変えられないものを、変えられないままに受け入れる知恵を

わたしが 生まれたのは、ちょうどバブルが崩壊した頃だった。世の中が上向きだと感じたことは、これまで生きてきてほとんどなかったように思う。政府の発表する経済指標がどれだけ実態を反映しているのかわからないが、実感としてはずっと、しずかに音も立てず沈んでいく生まれ育った国の姿が見慣れた風景のように、日常のなかを特に意味を持つこともなく通り過ぎていく、それが生まれてこの方つづいていた、わたしたちはそういう世代なのだろう。

10代が始まった頃。9.11同時多発テロがあった。ある朝目覚めたらテレビはいつもとは違う緊迫した雰囲気で、飛行機がニューヨークの高層ビルに相次いで突っ込み、人々が混乱して逃げ惑い、粉塵に飲み込まれていく姿が映し出されていた。それにつづくアフガン侵攻、バーミヤンの大仏の破壊、イラク侵攻……世界は混迷をきわめていても、まだ他人事のように、親しんだアニメやテレビドラマは夢に満ちていた。大人になったらこんな恋愛をして、結婚をして、幸せな家庭を作る、幸せのありかたがひとつに定められていて、でもみんなそれに従って生きていれば幸せでいられる。未来は輝かしいもののように思えた。その大きな物語の狭間で、苦しむ人の声など聞かずに生きていられた頃。

20代が始まった頃。東北で大きな地震があって、たくさんの命が——それは人間のいのちだけでなく、動植物も、ふるさとも、ひとびとの記憶の中のたくさんの命が——失われていった。首都圏の交通機関も麻痺したあの日、帰宅する手段を失い学校で一夜明かしたわたしは、大津波に街が飲み込まれていくさまを見て、人間の無力を思い知り、言葉を失った。いっときに奪われたたくさんの死と向き合いって言葉を取り戻すまでに、長い時間が必要だったし、それはまだ十全に恢復されたとは言えないだろう。あれはまた、この社会の綻びが見え始めた10年の、はじまりだったのかもしれない。命を蔑ろにする政治を前に、国会前で、家の中で、ときには布団から出られずに、いくら声を挙げても、切実な小さな声は、国の代表として選ばれた人たちにはちっとも届かなかった時代のはじまり。

30代が始まった頃。新しい感染症の猖獗と蔓延で世界は混乱し、だれもが孤独へと追いやられた。ややもすれば身近なだれかに病菌をうつしてしまうという恐怖、人が親しくすればするほど、相手を感染させるというウィルスに怯えて、世界は凍結した。なんの意味もないように思えた、顔をあわせて心に浮かんだとりとめもないことを喋る時間が、どれだけの意味を持っていたことが気付いたのは、それが失われてしまってからだった。いまもまだ、取り戻すことはできていない。

そんな世界でわたしたちは、どれだけの夢を持てただろうか。そしてその夢のどれだけを、実際に手に入れることができただろうか。訪れた、あの時にとっての“未来”は、期待しただけの価値はあったのかな。現実が悲惨だとも、つらいものだとも思わない。思い描いていたのとは、ずいぶん異なっているけれど。

「人生」とはもっと大きなものだと思っていた。そしてその「大きなもの」を手に入れられれば、生まれてきた価値があったと実感できるものなのだと。大人になったらユーミンの歌みたいな恋に落ちて、その恋ひとつでモノクロだった人生に色彩が生まれて、仕事ではなにか大きなことを成し遂げて、それで子供たちと家庭を築いて幸せに暮らす……人生はそんな単純な物語に回収できるほど単純でないと気付くには、それなりに時間が必要だった。そうでない、毎日を必死で苦しんだり悩んだりしながら生きる凡庸な生活の方にも、かけがえのない意味があるのだと気付くには、さらに多くの時間が。

何者かになりたかった。成功してお金も名誉も手に入れれば、生きることは苦しくないのだろうと、思っていたのはきっと生きることがずっと苦しかったことの裏返しではなかっただろうか。そんな夢が現実になったところで、自意識をお金とか名誉みたいなものを求めてそれにすがって生きている限り、自分の外にあるものに頼るのをやめなければ幸せになれるはずもないのに。



