続・元気じゃなくてもいいじゃない

大学に入って間もない頃、必修だった英語の授業で、「"愛"を定義せよ (Define "love")」という課題があった。

論文を読み解く/書くために重要な「定義文(definition sentence)」とは何かを知るために、まずは身近な単語を定義してみよう、という趣旨の課題だったのだが、4人前後のグループに分かれて5分ほどの時間が与えられ、それぞれが愛を定義した。グループは5つくらいあったが、18歳やそこらの学生たちが黒板に書いた答えは「誰かを大切に思う感情」とか「ドキドキすること」のような内容で、言ってしまえばどれも似たり寄ったりだったと思う。

まだ愛の経験も多くはない学生の、青臭い解答を見たK先生が「愛とは感情じゃない! 愛は行為なの!」と力説していたのは、なぜだか今でも覚えている。あの時はK先生の言葉を、そんな見解もあるよなぁとしか思っていなかったが、今になってはその言葉がよく分かる気がする。あれから間もなくK先生は大学の職を辞し、別の場所で活躍されているらしい。今でもあの頃みたいに熱い思いで英語を教えていらっしゃるのだろうか。



さて、つい先日、本屋に入ったら吉田修一の『横道世之介』の続編が出ていた。『横道世之介』は不器用で頼りないけど憎めない純朴な大学生が主人公で、お嬢様との恋愛やら、恋人との問題を抱えた友達やら、どこにでもありそうな青春をほのぼのと描いた作品だ。朗らかな陽だまりのなかでお昼寝でもしているような気分にさせてくれる愛おしい物語だった。頭が良いわけでもなく、これといった特技があるわけでもない、ぱっとしない田舎育ちの若者の間抜けな姿に思わず口元が緩むような小説だ。沖田修一監督、高良健吾主演で映画化されており、これはわたしの大好きな映画のひとつである。

ネタバレしない範囲で書いておくと、今作『続 横道世之介』は大学を卒業した24歳の横道世之介が主人公だ。続編とはいえ、世之介以外の前作の登場人物は、本作には出てこない。就職に失敗した彼はアルバイト生活を続けながらパチンコに入り浸って日々を過ごすのだが、大学時代からの友人やパチンコ店で知り合った女性との友情、そして綺麗な元ヤン女性との新しい恋愛が繰り広げられる。前作同様に世之介の愛すべき人柄にとてもキュンとなるのだが、今回はうだつの上がらない生活だけに、ちょっと心苦しい。



単行本には初刷限定で著者のメッセージカードがついていた(上の写真)。最後に書かれた「人生のダメな時期、万歳。人生のスランプ、万々歳。」というのは、実は小説の中にも登場するフレーズなのだが、この物語の核心を言い表している(と思う)。就職もできず、バイトでも上手くいかない、パチンコに明け暮れる生活は人生のスランプそのものだ。だけどダメな時期だからこそ、立ち止まったりゆっくり歩いたりするからこそ、見えてくる景色がある。スランプだからこその出会いがあり、成功しないで下の方でくすぶっているからこそ、金が余っていても経験できないような豊かさがある。社会的に、あるいは経済的に、順風満帆なときには決して得られない、早足で歩いたら見過ごしてしまうようなもの。一旦立ち止まって休憩するからこそ、聞こえてくる音があるように。

何かの利益や価値を生み出すわけでもないし、なにかの目的のために合理的なことをしているわけでもないけれど、ただ、それ自体に掛け替えのない価値があるような、なにか。それがいわゆる、青春というやつなのかもしれない。



話は変わるが2年ほど前に、ある友達が大学を休学すると、人づてに聞いた。教えてくれた友達に、「あいつ、休学して何するの?」と、わたしは訊いた。休学すると言えば、バックパックで世界を旅するとか、どこかの離島や北の大地で働くとか、ボランティアをするとか、死ぬほどバイトしてお金を貯めるとか、そういう人がほとんどだったから、その質問が出てきたのはわたしの周辺では当たり前だったと思うし、多くの大学でも同じなんじゃないかと思う。しかし、その人から返ってきた答えは意外だった。

「うーん……読書……?」
よくよく聞いてみれば、彼女は都内の姉の家に転がり込んで、バイトでお金を貯めたら、特別なことはなにもせず、ただ読書をしたり絵を描いたり、童心に返って悠々自適に好きなことをして暮らすという計画を立てていて、事実その後の一年間をその通り実行した。

