一生を終えてのちに残るものは

修論を書き終えたのでひとまず本棚を整理し、懐かしさに浸りながら十二国記を読み散らかしていたところ、父から連絡が来た。祖父が持っていた本を送るから、いつなら都合がいいか、と。

昨年の末、まさに年が暮れようかという頃、祖母が入院した。救急隊からの電話が入った時、自宅にいたのはせっせと執筆に勤しんでいたわたしだけだった。救急搬送されたという知らせに狼狽したものの、話を聞けば足を痛めて歩けなくなっただけだというから、両親に取り次いでわたしは再び修論に取りかかった。

年が明け、その祖母の様子を見に行った父が、この期にようやく祖父の遺品を整理する気になったらしい。父が送ると言った本は、小学館の『原色日本の美術』20冊と土門拳の写真集『古寺巡礼』5冊である。この祖父の蔵書がいつの間にかわたしの元にやってくることに決まったのか、わたしは覚えていない。おぼろげな記憶にあるのは祖父が他界して数年のち、祖母を訪ねた際に「駿ちゃんこんなん好きやったから、貰ってくれるなぁ?」などと訊かれ、答えに詰まっている間に父と祖母の間で決着したようだった。

いずれも函入りの大型本である。段ボール5箱に分けられた本を宅急便の配達員のお兄さんが運んでくれたのを見て、途方に暮れた。つい先日片付けたばかりの狭い部屋を再び整理して、置く場所を捻出せねば。

蔵書を整理するのは苦手だ。何年か前までは、買った本は人にあげることはあっても、売らないという姿勢を貫いていたが、そうも言っていられなくなった経緯は前回書いた通りだ。処分する本とそうでない本の区別などわたしにはできないし、整理しているうちに、気になったり懐かしかったりして読み出した本に浸ってしまい整理がそっちのけになることだって、往々にしてある。

田中真知さんが、『旅行人』のエッセイで、こんなことを書いていた。「本というのは、その中の文字情報だけで成り立っているものではない。仕事の資料ならべつだろうが、本の場合、それを買ったときのことや、読んだ時の記憶などと結びついているものが少なくない。たとえ中身は開かなくても、ランダムに並んだ背表紙を眺めながら記憶の淵をただよっているだけで、いろいろなことを思い出したり、思いがけないアイディアが湧いてくることがある。いまは読まなくなった本を手放して、必要な本だけしかおいていない本棚は、効率的かもしれないが、逆に意外な発想などあまり浮かばなくなってしまうのではないか」(「道草するように旅したい」『旅行人』2009年上期号)そんな真知さんは、整理術の本を読んで整理しようと思ったが、結局の所、整理術の本を整理してしまったそうな。

「すぐに役に立つ本はすぐに役に立たなくなる」という名言は、たしか戦後間もなく書かれた小泉信三の『読書論』(岩波新書)の文章だと記憶している。わたしは、すぐに役には立たないような本、つまり文芸書や人文書や美術書ばかり買っているから、いつまでも手元に置いておきたいのだと思う。今回処分してしまった本は、軽い知識の寄せ集めであったり、読みやすくて消化しやすい、どちらかといえば「すぐに役に立つ」タイプの本ばかりだった。

柔らかいものばっかり食べていたら堅い物を咀嚼できなくなるから、古典を読みなさいだとか。離乳食みたいな概説書ばかり読んでても身につかないとか。分かりやすさや面白さで買う本や取る授業を選んではいけないとか。いろいろな人に言われた。そしてその方針で本を買い集めて(買い漁って)来たからこそ、どうしようにも処分のできない本棚(というか、そこから溢れる本の方がおおい)になってしまった。

前回のブログに「本棚には、理想の自己が投影されている」と書いたけれども、ほぼ同じことを十年くらい前に内田樹さんが『街場のメディア論』のなかで書いていたことを、最近知った。内田樹は「自分の本棚は僕たちにとってある種の『理想我』」であり、「『こういう本を選択的に読んでいる人間』であると他人に思われたいという欲望が僕たちの選書を深く決定的に支配している」という。そして、「書棚に並んだ本の背表紙をいちばん頻繁に見るのって、誰だと思いますか。自分自身でしょう。自分から見て自分がどういう人間に思われたいか、それこそが実は僕たちの最大の関心事なんです。[中略]とりあえず『そういうものを読むような人間になりたい』という自分の願望ははっきり自分宛てに開示されている。」

