学ぶ機会を失わせないために:棚(その3)あるいは好奇心の余白

はじめに

 感染症の猖獗を前にして、大学だけがいつまでも再開の目処が立たない現状に、多くの学生が苛立ち、肩を落としている。小学校から高校までは授業が再開されても、多くの大学はおそらく今年度はオンラインをベースに、一部に対面を取り入れた形の授業が続くことになりそうだ。例えるなら満席の劇場で、何十と入れ替わり立ち替わりで興行がなされているような場所を秋学期から再開するべきだともわたしは思わない。大学は学生の学びの機会を失わないために最大限の努力をしているし、学生にも大学側にもそれぞれの苦労があるだろう。なにが現時点で正解なのかを示すことも、わたしにはできない。

 大学に行く意味はおそらく、人の数だけある。ここではわたし自身の学生時代を振り返りつつ、大学が学びの機会を毀損しないためになにをすべきなのかを考えたい。


なぜ大学なのか

まず、本題からは少し離れた話題から始めることをお許し願いたい。

「あの先生は自分の書いた本を教科書に指定して学生に買わせて印税で稼いでいる」などという噂がまことしやかに囁かれていた学生の頃。要りもしない本を「買わされる」学生にとっては理不尽な思いがあったらしいが、出版に多少の知識さえあれば明らかなデマだと分かる。

 一口に教科書といっても、『基礎○○学』のようないわゆる「教科書」の類もあれば、商業出版された一般向けのものも、比較的高価な研究書もある訳だが、いずれの場合にしても学生に買わせることで教員の懐が潤うような場合はほとんどない。商業出版でも印税率は消費税程度である。分担執筆の教科書であれば印税を著者数名で割ることになるのであっても雀の涙程度になってしまうし、そもそも教科書の類は印税がない場合も珍しくはない。研究書に至っては印税どころか請求書(それも百万円程度)が届く場合が多いので、皆さん出版助成を受けて出版するのである。

 さらに執筆にあたって相当の時間と資金が掛かるのだ。研究書一冊出すのに、数年は掛かる訳だし、その為の資料代も、すべて自費で購入していれば相当の額に及ぶ。分野にもよるだろうが、人文系なら博士論文提出までに「(借りるのではなく)手元に置いておきたい本」だけ揃えても軽自動車が買えるくらいの金額になる人が多いのではないかと思う。単著の商業出版でそれなりの額が入ったとしても、その研究に掛かった時間で割れば最低賃金にも遙か遠く遠く及ばないか、資料代を差し引けば持ち出しということだって少なくない。よほど話題となるようなヒット作を書かない限り、大学教員としての収入と比べたら、問題ではないくらいの額でしかないのである。さらに学術書はマーケットが限られており、重版が掛からなくて品切や絶版になることも多いので寿命が短く、別に儲かる仕事ではないのである。

 それなのに研究者はなぜ本を書くか。第一に研究者が研究者たる所以として、新しい知識を発見し、世に問うためである。この作業なしに研究者が研究をするということはできない。学問分野にもよるが、人文系や社会科学だと概ね探究したテーマをまとめると論文の1本や2本に収まらないのである程度区切りが付いた時点で書籍として刊行するのである。そこに批判や研究蓄積が加えられて、学問が発展していく。そして第二に、研究実績を作るためである。研究者としてなにがしかの地位に就くためには目に見える形の実績が必要であり、査読論文や研究書の量と質が重要になるからだ。第三に、知識を普及させて人類の発展(控えめにいえば、他の研究者や後進の研究や勉学)に資するためである。教科書として使われるのはこのためだ。

 教科書に指定しなくても、その内容を授業で教えてくれれば良いではないか、という立場もあろう。しかし書かれたものとしてテキストがあることは、実は非常に効率的なのである。

試しにツイートでもこの記事の一段落でもいい。音読するのと黙読するのでどちらがどれだけ早いか比べてみればいい。日本語は特に、音節が多いので読み上げるのに時間が掛かる。一方、読むことに注目すれば、読書の時間の8割は文字を目で追うことに掛けられているとも言われ、1文字で意味を表すことのできる漢字は黙読にあたってとても効率が良いのである。書かれたものが手元にあれば忘れても調べられるし、分からなかった箇所はは何度でも読み返すことができるのも教科書の利点である。


 最近では様々な知識がYoutubeで伝えられるようになったけれど、わたしはつねづね、文字にして書いていただいた方がありがたいと思っている。10分の動画でも文章なら2,3分で読めるし、きっちり読む前に自分に必要な情報なのかどうか、斜め読みして取捨選択することもできる。正直なところ、対談や議論ならいいとして、ただ人が喋っているだけの動画を見る意味というのがあまり分からない。