休学するというのは文字通り学校をしばらくの間休むことであって、何かを積極的にするための期間では、必ずしもない。そのことを身を以て知ったのは、最近になってからだ。「休学して何するの?」という問いが、今度はわたしの元に降ってくるようになった。

そう、わたしも4月から休学中という身分になる。だからといって、何をするわけでもないし、何か(というか、研究)をしなくなる訳でもない。個人的な話で恐縮だが、去年の秋頃からわたしもちょっとしたスランプだったようだ。体調もあまりよくなかったし、学部生の頃はあれだけ楽しかった研究への意欲も持てず、考えもまとまらずにくすぶっていた。幸い精神的な方はあまり落ち込まなかったのだが、結果として修士論文の提出を1年延ばして、今年度は修了しないことにした。授業料を払うのが勿体ないので休学届を出す。

実のところ、今回はそれほど酷くはなかったのだが、定期的に無気力や無力感に襲われることがある。この理不尽な世界で生きていくだけの強さがわたしにはないと感じて、何をする気にもなれなくなる。大好きだった本さえも読めなくなり、自分を支えていたはずの書くということもできなくなって、引きこもってしまう。いつもは中毒のように通っている美術館にも足が向かなくて、バイト以外は家から出られなくなる。こんな社会で生きていくだけの強さがほしいと思いながらも、他人を出し抜くこと、人の痛みに無関心でいることが強さなのだとしたら、強くなんてなりたくないと思い、動かずにじっとしている。ただひたすらfacebookとtwitterを往復し、何時間もyoutubeを見て駄目人間になり、昔はまったゲームをまたやってみたりして、夜になればビールを啜りながら古い手紙を読み返して終わった恋の残り香を嗅いで涙をながす。そんな日々が続く。

だれにでもこういうことってあるんだろうか。どうやったらこの季節から抜け出せるのか、分からない。抜けだそうといろいろな方策は浮かぶのだけれど、実行する元気もない。少し元気が出てくると、いろいろと試しているうちに、だんだんと今まで通りの生活を取り戻せるようになってくる。

そんなスランプに、一度はまってしまうと、なんとかしなくちゃ、と思ってしまう。

だけど同時に、わたしは確信を持って、駄目人間になってもいい、と思っている。恐れずに、ありのままの駄目人間になることにしている。そうしても、大切な人は去らないという確信があるからだ。

たとえば、多くの場合、親が子供を愛することに、理由はつけられない。この子は言うことをよく聞くから好きとか、勉強ができるから好きとか、そういう条件付きで子供を愛するなんてことはない。あるいは恋人たちは「私のどこが好きなの?」みたいなことを訊いたりはするけれど、それだって相手や自分を納得させるための口実にしか思えない。「優しいところが好き」と言ったって、それ以上に優しい人にであったところで、そっちにヒョコヒョコついていったりはしないだろう。哲学者の中島義道は、

愛する対象がもし個物なら、厳密にはいかなる理由も言えないはずなのです。個々の属性ではなくその人だから愛するのです。顔も悪く・頭も悪く・気立ても悪い娘を——普通——世の親は、かけがえのないその子だから愛するのです。だから、相手に財産や美貌や名声などすべての外面的なものがなくなっても、なおそれでも『愛する』ところに、愛情物語の真髄はあるわけです。(1)
という。子供の頃に仲良くなった友達、どうして彼/彼女と仲良しになったのか、思い出してみてほしい。経緯は説明できたとしても、理由は説明できないはずだ。優しいからとか金持ってるからとか面白いからとか、人脈が役に立ちそうとか、そういう俗世の価値観に依った友達の選び方をするのは、もう少し俗世間の埃を被ってからであって、そういう条件付きではない関係が、友情とか愛とかいうものなのだと思う。

もちろん、そうではない状態があることはわたしとて分かっている。ここでいう愛は理想に過ぎないし、子供に愛が与えられないからその後の人生に深い影を落とす、という人がいることは、わたし自身からもよく分かっている。十代の頃、居場所を求めるように渋谷の路上をうろついたとき、近くにいた仲間たちは、そこで渇いた愛を求めていたのだと思う。きっと。

だから思う。大切な友達は、自分が駄目人間になったとしても、見捨てたりはしない。それで見捨てるような友達は、大した友達ではない。自分が弱くなっても、側にいてくれるような友達を大切にしたらいいと思うし、そういう友達がいるからこそ、わたしたちは安心して駄目になることができる。

