全集の魅惑

全集のある本棚に憧れを抱くようになったのは確か、グレて学校に足が向かなくなった頃のことだったと記憶している。日々の勉強や暇つぶしには高校を離れて区立の図書館を使っていて、休憩がてら文学作品や旅行ガイドを読み耽った。いつも座っていた机の傍の棚には石牟礼道子全集・不知火が並んでいて、当時は読み方すら知らなかったけれど手に取ってみたらその繊細な言葉の運びに引き込まれてしまった。河出書房の世界文学全集が出る前のこと、『苦界浄土』は単行本で第一部しか出版されていなかったから、三部作を読破するためには全集を読まなければいけないと知ったのもこの頃で、世の中には全集にしか収められていない作品や、入手困難になった絶版本があることを学んだ。古本を、誰が持っていたかも分からない古い本で、買うなんてケチな奴だとしか考えていなかった浅薄さを悔い改め、神保町や早稲田の古本屋に入り浸るようになった。

悪評高い野崎歓訳の『赤と黒』が出たのもあの頃で、当時は誤訳論争などには興味がなく、ただ堕落の甘い誘惑に身を任せたくなってしまうほどに影響されやすい世間知らずだった。世間を知ろうともせず、むしろ「世間」というものに反発し、そこから逃れる道を探していた。書物のなかにこそ、自分の居場所があるように思った。俗世の人びとが、つまらない他人の恋愛模様だとか、そのうちに忘れられていくはずの流行の歌や食べ物などに現を抜かしているのを尻目にかけて、わたしはただ美しいもののことだけを考えて生きていたかった。

図書館から全集を借りだして、世に知られていない名作、自分だけの一冊を探した。他の人にはわからない、自分だけにしかわからないのだと、かたくなに、根拠もなく信じていた。そうやって自分は俗人たちとは違うのだと思い込んで、この世界の息苦しさから逃れたかったのだと思う。それが結局、生きづらさに追い打ちをかけるだけに終わるということも知らずに、自分を強く見せるだけの嘘を重ねるように。

休みのあるごとに旅に出ていたわたしは、小遣いを貯めて全集を少しずつ買うようなことはせず、貯金は鹿威しの水のように、貯めては全部旅行資金として使い、また貯めては旅に出て、をくり返していた。古本屋でせこせこ買った、全集の片割れが疎らに本棚に置かれているだけで、憧れの文学全集のある棚が自分のものになることは何年もなかったし、それよりも買っておきたい本は山ほどあり、何よりも買わなければいけない本もたくさんあった。

はじめて個人全集を買ったのは大学に入って三年目の年末で、憧れていた宮沢賢治全集。新しいバイトが決まって景気づけに、という言い訳を自分にして、神保町で手頃な値段のものを見つけた。2009年に完結した新校本には当然手も届かないので、70年代の古い版だが、状態も良く元パラ、輸送箱付きで一万円しなかったはずだ。どうやって買ったらいいのかも分からず、店主に話しかけるのも躊躇して、一旦店を出たり、店の前を行ったり来たりした末に店主に声を掛けるとあっけなく、淡々と会計と配送の手続きをしてくれた。翌々日に届くまではラブレターの返事を待つような気持ちでいて、配達の日には朝から落ち着かなかったことを覚えている。言い訳にした新しいバイトは、店長の人を見下したような態度に激昂してものの2日ほどで辞めたのだが。

輸送箱(というのは、全集の全巻を入れて配送する為の段ボール箱のことで、書名が印刷され、ぴったりのサイズ。捨てられることが多く貴重なのだ。)が傷付かないように二重に梱包されて届いた箱を空けるときは、玉手箱をあけるような気分だったし、本の一冊一冊が宝石箱のようで、届いた日は一日中うっとりとして過ごしていた。たとえ家のドアが壊れて家から出られなくなっても、これさえあれば娯楽に困ることはないような気がしていた。かつて読んだ記憶の片隅に潜んでいた童話を改めて読んでみたり、まだ知らない物語の世界を彷徨ってみたりした。賢治は教鞭を執っていた学校の生徒のために、郷土劇のような戯曲を残していたことも初めて知った。筑摩書房の宮沢賢治全集には著者が手入れをした部分を全て残してあり、「雪渡り」のあの全身が融解するほど清澄で美しい書き出しも、初稿では平易な文章であったことを知って、自分もいつかあんな文章が書けるようになるのだろうかと勝手な夢想に浸ったりもした。吉祥寺の変な名前の喫茶店が賢治の詩の登場人物に由来することを知ったのは最近だが、それもこの本の中に見つけたことだ。