たぶん、蔵書がある程度より増えてくると、積ん読とかではなくて、まだ読んでいない本も本棚に並ぶようになる。それは差し迫って読む必要はないけれど手元に置いておきたい本であったり、買えるうちに買っておいた本であったり、貰ったけど読んでない本であったり、いつか読もうと思っている本であったり、様々だ。それも含めた「理想我」としての本棚が、些かナルシスティックな恍惚を呼ぶことも確かだ。

それ以上に、本棚は抽斗だ。思考に行き詰まったとき、新しい発想を求めるとき、迷ったとき、眺める本棚から、答えがふと浮かび出てくる。すぐには役立たなかった本が、わたしに光を与えてくれるとき。苦労して読んだアーレントやレヴィ=ストロースも、浸るように読んだ鏡花も柳田國男もきっと、わたしの血となり肉となり、光明をもたらしたのだとおもう。きっと……

それでもなお、祖父の集めた大型本が、届けられたときは辟易した。わたしが幼い頃に失踪し、物心ついてから始めて会った時にはすでに病弱であった祖父とは、あまり長い時間を共に過ごせなかった。その祖父が大きな本たちにどのような思いを見出していたのか、わたしには想像もつかない。当時は苦労して集めたのだと思う、高価な本だ。それも今となっては二束三文、古本屋に持って行ったところで、全冊揃でも当時の一冊分の値段にもならないか、あるいは値段もつかないで処分されてしまうのだろうと思う。だけど祖父にとっては、なんらかの思い入れがあり、記憶があり、それが祖父の仕事や趣味にいくらかの光を与えていたのだろうか。処分するという考えも過ぎったけれど、わたしは祖父の思いに近づきたくて、それを当分は手元に残しておくことに決めた。

わたしが苦労して集めた全集や、血を吐く思いで買った専門書や稀覯本も、いづれはきっと、同じ憂き目に遭うだろう。中島敦の文字禍を読む度にいつも、身につまされる思いをする。大きな地震でもあれば、わたしはきっと本の下敷きになって死ぬだろう。その後、蔵書はどうなるのだろう。

本棚を片付けていて、高校生の時に読んだ三浦綾子の小説に引かれていた、「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなく、われわれが与えたものである」という言葉を思い出した(『氷点』だったかと記憶している)。残された人たちは、亡き人が集めた物の前に閉口し、辟易することの方が、多いのかもしれない。だけれど亡き人たちがわたしたちに教えてくれたことは、ずっと心の中に残っている。

たぶん、わたしが一生を終えてのちに残るのは、わたしが読んだことではなくて、わたしが書いたことのほうだ。拙い言葉でも、お金にならない小さな、力のない言葉でも、わたしのふとした言葉を欲している人が、この世界のどこかにいるのかもしれない。辛かったとき、わたしを勇気づけてくれたのは、書物の中の言葉だけではなくて、ネットの片隅に転がる、悲痛な叫びのような言葉だったり、小さなつぶやきだったりしたこともある。だからこそわたしは、書き続ける。

「人は、他者の記憶の中でしか死ぬことができない。また、その死は、残された者たちの中で生きる多様な物語が続く限りのものなのだ」と、文化人類学者・言語学者の西江雅之さんは書いていた。死んだことは生きていたことの証しであって、残された人が死者を記憶に留めている限り、その人の生きたことも死んだことも、無にはならない。できることなら、誰かの心の中に、留まり続けるような言葉を書きたい、と思う。

知性に憧れる学生(学ぶ人)であれば誰でも、蓮實重彦の『表層批評宣言』の書き出しには痺れたものだろう。よく、難しいことを難しいまま伝えるよりも、分かりやすく伝える方が難しいなどという、だけれども、誰にでも明快に分かるような文章を書くよりも、きっと蓮實先生のような文章を書く方がよっぽど難しいし、それは、誰にでも書けるような言葉ではない。わたしは怠惰な日常さえも風雅に歌い上げる荷風の文章に胸を打たれ、赤坂憲雄さんの美しく丁寧な言葉の運びに憧れた。

言葉の美しさで飯が食える訳ではない。でも、文章の書き方をすぐに役に立つようなかたちで身に付けたところで、通り一遍の陳腐な表現ができるようになるのが関の山だ。わたしに荷風のような言葉が、書けるようになるかは分からない。だけど理想我として荷風全集が本棚にある限り、わたしはそれに向かっていくことができる。

集めた本は、死んだ後に残らないかもしれない。だけど、死んだ後に残したいものを手に入れるために、集めることにはきっと、意味がある。

いつだって死を意識して生きられるほど、わたしは達観した人間ではないけれど、本屋でレジに並ぶ前に、ふと立ち止まって、わたしが死んだあと、この本の言葉がわたしの言葉を経て、どんなふうに残るのだろうかと、想像してみよう。

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