国際基督教大学の本館立て替え/キャンパス・グランド・デザイン問題について思うこと

はじめに:問題の所在


2016年2月に国際基督教大学(ICU)のウェブサイト上に「キャンパス・グランド・デザイン」(CDG)という名の計画が突然公表され、すぐにSNS上で賛否含めて話題になった。
このサイトに掲載された「キャンパス・グランド・デザイン全体像(2030年頃のイメージ)」という画像では、本館やディッフェンドルファー記念館東棟(旧D館)といった主要な施設が建て替えられた様子が描かれていた。

CDG全体像とされるもの。出所:キャンパス・グランド・デザイン|ICU



CDGが公表されて間もなく、WEB上で「ICU(国際基督教大学)のバカ山空間をこわさないで!」という署名運動が広がり、バカ山と呼ばれる芝生の空間を残すことへの要望や、巨額の費用への懸念が表明された。

奇しくもほとんど時を同じくして、近現代の建築物への再評価がじまったことで、ICUのキャンパスが文化庁の「近現代建造物緊急重点調査事業」の対象となった。日本建築学会や文化庁の方々が来学され、本館やD館、泰山荘を含む建造物について評価を行った。なかんづくヴォーリズが設計した旧D館は戦後のモダニズム建築としての評価が高く、のちにDOCOMOMO Japan選定作品にもなった。

こうした動きを受けて、学内の意見を広く聴取する場としてCGDに関するオープンフォーラムが数回にわたり開催され、議論が進められている。その中心的な議題は本館の建て替えと予算に関するものである。一方で学内の建造物にかんする講演会やシンポジウムも開催され、その再評価の動きも進んできた。


わたしは、それがひとまず問題として広く認識されるに至った今年の春にICUを卒業し、その後はティーチングアシスタントとして非常勤でお手伝いもしたが、この記事を書いている現在は任期も(一旦)終わり、ただの卒業生の身分である。

ここではただの一人の卒業生として、CDGについて思うことを書いていく。



1. 歴史の問題として

1941年の12月8日、真珠湾攻撃の日、現在のSUBARUの全身でもある中島飛行機株式会社は三鷹研究所の地鎮祭を行い、建設を開始した。その研究本館として建築された建物が現在のICU本館である。

三鷹研究所は現在のICU、SUBARU、野川公園から府中運転免許試験場に至る広大な土地に作られた施設で、機体やエンジンの設計施設のほかに組立工場や板金工場、花畑、住宅などを含む多様な施設が置かれていた。


それ以前には農村があった。「三軒家」と呼ばれたこの小さな集落の痕跡を語るものは、現在はバス停付近からILC方面に延びる、不自然に斜めの歩道だけだろう。今の野川公園周辺には水田があり、山葵の栽培も行われてた。かつて江戸に近い場所で取れる三鷹の山葵は重宝されたらしい。

現在のICUと、野川公園の間には十数メートルの高低差があるが、これは古多摩川が川底を削ってできた河岸段丘で、国分寺崖線という。ここから染み出す湧き水は、火山灰が表層を覆い水はけのいい武蔵野の台地では貴重なものだ。この湧き水が「大沢」という地名の由来ではないかと思う。野川公園より高いところにある今のキャンパス周辺は、水資源が少なく、耕作には不向きな土地だったのではないか。だからこそ集落が開かれた当初は三軒しか家がなく、だから「三軒家」と呼ばれたのだろう。明治以降には養蚕が盛んになり、そのために桑の栽培が行われていた。

明治後期より、国分寺崖線の景観は上流階級の別荘地として賞翫された。国木田独歩の『武蔵野』によるブームもその一因となった。そうして資産家の別邸として作られたのが泰山荘だった。中島飛行機の創業者、中島知久平はそこを買い取り、住居として使用したうえ、近くに花畑を作って研究者が頭を休める場所にしていたという。


さて、このとき三軒家や大沢の農地をほぼ強制的に徴用したのが中島飛行機だった。農家には代わりの土地が与えられたが、土地が狭かったり農地に向いていなかったり引っ越しの費用が嵩むとかで、随分もめごともあったことも報告されている(三鷹研究所の歴史については、ICU高校の高柳教諭による研究(2008; 2011; 2015)が詳しい)。

本館では機体や部品の設計が行われ、その裏(現在の理学館周辺)には板金工場があり、その西側(現在の実験林周辺)には巨大な組立工場があった。ICUが設立された当初はその組立工場を体育施設として用いる計画だったという。組み立てられた機体は、調布飛行場まで輸送されたのだが、そのための方向転換に使われたのが、今の教会前に広がる旧ロータリーである。
 ちなみに単純な事実確認として、正門から旧ロータリーに至る桜並木(マクリーン通り)は天文台通りから研究所をつなぐ道路であり、滑走路ではなかったということは書き添えておく。よくある誤解なので。



終戦後の三鷹研究所。国際基督教大学歴史資料室。


本館3階では、超大型爆撃機「富嶽」と小型攻撃機「剣」などが設計されていた。「富嶽」はアメリカ本土を爆撃するため高高度を高速で飛行する爆撃機で、結局は実現に至らなかったのだが、当時の技術からは実現できないことが明らかだったのではないかなど、謎に包まれた部分が多い。先日、そのエンジンと思われるものが発見されたのが新聞に出たので話題になった(末尾のリンクを参照)。

