教えてくれたことは、今でもずいぶんと私の生活に明るい光を取り込む窓になってくれたと思う。
雨の日は外出も億劫になる。そんなときに持って出かけるのが楽しくなるようなお気に入りの傘を一本備えておけば、雨にたいする心持ちもずいぶんと変わってくる。
これだ、と思えるような一本の傘を、長いことかけて探して回った。男性用の傘は種類も少ないので、そのなかから自分のお気に入りを見つけるのはなかなか苦労した。結局わたしが選んだのは、紺の地に麻の模様の入った、木の柄の上質な傘で、欲しかった本が何冊も買えるくらいの値段がした。血を吐く思いで買ったけれど、そのぶん大切にしているのでこれからも末永く役に立ってくれるだろう。
特別な日に贅沢をするよりも、普段の生活がちょっと楽しくなるように彩りを添える、そのほうが生活の質は向上する。
彼女の教えてくれたのは、そんなことではなかったか。
せんだって、万年筆を購入した。店頭でとことん試し書きさせてもらい、書き味に惚れたものはすこし高かったけれど頑張って買った。日頃お世話になっている靴職人の店で万年筆入れを買い、蔵前の文具屋で自分だけの色のインクを作った。
それからは書くことが楽しくて、気が乗らないときに机に向かう苦痛がいくぶんほぐれた。とにかく何か書きたいと思えることが、思考に行き詰まったときに背中を押してくれる。地味で無骨な見た目だけど、書くことが幸せなくらいに、いい万年筆だ。
ごちそうでなくても旬のものを食卓に取り入れておいしく食べるとか、お気に入りの服を着回すとか、大切な人へのプレゼントは、日々の生活の中で使えるものにするとか。安いものを使い捨てるのではなく、ドカンと打ち上げ花火を上げるでもなく。いいものを、愛着を持って、手入れをしながら使い続けること。そうやって毎日の生活が豊かになればいい。
地味な生活を、地味に、たいせつに生きること。
"No Facebook, Face to Face"
とあるゲストハウスに張り出してあった言葉が忘れられない。
理想のままの自分を演出できるSNSとは違って、言葉に詰まってどもることも、言葉がでてこなくてちぐはぐになることもある。いやそれどころか、私は誰かのちょっとした言動にいらついたり、悪意のない行動に傷ついてしまうことだってある。それもすべてありのままの自分だ。そしてそれが、わたしの生きているリアルで唯一の、生活、人生である。なにも演出せずに等身大の自分を生きたい。
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