 要するに授業で伝えられることなんて教科書に比べたら、ほんの僅かなのである。わたしは学費の高い私立大学に通っていたのだが、計算してみると2単位の授業に8万円程度支払っていたのである。その知識と同じだけの内容の書物を買えば数千円で収まると考えれば、本というのがいかに効率的で、安価であるかが分かるだろう。


 学生の頃から、馴染みの薄い分野について知りたいときはいつも基礎科目の授業を履修するよりも先に、放送大学のテキストを読むことにしていた。一流の研究者が初学者向けに丁寧に執筆しているし、頻繁に更新されており、なおかつ大抵の公立図書館に置いてあるので入手しやすい。


 音声で伝えられる言葉が無駄だという意味ではない。場に密着して語られる言葉にはそこにしかない価値があるし、対話を通じてリアルタイムで掘り出される言葉もある。わたしは普段からラジオを聴くけれど、話し言葉を通じて発見を掘り出していくことは対話でしかなし得ない。とくに一つの話題について最前線で活動家を招いて深掘りするのは地上波のラジオだからこそできることだろう。話し言葉には話し言葉に適した領分があるということだ。


 だから大学なんて行かないで本を読もう、などと単純なことが書きたい訳ではない。わたしたちが大学に対して期待していたことと言えば、単なる知識の伝達以上の価値であったということだ。教科書は知識のバックアップと備忘録であるとして、授業にはなにか、それ以上の意味があるはずだのだ。


では、授業の意味とは?

といったところで、正直なところ分からない、というのがわたしの答えである。大学は学問の場であることを前提として話を進めればある程度の結論は書けるのだが、実際のところ、学問を期待して大学に入る人が現在、どれくらいいるのだろうか。だから建前を前提として書いたところで正論っぽいことが言えるだけになってしまう。それよりも大学に行く意味ってみんな違うけれど、それぞれに価値がある、という前提に立った方が実りある結論が得られそうだ。だから正論っぽいことを書く代わりに、わたし自身の話をしようか。


 同級生からは何年か遅れて大学に入ったわたしは、たぶん他の学生よりもずっと勉強がしたかった。大学というのは、知りたいことを知るためには最高の環境だった。そのための図書は充実していて、ない本はリクエストできて、分からないことがあれば専門に研究している先生に尋ねることもできた。


 しかし単に知りたいことを知るだけで満足のゆくものだったかといえば、そうではない。大学に入って間もない頃、レポートの書き方も引用の入れ方も分からずに、友達と教え合ってなんとか完成させたこと。空いた時間には芝生の上で友達といろいろな話もした。大抵がたわいもない話題で、口をついて出た傍から忘れられていくような言葉だったけれど、なかには今になっても忘れられないこと、いやむしろ、今だからこそ忘れられなくなってしまったという方が正しいかもしれない、そんな言葉もある。世界を飛び回る先輩たちに憧れて、夏休みを目いっぱい使って旅に行った。一見大学の勉強とは関係ないことでも、あの大学に行ったからこそできた経験なのだと思う。


 一見無駄に思われた時間のなかに、掛け替えのない学びがあった。余白を持っておくことが大切なのだ。知りたいことを効率よく吸収しようとするだけでは、自分の可能性は広がらない。目的に対して最小限の努力で到達するためには、余白はない方がいい。ビジネスは概ね、そういう考え方で進むものかもしれない。


 だけど学問は逆だ。社会の余白で行うものだ。誰も知らないものを知ろうとする。誰も解いたことのない問いの答えを探す。誰も歩いたことのない道を歩くことだ。最短距離で辿りつける訳がない。地図もない道を彷徨うように、遠回りしながら答えを探すことだ。


 尊敬する先生は、「分かりやすい授業」をしないことを心がけていた。大学は単なる情報の伝達の場ではなく、知を鍛え合う場であったほしい、という思いから、敢えて意地悪な授業を心がけていた。それに触発されて、授業外で関係しそうな本を読んでみたり、それがぜんぜん見つからなくて、気付けば何十冊も掘り返してみたり、どうしても分からないと悔しいけど先生に質問に行ったりして、モヤモヤを解消した。


 そう。分からないから人は分かろうとする。そのために様々な工夫をしたり、人の助けを借りたりして、答えを探す。見つけたと思った答えが間違いであることも多い。その試行錯誤の過程があるから新しいものが生まれてきたりするものだ。