成功が努力と結びつけられるようになったのはいつ頃からだろうか。成功した人たちはこんな努力を重ねてきた、だから君もこんなふうに努力すればいつか成功できるはずだ……そこに論理の飛躍があることにも気付かず、ただ努力すれば成功する、成功しないのは努力が足りないからだという、安っぽい文句を鵜呑みにして、生き急いでも結局無力な自分を感じてはすり減るだけだった。

どんなに努力しても手に入らないものはあった。生まれ落ちた環境が違えば、スタートラインがそもそも違う、生まれ持った才能も違う、努力して伸ばせるものは伸ばせても、苦手なものは苦手なままだし、どんなに努力しても届かない目標があることも、生きていればだんだん分かるようになった。それを知ることは、諦めとか挫折ではないのだと思う。わたしたちは自分のことを分かったつもりでいるかもしれないけれど、本当に知っていることは僅かなのだ。生きて経験を重ねるうちに、自分のできることとできないことが、少しずつ分かってくる。だから自分の向いている方向に夢や希望を合わせていくこと、手に届く範囲の幸せを願い、その先にある手に届くものと届かないものを冷静に見きわめることは、諦念ではなくて、堅実に生きるための知恵なのだ。きっと。

そして手に届かないものに手を伸ばして落ち込むことに心を摩耗するのではなく、努力すれば手が届くものが世の中にはたくさんあるのだということ、それは一生をかけても手に入りきらないほどたくさんの果実が、収穫を待っているのだということに気付くためには、手に入らないものへの憧憬を棄てなければならなかった。棄てたときにはじめて、未来は果てのない可能性に満ちていることに気付くことができた。

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ
「ニーバーの祈り」

思えば遠くまで歩いてきた。でも歩いて来た道のりほどに、遠いところまで辿り着けただろうか。むしろひとつの場所のまわりを、ぐるぐると迷っていたようにも思う。それでもたしかに、進んできた道のりがあった。遠回りでもあった。それは変えることのできないものを、必死で変えようとしたり、変えることのできるものを変える勇気を持たず立ち止まって逡巡してたからでもあった。その遠回りのひとつひとつを経て、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵というのが僅かでも身についたのではなかったか。

それでも世の中を見渡せば息苦しく思う。たくさんの言葉が溢れていて、人に寄り添うよりもむしろ、人を出し抜いたり貶めたり、ひとをなにかの方向に誘導するような言葉が目立つから。なにもかもが自分で変えられる、変えれば上手くいく、そういう空疎な言葉が飛び交うのは、やはり何かを変えたい、変えなければならないと焦る人の心に付け込んでいるのではないか。変えられないものを、変えられるもののように錯覚させる言葉は魔術的で、人を万能感に陶酔させる力を持っている。所詮それは、まやかしにすぎないけれど。

自分の弱さや無力を認め、引き受けることは難しい。諦念や撤退が、悪いことかのようにすり込まれているから。繊細な心ほど支配されやすい。なぜならその繊細な心は、みずからの無力を自身の責任の領域へと押し込み、さらなる努力へと追いやるからだ。それはつねに闘い、アイデンティティを提示させられ、努力させられる世の中にあってはなおのことだ。

訳に立つことばかりが求められる世の中で、変えることのできるものと変えることのできないものを識別することは、ますます難しくなっているのではないか。大学には企業や組織ですぐにでも働けるスキルを持つ人材(人材なんて言葉、吐くほど嫌いだ)を育成することが求められて、学生もまた、就職のための実績作りに躍起になっているようだ。いくつもの回り道をした時間が自分のやりたいことやできることを見つける旅路になった自分にとって、役に立つ人材になるための教育というのは、若者の未来を応援しているように見えて、じつは彼ら彼女たちの未来の可能性を狭めているようにさえ見える。

植え付けられた夢が、孤独な経験と交錯するなかでその魔術がそぎ落とされ、現実に即した希望となる、それには長い時間が掛かるし、振り返れば無駄に見えてぜんぜん無駄ではなかったと思えるような時間と資金の浪費が必要なのだと思う。合理性も経済性も即効性もない、ただ自分のためだけにあてもなく彷徨う時間が、冷静に現実を見て、夢を希望へと書き換えるための勇気と知恵を与えてくれる。世の中にその浪費を、無益だと断ずるのではなく、豊かさのための必要な余白だと許容するだけのおおらかさがあってほしいと願う。



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