『ハンナ・アーレント』再考 『風立ちぬ』に描かれた堀越二郎の人物像をめぐって

観てから一ヶ月以上経っても、まだ私に考えることを止めさせない映画がある。『ハンナ・アーレント』だ。

内容は他のところ(田中真知さんのブログなど)に詳しいからそこに譲ろう。この映画がアーレントの目を通して伝えることの一つに、ナチの上層部の戦犯を自分たち正常な人間とは異質として切り離してみる姿勢が危険だということがある。
描かれたアイヒマンは思考停止した国家に忠実な僕であり縦割りの官僚であり、悪人のイメージとはほど遠い凡人であった。それは同じく上層部であったハインリッヒ・ヒムラーやルドルフ・ヘスだって同じだろう。ナチズムの元凶を、経済問題の深刻さやヒトラーの演説の上手さなど特定の問題に帰結させるのは、戦犯たちと同じ思考停止だろうし、問題をうやむやにするのはなおさらである。アーレントはアイヒマンやホロコーストの本質を理解しようとし、アイヒマンの立場を考えて記事を書いたところ、ユダヤ人から「ユダヤ人批判」「アイヒマン擁護」などと猛烈な批判を受けた。

アーレントに対して、宮崎駿が映画化した『風立ちぬ』に描かれた堀越二郎に対する一部の評価は対称的だ。つまり、堀越は不幸な時代に左右されて結果的に兵器の開発という形でしか夢を実現できなかった。その時代にも強い意思と希望を抱いて生きた。そこまではよいが、だから罪は問えないとか、設計者に罪はないとか。今朝(3/5)の朝日新聞にはこんな記事が出ている。宮崎監督、分かってくれた 「風立ちぬ」伊の飛行機設計士の孫
イタリアで飛行機を設計したカプローニ氏は、戦後の反ファシズムの運動からはファシストのレッテルを張られ、戦争協力者として否定された。堀越二郎も同様の人物であろう。
私は映画の堀越しか知らず、実際はどのような人物であったのかは知らないが、映画では純粋に夢に向かって努力した人物として描かれた。不幸な時代によって、夢を叶えるためには戦闘機の開発という選択肢しかなかった。そのような形で戦争に携わった人間に、終わったからといってファシストといい簡単に悪者扱いできるものでもないだろう。

だがしかし、設計者に罪はないのだろうか。だとしたら原爆を開発した人間、あるいは基礎研究で影響を与えた人間達はどうだろう。アインシュタインも湯川秀樹も原爆に反対し苦悩したのはなぜだというのだ。アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを平和のために使いたいと切に願い苦しんだのはなぜだというのか?iPSなど再生医療の先端をゆく人間が生命倫理についても積極的に発言をしているのはなぜだろう。

もちろん戦争の時代に、夢を左右されたというのは大きい。しかし多くの"戦犯"だってそうである。彼らは戦後、戦争犯罪人としてニュルンベルグ裁判や東京裁判で裁かれたけれども、彼らは決して戦時の国内法に違反したわけではないのだ。彼らは国家に、法に忠実に従ったにすぎない。その中には自分の能力を活かして社会のためになりたいだとか、出世して認められたい、世界をもっとよくしたいと願っただろう。だからといって罪にならないというのは、中国の反日運動家の「愛国無罪」と同様ではないのか?
ようするに多くは普通の人だったのだ。与えられた仕事をやり、その中で自分の仕事を最大限にやる、そこに夢や情熱を託す者もいたし、家族や国、育った環境への思いを重ねる人もいた。
描かれた堀越だってそうだったのではないだろうか。

デリケートな問題であり、積極的な議論を避けるべき問題となる場合もある。しかし、田中真知さんは「無限につづくかに思われる犠牲とそれにともなう悲しみ。その前ではひとはどうしても沈黙せざるをえないし、そこには死者に対する敬意や哀悼も多分に含まれているのだと思う。だが、敬意から発した沈黙が、思考しようとする他者の声をも沈黙させ、思考停止をうながす無言の圧力になるとしたら、それはやはり暴力だ。」と指摘する。

ところで昨日の衆議院予算委員会で安倍首相は、荒井氏の質問に対しては「戦争をするつもりはございません」と答えたが、小池氏や福島氏に対して集団的自衛権の行使は武器弾薬の運搬のレベルでの問題だという主旨の発言をした。しかし運搬だって立派なOperation:軍事作戦ではないか。北朝鮮に武器を運搬すればどんなことになるだろうか。ユダヤ人の移送を担当したアイヒマンはエルサレムで絞首刑だ。移送後の「最終的解決(ようするに虐殺のこと)」は彼の所轄ではなかった。
戦争とは単純な戦闘だけではないだろう。関わる全てのものを包括してこそ戦争であって、その責任は集合的だ。

映画で堀越は美しく、純粋に描かれた。繊細な表現と相まって、観客の心に訴えたのだろう(私の心には響かなかったが)。だがそれが単純な、内面性の社会性への投影につながってはいないだろうか? 堀越がいい人間だったから、罪の意識はなかったから裁かれるべきではないという議論につながってはいないだろうか。それは極悪非道なホロコーストに関わった人間は極悪非道な人間に相違ないという議論と同じでナンセンスだ。結局は、やらざるを得なかったというだけで戦争に荷担したことに変わりはないのだ。仮にもし、堀越が倒錯したサディストであってそのために零戦を開発したのだとしても、心の中を裁く法律はない。
単純に非難すればいい問題でもなければ、単純に許せばいいという話でもない。まして映画を考えるきっかけではなくて鵜呑みにして現実と結びつけ、結論に短絡するというのは暴論だ。

理解することは、許すことでもなければ、支持することでもないのだ。
支持しない者を理解しようともしないことであり、理解したことで許そうとしてしまうことは大いに問題だ。
外側にいて一方的な見方によって批判・非難するのは簡単だが、本質は内側からしか見えてこない。

池澤夏樹さんは昨日の朝日新聞夕刊のコラム「終わりと始まり」のなかで、船橋洋一氏が3.11と敗戦への日本人の対応を重ね合わせた論考を参照し、リスクのタブー視、縦割り・タコツボ、責任と権利を明確にしないこと、非決定の構図などを「日本人は何も変わっていない」し、危機意識は「永遠にゼロ」だという。
だがそれを文化のせいにすれば反省の余地がなく、進歩がない。無責任。だとも指摘している。うやむやにはできないのだ。映画の繊細さに問題を重ね合わせて思考停止してまぁしょうがないよね、なんて言ってはいられないのだ。

アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』の副題は「悪の陳腐さについての報告(A Report on the Banality of Evil)」だ。誰もが悪に吸収される可能性を持っており、上層部だけに罪を問うことはできない。悪は一般の民衆の中に浸透する、陳腐な存在であるからこそ、肥大化し、悲劇を生むのだ。

アーレントは結論に、こう記している。「君が大量虐殺組織の従順な道具だったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変わらない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。」
この言葉が鋭く胸に刺さる。アイヒマンのように絞首台の上で「私は戦争の掟と国旗に従うしかなかったのだ」と言いたくはないもの。

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