それと同時に、疑問もある。愛とか友情とかいったものが、はたして尊いものなのか、美しいものなのか、わたしには分からない。どうしようもない、人を傷つけてばかりの奴でも、愛されていていいのだろうかと、思うこともある。愛なんて、都合よく相手を振り回し、傷つけ、利用するための口実にしか思えない時だってある。搾取するための言い訳でしかないと思うときだってある。

それでも、わたしたちは、利益とか合理性がなくたって誰かの苦しみやわがままを受けとめ、切り捨てないからこそ、絶望の淵にあってもなんとかそこで立ち止まることができる。苦しみを「自己責任」や「自業自得」といってしまえば見て見ぬふりが許される社会でわたしたちは生きている。苦しむのは弱い奴だからだと決めつけて、苦しむ個人を責めることすら珍しくない。けれども、息が詰まるほど実利的なこの社会からの逃避所として友情や愛を捨ててしまっては、弱いわたしたちは生きられないと思う。俗世間に大気汚染物質のように充満する実利の力がわたしたちを締め付け、居場所を奪おうとするときに、何ができるとかどんな結果を出したとかいう声とは無関係の心安まる居場所がないと息もつけない。常に行動し、結果を残すことへの、絶え間ない圧力のなかで生きているからこそ、実利や合理性のような、俗世間の価値観から独立した、ありのままの自分を受け容れてくれる場所が必要なのだと思う。親密圏というのは、失敗すれば心折れてしまいそうなな力の渦巻く社会から身を守るために、必要なのだと思う。自分が価値のない人間だと思ったとき、生きること自体が価値なのだと教えてくれるような場所が、実利の世界ではない、愛情とか友達といったつながりのなかに、求められているのだと思う。


生きる価値、とはなんだろう。人生の意味、と言い換えてもいい。あなたの存在の意味とか価値を決めているもとってなんだろう。

人生の「意味」といったとき、それを「目的」と無意識に変換してしまうことが多い。わたしなんか生きていて何になるんだろうとか、なんのために生きているんだろうという問いは、その典型だ。だけどその考え方は危険だと思う。人生に、仮に目的があるとしたら、それはニヒリズムだ(2)。わたしという存在がなにかの目的を達成するために存在しているにすぎないのだとしたら、それはとりもなおさず誰にでも代替可能な人生を生きているということになる。つまり「わたし」の存在ではなく、ただひとつのヒトの個体としての意味しか持たないことになる。わたしたちはヒトという種が生存しているという生物学的な、客観的な現象を「人生」とは言わないだろう。そんな視点から捉えられるような、その程度の人生に、何の意味があるというのか。

だから考えてみてほしい。自分が生きる価値のない人間だと思ったとき、その「生きる価値」を評価しているのは誰なのかと。会社や仕事でまるっきり役に立たないから、生きる価値のない人間だとしたら、その人の人生の意味とは、会社の役に立つことになってしまわないだろうか。だとしたら会社のために働くという、誰にでも代わりのきく人生を生きているに過ぎないのではないか。だからその路線で行くのはやめよう。

そもそも、「人生」、つまり人間の存在のような自然物には「目的」などない(実存は本質に先立つ、と言ってもいい)。目的とは、人間が手段を考えるために使う思考のツールであって、自然界にそもそも存在するものではない。たとえば、太陽の存在に目的はあるだろうか。太陽は、人間の存在という上位の目標を設定したら、地球の公転とか、光や熱エネルギーを生むという目的がある。しかし、自然界の太陽の存在そのものを考えれば、太陽はただそこにあるだけだ。

ハサミには、紙を切るという目的があるけれど、それは人間の生活を楽にするとか、という上位目標にたいして持つ目的でしかない。鉄鉱石の存在そのものに意味があるのではなくて、人間が生活を楽にしたいから鉄鉱石が鉄を作り、そこからハサミを作るという存在意義が生み出されるのであって、鉄鉱石自体がそもそもハサミを作るために生まれてきた訳ではないのだ。たしかに私の存在は、会社の利益という上位目標にたいしては、働いて結果を出すという目的がある。だけどそういう上位目標を設定するのはそもそも人間なわけで、人間の命そのものの存在の目的は、神とか超自然的な存在のほかには設定することができないのだと思う。(3)

だからわたしが会社の役に立たないとか勉強ができないとか恋人や家族を幸せにできないからといって、人生の意味がないとか言わないでほしい。あなたは会社や学校や恋人や家族の利益のために存在しているのではない。