Amazonの電子書籍で全作品を集めた「全集」を銘打つものが100円200円で手に入る時代に、わざわざ場所を取る紙の本を買うのを疑問に思う人もいるらしい。(さっき言ったように、電子書籍版との最大の違いは、校異が収められていることだが、それはいいとして。)紙には電子書籍にはない手触りがあり、匂いがあり、身体性がある。情緒的かもしれないが、その全てを持っているという感覚が、たしかにある。そしてわたしの所有する全集は、わたしだけのために存在する。この世界に慥かに存在する。電池が切れることも、サービスが終了することも、サポート対象外になることも、今後いかなる端末に取って変わられることもなく、はかなく、わたしの本棚の片隅に、ひっそりと。

賢治の全集を買ってから半年ほどして、西荻窪にある行きつけの古本屋で荷風全集を見つけた。状態もよく値段も手頃だったし、月報も「荷風文学地図」も付いていた。見つけた日は買わなかったが、その後しばらく荷風全集のことがずっと頭から離れなかった。一週間経ち、同じ本がまだ売れてしまっていなければ買おうと決めて店に向かった。そして荷風全集は、同じ場所に同じように置かれていた。まるでわたしに買われるのを待っていたように見えた(たぶん気のせいだ)。

荷風全集が家に届くと、これは困ったことになったな、と思った。置く場所がないのだ。

当たり前のことに、そのとき初めて気がついた。本を買うとその分だけ部屋が狭くなるのだと。わたしの四畳半ほどの部屋は、おそらく大学に入ってから毎年浴槽一つ分くらいは狭くなっており、いずれ部屋中の空間を埋め尽くし、隙間という隙間まで侵蝕してしまうという恐怖に、はじめて捕らわれた。風呂に入るとその体積だけ水位が上昇するのを見つけたような気持ちで(もちろん服は着ていたし、そこはシラクサの町ではなかった)友達に「本を買うとさ、その分部屋が狭くなるんだよ」という新しい発見を話したら、「そんな当たり前のことを」と鼻で笑われた。わたしでも気付かなかったことを、当然のように知っていたなんて。彼はきっと悟りでも開いていたのだろうと思う。

とにかく、わたしはこの時に決めた。全集はもう買わないと。個人全集や文学全集は概ね、20から30巻の函入りで、そんなものが一気に部屋に入ってきたら、わたしの寝る場所も本を読む場所もなくなってしまう。本棚がすべて埋まり、部屋にあったギターも片付けて新しい本棚を導入したが、全集なんて買っていたらそれでも間に合わなくなるだろう。そう思ってもう全集は買わないことに決めた。

事件が起こったのは、その半年後だった。

荷風全集を買った西荻の古本屋に、ミヒャエル エンデの全集があったのだ。美しい装丁が新品のように輝いて見えた。いやいや全集はもう買わないと決めたから、と自分に言い聞かせて、その日はたしかミランダ ジュライを買って帰った(だって名前似てるしさ、なんとなく)。一週間経っても一ヶ月経ってもエンデ全集はその店にあった。買えない値段ではなかったし、19巻あるけれどA5判だし、買おうか迷った。わたしに買われるのを待っているように見えた(だから錯覚だってば)。だけどこの時も、禁を破らなかった。

