中島敦がみた小笠原

今年の春だったか、私の指導教員は「恋愛にかまけてると馬鹿になりますよ。来ない電話を待ってる時間を文学に費やすべきだった」という主旨の発言をした。授業中に。
わたしは、人間は恋と革命のために生まれてきたと確信しているのだが、前者はしようと思ってするのではない(江國香織さん風にいえば、「するものではなく、落ちるもの」)ので、これは待つしかないだろう。
したがって、今は文学(と革命)のために身を捧げているのである。
昨日は宮澤賢治全集が家に届いた。しかしなぜか数日前から谷崎にはまってしまい、近くの古本屋に駆け込み、あるだけ谷崎を買い込んだ。賢治と谷崎のあいだを行ったり来たりしている冬休みである。

そして、今日は中島敦について書こうと思う。。。
だからこの前置きは全然意味がないのだが、思い出したので枕にでも、と思って書いてみただけです。ごめんなさい。

さて、話は突然逸れるが、私は17歳の時、家出をした。その時の行き先が小笠原で、それから何回も通い続けている。
今回は、その小笠原を舞台にしたひとつの文学について書こうと思うのです。


小笠原と文学の関わりといったら筆頭に出てくるのが北原白秋だ。(といっても小笠原に詳しい人でないと知らないだろうけど。)
白秋は1914年に三ヶ月小笠原に滞在している。厳密に言えば、小笠原に移住するつもりだったのだが、島民と上手くいかずに三ヶ月で島を去ったらしい。小笠原を描いた詩と歌は64作残されている。これについても検討したいのだが、今は大学の図書館が閉まっていて白秋全集が手に届く場所にないので、いずれ機会と時間とやる気ときっかけがあれば書こうと思う。まあ、多分ないだろう。
島には歌碑が建っていて、「ちちのみの父の嶋より見わたせば父の嶋見ゆ乳房山見ゆ」という歌が刻まれている。この歌は確か歌集『雀の卵』に治められており、青空文庫でも読める。

この白秋に比べて意外と知られていないのが中島敦である。中島は1936年に南洋への途中(って『小笠原ハンドブック』には書いてあるけど、裏が取れてない。全集の2巻だけインドに置いてきたので)、3日間だけ小笠原に立ちよっている。白秋と比べて滞在は短いが、100首近い和歌を残している。つまり白秋より多いのである。だけど、島には中島の歌碑など、私の知る限り存在しない。
(注:この情報は一部誤りでした。末尾のリンク先のエントリに詳しく書いてあります。)

中島敦といえば教科書に載っていた「山月記」が有名で、お堅いイメージがぬぐえない。「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自から恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」というアレだ。群ようこの言葉を借りれば「目の前で金屏風をどーんと広げられた感じ」である。
その印象とは裏腹に、南洋庁の役人としてでパラオの土人と深く関わっていた中島は、「南島譚」のような、南洋の風俗に焦点をあてた、ゆるい物語も残している。腕っ節の強い女性と美女の、男性をめぐる女同士の喧嘩であったり、胡散臭い老人の話、島の昔話などなど。あの鋼のような硬派な漢文訓読体の文章とは似ても似つかない作品だ。金屏風のイメージしかない人はぜひ読んで欲しい。青空文庫にあるから。
南洋から息子に宛てて、「今日は、クサイという島に来ました。クサイという名前でも、少しもくさくはありません」という手紙も送っている。あの、いかにも頭の固そうな中島はどこに行ったのか。本当に同一人物なのか?

金屏風に恐れをなした人はご存じないかもしれないのだが、中島は南洋の人びとの風俗に温かい視線を送っている。国語編修書記としてパラオに赴いた中島は、現地人への国語教育のために風俗調査などをしていたのだが、大日本帝国が現地人の習慣と伝統を破壊したことを嘆く手紙が残っている。もちろん、明確に帝国のやり方を批判してはいないけれど。パラオの人びとの長閑な暮らしぶりには、彼も共鳴するところがあったのだろう。

なぜこのことを書いたかというと、小笠原について詠んだ歌も同様に、島の人びとや小さなものへの視点で書かれている。島の生活の様子が如実に伝わってくるのだ。
白秋とは滞在の時期が20年も違うので単純な比較はできないのだが、白秋が叙景を中心にした詩歌を詠んだのに対して、中島の歌は島の湿度と生活感が伝わってくる。
たとえば「父島にトマトを買へば椰子の葉に包みてくれし音のゆゆしさ」という日常生活の何気ない様子とか、風景についても「うす緑二見の浦の水清み船底透いて揺れ歪み見ゆ」のように、白秋よりミクロな視点で見ている(白秋にもこういう歌はあるけどね)。
今は「サンゴ通り」という歌でしか知らないが、かつては街の通りが珊瑚の屑で覆われていた。その様子も「この道に白きは珊瑚の屑といふ海伝ひ行き踏めば音する」と詠まれているし。
竜舌蘭、ビロウ、椰子、タコノキなど島の植物を詠んだ歌も多い。もう面倒なのでここには書かないけど。。。
島の欧米系住民(中島は「帰化人」という)も詠まれている。「章魚木[たこのき]にのぼる童の眼は碧く鳶色肌の生毛日に照る」
中島が島に降りた時、子供達の終業式の日だったらしい。「通信簿人に見せじと争ひつつ子ら出てきたるタマナの蔭ゆ」
中島は島に子供を案内して貰って山に登った。「この島の山の案内[あない]をせむといふ少年の名を問へばロバァト」「豚の背に銀蠅あまた唸りゐてバナナ畠に陽はうららなり」
オガサワラトケゲと思われる描写「午後[ひるすぎ]の石垣の上に尾の切れし石竜子[とかげ]を見たり金緑の背[せな]」
ほかにも捕鯨船の船員や、航海中の景色、八丈から移り住んで五十年になるという翁、釣り人、夕方の椰子の葉などが詠まれている。

白秋のほうも検討してみないとなんとも言えないが、私感では中島のほうが島の人びとや目に映る風景の生き生きとした描写が面白い。白秋は3ヶ月もいて、島民とは上手くいかなかったから敢えてそういった生活の歌を詠まなかったのかもしれない。肺病を患い移住のために島に来た白秋と、航海の途中に数日寄っただけの観光気分の中島では視点が違うのも当然だ。
だからどちらが優れていると言いたいわけではない。題材の違いだけでなく、レトリックの点では言うまでもなく白秋が秀逸だ。
私がいいたいのは、今まで比較的注目されてこなかった中島の短歌に目を向ければ、もっと面白くなるんではないだろうか?ということ。
それこそ、百首近い歌から島の自然や生活様式や歴史を解説したら一冊の本が書けそうだし、観光ツアーでも使えそうである。(ツアーガイドのみなさん、ご検討ください。)
今回は簡単な概観しか紹介できなかったけれど、また機会があれば詳しく書いていきたいと思う。

「小笠原紀行」はちくま文庫『中島敦全集Ⅰ』に収載。


 補記:この「小笠原紀行」 を紹介する記事をを書きました。こちらからどうぞ。

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