「おすすめの本」

訊く人にとっては、なんてこともない、悪気のないコミュニケーションとして、あるいは好奇心から来る言葉なのかもしれない。何を求めているのか分からない。漠然と、おすすめの本ないですか、などとよく尋ねられる。映画のこともある。端的に言えば、「んなもんねぇよ」というのがわたしの答えである。

人によって美しいと思うものや好きなもの、抱えている問題、目指している方向、求めている言葉、いままで好きだと思えた本、好きな人、嫌いなもの、いろいろとあるはずで、それもよく分からないままに人に本を「おすすめ」などできるはずもない。それはたとえるなら、最近調子悪いんだけど、なんか薬出してくれない? と医者に訊くようなもんだろう。人に本を薦めることもあるけれど、だいたいが気心の知れた友達であったり、その人の書いたものなどを読んで考えていることや関心を知っている人などであって、そうでなければ、せいぜい「この本良かったよ」という個人的な感想しか言えない。「おすすめ本」を書かなきゃいけないシチュエーションだと、仕方ないから『乱菊物語』とか『たまたまザイール、またコンゴ』を書いておくけど。

自分の感性に響いたからといって、他の人の感性にも響くと思うのは、短絡的というか、傲慢ではないか。親しくもない人に、わたしの感性を分かったつもりになられて本を「おすすめ」されると、私的領域に土足で踏み込まれた気分になるし、それが概して独りよがりな趣味であったりするので辟易する。自分の趣味の領域に、他人に安易に干渉されたくないという人が、一定数いて、いわゆる「内向型」のタイプに多いということ、特に信頼関係も、その人の好みへの理解もないままに、自分が気に入ったからという理由で読むことを迫れることが、非常に苦痛で、ときには侮辱のようにさえ思えてしまうことがあるということは、覚えておいたほうがいい。わたしの本棚の本、せめて半分は読んでから「おすすめ」してみたら? 本当にそれをわたしが気に入ると思うわけ? と思うのである。

尊敬する人が、どんな本に影響されてきたのかを訊きたいことはあるけれど、それは「おすすめ」を訊いているのではなくて、影響を受けた本とか、読んで良かった本を訊くことになるはずだ。

誰かを指導する立場であれば、本の推薦はできる。たとえば大学の教員であれば、その学問分野で研究のお手本になるような本や議論のたたき台になる本を学生に推薦するだろう。仕事における指導的立場であれば、きっとその仕事のために必要な知識や心得の書かれた本を薦めるだろう。それは学問や仕事という共通の目標があるからだ。でも個人の自由な選好が許される、余暇で読む本に共通の目標があることなんてない。人に「おすすめ」される本、これはどういう基準で選ばれたものなのだろうかと、勘ぐってしまう。

ここまで読んでいただければ分かると思うが、わたしは随分とひねくれた趣味をしており、村上春樹なんて大の嫌いだし、通俗的なものを忌避しているので、ベストセラーや話題の本なんてほとんど読まない。去年のベストセラーで読んだのは十二国記と『独ソ戦』くらいだった。あとは、ひたすら自分の美しいと思うものを求めて読み続けるだけだ。

題名に「美しい」と謳う本が何年か前から目立つ。『世界でいちばん美しい○○』とか、『美しい世界の○○』みたいな本。だけど思う。美しいかどうかは読者それぞれが感じることであって、端から読者に受ける美しさを意識したものなんて、最大公約数的な美しさを集めただけの、陳腐なものになりがちだ。人それぞれがもつ多様な美しさに訴えかけるものではない。ひとことで言ってしまえば、つまらない。

去年の夏、十代に向けた本を紹介する朝日新聞書評欄の記事で、詩人の最果タヒさんがこんなことを書かれていた。

10代の人たちが今読むべき本について、書いてほしいという依頼をいただいて、まず思ったのは、他人から「今読むべき本」として紹介される本が、彼らの血肉になることなどない、ということだった。少なくとも私はあの頃そう思っていた。そして同時に、私が愛する本は、言葉は、いつも「私にしかわからない」ものにしか見えなかった。
たとえそれが有名な作品であろうとも、この本当のすばらしさはきっと私しか知らず、他人に教えるつもりもない、「あなた方にはわからないだろう」と決めつけることが、空っぽにしか見えない自分の境界線を、唯一守ってくれていた。勘違いであるとか妄想であるとか、そんなことは何の意味もなさない指摘で、そう思い込めるというそのことが、私が私だけの感性を磨くために必要だったのだ。(「ひもとく 本棚の常備薬① 10代のあなたへ」詩人 最果タヒ『朝日新聞』東京本社版2019年8月3日)

わたしにも心当たりはある。思春期の繊細な感受性にとって、他人との境界を必要以上に強く意識することで自我の領域を線引きすることは、もろいアイデンティティを守るために必要なことだったのだろう。いまではもちろん、自分にしかわからないとかたくなに思い込むことはしない。自分の心に沁みる本は、自分と同じような価値観や問題を持っている人にはきっと、沁みるのだろうとも思う。一方で、価値観を共有しない人、あるいは世間一般とはやっぱり、感性の距離を感じるばかりだ。

十代の頃に田村隆一の詩集『腐敗性物質』に出会った時のことを、タヒさんは続けて書いている。

同級生と盛り上がるため、みんなが好きな曲ばかり聴いて、その場に必要なリアクションを撮ることに必死になった。思ったことや言いたいことより、場が求めているものを発する存在になっていく。それが楽しい日だってあるからこそ、抜け出せなくていつのまにか、誰にも伝わりそうにないこと、誰も共感してくれなさそうなことを考えること自体、避けてしまう。でも本当は、隣にいる同級生は、ただの他人だ、わかりっこなくて当然なんだ。「みんなが好きなもの」はみんなで決めればいい。でも私は「私の好きなもの」を自分の部屋で、図書館で、レコード店でこっそり決めるからよろしくね。そういうことが「空気読めない」「ダサい」ことじゃないってわかったのは、この強烈な詩集を読んでから。
自分の好きなものを、自分じゃない周りの人とか、流行のものに重ね合わせていくことで、周りと上手く付き合うことができる十代。それは同時に、自分をスカスカにしていくことでもあった。タヒさんは田村隆一に出会った(私も高校生の頃、大好きな詩人だった)が、わたしが指針にしたのは太宰治の東大での講演「諸君の位置」だった。

世の中に於ける位置は、諸君が學校を卒業すれば、いやでもそれは與へられる。いまは、世間の人の眞似をするな。美しいものの存在を信じ、それを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは在るのだ。學生の期間にだけ、それは在るのだ。
学生たちは、世間に自分の居場所が見つからなくて躍起になっている。だけど俗世の呪縛に絡め取られていないからこそ、美しいものを探究することができる。その特権的な立場、魂の自由をできるかぎり活かして、美しいものを探すべきなのだ。「社会人」になったら、それを見つけることは、できなくなるから。

他人がどう言っているかは関係ない。売れてるかどうかもどうでもいい。好きな人が薦めているかどうかも、関係ない。面白くなくても役に立たなくても分かりづらくてもいい。美しいものを見つけるのだ。最上級の美しいものを。

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