翌週に同じ古本屋に行くと、エンデ全集のあった場所には宮尾登美子や辻原登の作品が置かれていた。他の場所もくまなく見たのだけれど、エンデ全集は見つからなかった。売れてしまったのだろう。買わずにすんでほっとした、と思いたかったけれど、実際には買っておかなかったことを後悔して落ち込んだというのが正直なところだ。大切なものや必要なものというのは、失ってから気付くことのほうが多いみたいだ。ただ一緒にいるだけや所有しているだけでは有り難みの分からないことも、失くしたり別れたりしてからはじめてどれだけ大きな存在だったか分かるというのはよくあることだ。古本サイトでエンデ全集を探してみたものの、西荻のその店にあったものほど良い条件ではなく、後悔の念が増してゆくばかりであった。

それ以来なんとなく、その店には寄りがたくなっていた。西荻窪には何度となく行ったし、古本屋に行くのをやめるはずもないが、再びその店に足を踏み入れたのはそれから二ヶ月ほど経ったある日だった。文芸書の棚に、なくなったはずのエンデ全集が、同じ値段で置かれていた。店内をくまなく探したと思っていたが、どこか別の場所に置いてあったのだろうか、なにかの事情で一時的に店頭から下げたのか、あるいは一度買い手が付いたけど再びこの店に売られたのか、理由を知ることはできないがとにかく再びわたしの前に現れたエンデ全集は、今度こそわたしが買うのを待っているように見えたので、店の人に声を掛けて購入した。大学院入試に合格したお祝いという理由をつけて、破戒したのである。

全集を買わないという決まりを作ったことが良い判断だったのか分からない。エンデの全集を買ったことでわたしの読書生活は豊かになったし、エンデの知らない一面を知ることができた。律儀に自分の決めたルールにしたがっていたらいい出会いはなかっただろう。室内の空間を犠牲にした代わりに得るものは多かったように思う。

しかし全集を買わないという決まりは、いまだに捨てないでいる。だから河出の日本文学全集も半分くらいしか買っていない。とはいえ、中島敦全集はまあ、4巻だからいいよねと、須賀敦子全集は文庫だからと思って買ってしまったが、これらは例外だから見逃されるべきである。定期的に古本サイトを見ては辻邦生や谷崎の全集が安く売られていないかチェックしているが、まだ買っていないから許してほしい。泉鏡花集成や潤一郎ラビリンスのような選集は古本屋で見つけときに全巻買ってしまったが、これらも全集ではないからもちろんルールは破ってない(そういえば潤一郎ラビリンスを買ったのも西荻の同じ店だった)。文学全集を買わなくても、荒俣宏の世界大博物図鑑や、ファン ゴッホの全画集、光村推古書院の竹内栖鳳画集といった大型本、というか鈍器本も購入しているのだから、もはやルールは形骸化しているといってもいいが。極めつけは「ピーナッツは別腹だから」などという屁理屈というかこじつけを用いて先日は、半世紀に及ぶスヌーピーの漫画を完全収録した『ピーナッツ全集』を全巻予約した。だって予約しないと特典の別冊が手に入らないんだもん。そんなわけでいまは、本棚に収まっていない本のほうが多くなってしまった。

全集を買う、というのは青年にありがちな、安い憧憬にすぎないのかもしれない。個人全集を買ったところで、その作家の全てを知ることができる訳でもなく、きっと読まないまま終わる作品だってある。

なのになぜ、人は全集を買うことに憧れを抱くのだろうか。すべての作品を読むことと、全集として刊行された書物を蔵書に収めることの違いとはなんだろうか。けだし本棚には、理想の自己が投影されている。それは単に頭に残り、自分を作り、あるいはいつか忘れられるかもしれない、今まで読んだ本のアーカイブでも目録でもない。自分がより知りたいと思い、自分の中に、自分と共に生きていてほしいと思う知や思考を可視化し、外部化したものであり、決して自分と同一ではないがつねに自分とともにあり、自分がそれにむかって歩もうとするものである。だからこそ、たんに好きであることを超えた憧れの作家がいれば、全ての文章を読むだけでなく、それらを収めた書物を自分の蔵書に収めたいと思う。知的にも物理的にも、自分のものにするために。

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