「人生の意味」というとき、それは人生の「価値」と言い換えたほうが適切だ。わたしたちは、人生に目的を見出すよりもむしろ、人の命の存在そのものを価値だと認めてきたのではないのか。うまれつき知能が極端に低く、自力で生活できなくても。あるいは年老いて認知機能が衰えてなにもわからなくなったとしても、彼ら彼女たちが生きているという事実そのものに、価値を認めてきたのではなかったか。条件を付けず、ただ愛するということは、そういうことではなかったのか。役に立とうが邪魔になろうが、元気だろうが病気だろうが、わたしたちは存在に価値を認め、ひとを大切にしてきたのではないか。実利という世俗のものさしにたいして、無条件の肯定が、抗してきたのではなかったか。

役立たずだろうが、元気じゃなかろうが、それでいい。俗世間の評価を、そのまま自分の価値と同一視してしまったら、立派な会社人間になって、部長かなんかになって勤め上げるのが関の山だ。それも立派な人生だが、それだけではつまらない。誰にでも取って代わられるだけの命を生きたってしかたない。窓際だろうが部長だろうが、国税庁長官だろうが、かけがえのない自分であることのほうに、意味があるのではないのか。だからすべての人が地位や残した結果や浮き沈みに関係なく、愛されるに値するのだと思う。

元気じゃなくてもいい。それは、雨の日のようなものだ。
晴れの日には晴れの日の良さがある。洗濯物は乾くし、気温が上がって過ごしやすい。だけどおなじだけ、雨の日の良さだってある。雨の音を聞きながら、輝く葉の緑や潤いに喜ぶ苔を眺めながら散歩をするのもいいし、窓を打つ雨粒を眺めながら、物思いにふけるのもいい。雪にも霰にも、それぞれの良さがあるはずだし、毎日がかけがえのない、愛おしい日々のはず。勝手に善と悪の二元論で線引きをして一喜一憂しているのは勿体ないことだも思う。

だから「元気ですか?」という、元気であることが価値であるかのような挨拶は避けてきたし、人に訊かれたときは「元気じゃなきゃいけないわけ?」と半ば喧嘩腰に返してきた。元気だって、元気じゃなくたって、それぞれにきっと意味がある。価値がある。

でもね、苦しみのただなかにいるとき、その苦しい日々の意味や価値など、決して分からないし、分かろうともしないだろう。苦しい日々にも意味があるなんて甘ったれたことを言ったところで、所詮は白々しい戯れ言でしかないとさえ感じてしまうこともある。自分を否定し、他人を傷つけ、誰からも愛されない絶望の淵にある人を目の前にしたとき、同じことが言えるのかどうか、わたしにもわからない。

だけど思う。わたしたちには、それしか、残されていないのだ。苦しむひとや、苦しみに対して、わたしたちはなにもできなかったとしても、愛することはできるはずだ。見捨てないで、見守って、彼ら彼女たちのために精一杯できることを考え、思いを馳せることは、できるはずだ。

わたしたちにできることは、その程度のことだ。



10年前、わたしはこの人生を、本気で終わりにしてしまいたいと思った。だけどいま、こうして、このブログで、一度は捨てたはずの人生にたいする恋文のような文章を書いている。いまでも、辛いことはある。投げ出してしまいたいという、絶望感に駆られることもある。愛とか優しさとか言っているのが、死ぬほどイタいことも知っている。だけどそれしか、残されていないのだ。だからわたしは、もう終わりにしてしまいたいと思うときでさえ、感情に身を任せて行動したりはしなかった。なぜならわたしはわたしの人生を愛するからであり、愛するとは感情ではなく、行動だからだ。わたしは、わたしなりのやりかたで、自分の人生を愛してきたし、これからもそうしていくだろう。

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この記事は前に書いた「元気じゃなくてもいいじゃない」の続きという位置づけですが、『続 横道世之介』が『横道世之介』を読んでいなくても楽しめる独立した物語であるように、この記事も前の記事とは無関係に読んでいただけます。

【出典】
(1) 中島義道『哲学の教科書』、2001年、講談社学術文庫、117頁。
(2) 永井均は、ほかでもないこの私=〈私〉 の存在の意味は自分の外側に存在しないと主張する。もし〈私〉の意味が外側に存在するならば、他の誰とも同じ人生を意味するのであり、〈私〉の存在に意味はないと論じる。その観点からこれを「ニヒリズム」といっている。『翔太と猫のインサイトの夏休み:哲学的諸問題への誘い』2007年、ちくま学芸文庫。
(3) 人生について「目的」という概念を応用することは、思考のツールとして生み出された「目的」を本来適用不能な対象に用いていると、戸田山和久はいう。『哲学入門』2014年、ちくま新書、402-404頁。

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