 授業に出席するよりもずっと図書館で過ごす時間が多かった(授業をサボった訳じゃないよ)。思考に行き詰まると図書館を宛てもなくぶらぶらと歩き、本棚を眺めた。検索機では見つからなかったであろう本を手に取ったり、雑誌のバックナンバーを漁ったりして、新しい何かと出会おうとした。授業の時間が無駄だったのではない、むしろ貴重な授業の中から知の原石を見つけて掘り出すための準備をしていたのだと、いまになっては思う。


出会いは余白から

 出会うということは、意図してできるものではない。知りたいと思っていたことの外側にあるものに、ふと邂逅する。教養として、興味のない科目も履修させられることも、様々な背景を持った学生と机を並べて学ぶことも、知りたいと思わないところに、可能性を広げる種がある。知りたいことを知るだけならアマゾンで本を買えばいい。その方がよっぽど安上がりで早いのだ。知らないことと出会うためにわたしは大学に行ったような気がする。学問だけではない。自分では生きられない人生を生きた人と出会うこともそうだし、ぶらぶらキャンパスを歩きながら思索を巡らせたこともそうだ。


 買いたい本がなくても本屋に行くことや、読みたい本がなくても図書館に行くことは、読みたいニュースがなくても新聞を読むのと同じことだ。気付いていない無関心の可能性に、つねに心を開いておくこと。好奇心の余白をいつでも用意しておくこと。わたしが大学に求めていた価値とは、ある意味では余白との出会いだったのかもしれない。


 授業がオンラインに置き換えられたなかで、大学が今まで持っていた価値をどれだけ保てているのだろうか。学ぶ権利を奪わないことは必須のこととして、対面で行われる講義をそのまま再現したオンライン授業を続けるのだとしたら、それは単なる知識の伝達に過ぎない行為に留まってはいないだろうかと心配になる。


 大学や学校が教えてくれた一番のことといえば、学校が何かを教えてくれる場所ではないということだ。教えてもらおうと思っているだけでは何も学べない。だけど自ら学ぼうとすれば、無限の知の扉が開かれていることに気付く。


 知の扉は案外、もろいのかもしれない。知りたいことを自由に探究することは、社会が平和で、人の権利と尊厳が守られているからできることなのだと歴史は示してきた。先人たちが少しずつ手に入れてきた自由がまた、病菌によって奪われていく。それでも扉が閉ざされてしまわないためにいま、各方面から不断の努力が行われていることに敬意と応援の意を表しつつ、余白をいかに確保していくかが重要であるとわたしは叫びたい。


余白を取り戻すために

 たとえば大型書店や公立図書館が条件付きで再開されているのにもかかわらず、図書館が閉鎖された大学も未だにかなり多いというのは憂慮すべき事態だ。宅配サービスなどで学問に差し支えないような努力が行われていることはとても良いことだが、目的に合致した本だけしか手に取れないのは余白がないということだから。そして学生同士で胸襟を開いて話し合えるキャンパスを確保すること。どこの大学も京都産業大学の二の舞になることを恐れている。企業や飲食店でクラスターが発生しても企業名や店名は話題にならないのに、なぜか学校でクラスターが発生すると学校名や部活が報道され、鬼の首を取ったように叩く人が続出するのはなぜだろうか。それが子どもや学生の居場所をさらに狭めてしまうというのに。


 ひとこと、京産大の学生と同じ時期に海外にいた人間として言わせてもらえば、外務省が感染症危険情報をヨーロッパの一部に発令したのは3月9日である。それよりも一週間前の旅行を中止できるような判断力のある人間がいるとしたら、今すぐ国会議員になった方がいい。こういう前提も共有せず報道するメディアの責任も、学生を守るためには問われなければならないのだと思う。


 感受性の瑞々しい時期に多様な価値観に触れることは、その後の長き人生において重要な経験となる。言い表せないくらい様々な背景を持った学生の集うキャンパスで、それぞれの思いを大切にしつつ、自由に対話を重ねられた学生時代は豊かな人生を基礎づけてくれた。閉鎖されたキャンパスが、知の扉を閉ざし、心にまで鍵を掛けてしまいそうな事態を、わたしはとても残念に思う。かつて学生であったひとりの人間として、いまこの瞬間も、大切な時間が失われていくことがとても心苦しい。


 もしこれを読んでいる学生の方がいれば、どうぞオンライン授業に魂を吸い取られたりせず、心に余裕をもって、本屋で立ち読みしたり(お金があればぜひ買って本屋さんと出版社を応援してね)、散歩して日々移ろいゆく景色を楽しんだり、博物館に行って乾いた好奇心を潤わせたり(学生証を見せれば無料で見られるところも多いので)、イベントや飲食店で新しい出会いを見つけたり、なにか心の余白を探究するような時間の過ごし方を見つけて、有意義に過ごしてください、とわたしは言いたい。

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