「剣」のほうも明らかになっていないところは多いのだが、一般的には特攻のために設計されたと言われている(異論もあり、詳しくは高柳(2015)を参照されたい)。離陸したら邪魔になる脚を落とすように設計されており、胴体着陸も困難であったから、事実上は離陸したら着陸できないものだったのである。これは結局、技術的な困難が多くて終戦まで実戦には用いられなかったという。だが、ここで開発された機体で唯一量産されたのがこの機体であったのだ。

ここで大切なことは、学生たちが今学んでいる場所で、学生たちと同じ年頃の若者を特攻隊として戦地に送り出すための兵器が開発されていたということであり、世が世なら彼らは(私たちは)それに乗っていたかもしれないということだ。


キ−115 「剣」 出所:San Diego Air & Space Museum


だからICU本館が単に戦争遺産や近代化遺産として重要であるだけではなく、ICUがこうした戦争経験ののちに「恒久平和の確立に資する」ことを目的に設立されたという点で、この建物が非常に重要なランドマークであると思うのだ。



ところで、学長は第3回のオープンフォーラムにおいて、「キャンパスグランドデザインが大学の目指すところとどのように関わっているかというお話がありますけれども、この大学が出来ましたときも今もそうですけれどもICUの非常に大きい特徴はレジデンシャルキャンパスにある」と発言された。わたしも教育の場として学内寮を整備することの重要性はおおいに理解できる。

一方で、それによって破壊されているものがないのか、心配である。


出所:キャンパス・グランド・デザイン|ICU



この画像はCDGのウェブページのトップに据えられているもので、左側に見える大きな2つの建物が2017年に完成した寮であり、右側にある十字架の建物が大学の教会である。

構成員や同窓生はご存じかと思うが、バスを降りて並木道を抜けたところに広がるのがこの光景である。ある意味で、入り口を抜けた先にあるところだが、ここで正面にある教会ではなくて、団地か老人ホームみたいな建物の方が目立っているのは異様ではないかと思うのだが、わたしだけだろうか。

これは審美的な理由でだけ書いているのではない。というのは、同じく第3回のオープンフォーラムでは、とある教員から「他の私立はみんな、目に見える形で、これが我々の建学理念を代表する一つの建物、中心的なものをランドマークみたいな形で持っているわけです。ICUに、もし[...]共通して共有できるものというのがどこにあるのか[...]、学長自身どのようにお考えなのか」という質問があった。
これに対して学長は「このキャンパス全体だと思います。[...]生活の場と本館もそうですし理学館もそうですが教育の場と本館前の芝生の部分ですけれども、[...]もちろんその中心の一つは教会だと思いますが、その全体が私はICUを象徴していると思います。」と答えられた。

キャンパス全体の「中心のひとつ」である教会の隣に、教会より目立つ建物がデカデカと構えている光景が果たして大学の理念の継承を反映しているのかどうか。

わたしが現在所属している一橋大学は、伊東忠太がシンボルとなる4つの建物を設計した。そしてその意匠はその他の建物を建てる際にも継承されている。レンガの外装を用いることもそうだし、伊東が用いた怪物のモチーフは、2004年に完成したマーキュリータワーなどの新しい建物にも使われている。


このような怪物が学内の随所にいる


こうしたキャンパスのハード面での理念の継承が、ICUで行われているだろうか。ICUの「明日の大学」という理念も立派だが、過去を意識することなくしてよりよき明日はあり得ない、ということは確認しておきたい。


わたしがあえて歴史を強調するのは、あるいは歴史を学んだ者の勝手な思い入れかもしれないが、日本にいると歴史を感じさせる場所や歴史に触れる機会というのが極めて少ないことに危機感を覚えているからでもある。修学旅行で行くような広島と長崎、そして沖縄以外には、ほとんど歴史の痕跡は残っていないし、あっても簡素な案内板ばかりで積極的に過去の記憶と向き合う機会は少ない。

こうの史代が『この世界の片隅に』で描いたのは、戦争に悲劇のベールを掛けてわれわれの生活と断絶した「非日常」として描き出す今までの「戦争もの」作品へのアンチテーゼであり、戦争がわたしたちの生活と地続きにあるという単純な事実ではなかったか(これについては、別の記事でちょこっと書きました)。だからこそ今までの戦争ものの漫画や映画とも違い、100年先に伝えたいと言われたのではなかったか。

そして戦争を記憶する場所もまた、日常と離れた観光地や博物館にあるのではなくて生活とつながった場所にあることではじめて実感を持つものではないか。そしてまた、継承されるべき記憶は戦争だけではなくわたしたちをかたちづくっている過去なのではないか。ICUにとってそれは、農村や別荘地、軍事施設、戦後、今まで学んできた学生たちや教職員であり、それらが年輪となって、その表層でわたしたちが生きている。そのことを忘却して果たして大学の理念と使命は達成できるのだろうか。




2. 学ぶ学生の問題として


先日のブログにも書いたことだが、学生が、というか学生に限らず今の時代が「分かりやすいこと」を求めていすぎるのではないか、と思う。分かりやすい授業や面白い授業が評価される一方で、退屈、難解な授業や評価が厳しい授業は敬遠される。
しかし学問とは「分からせてもらう」のではなくて、分からないことを自分で分かるようにすることであるから、この傾向は堕落というほかない。


先日、厳しいことで知られるある先生がSNS上で、概論の履修者が十数年前の1割に減ったと嘆いていた。1割減ったのではなく、1割になったのである。学生たちが、厳しいという噂に恐れをなしたのだろう。厳しい問題に向き合わないで知性は育まれないと思うのだが、学生も腑抜けになったものだ。


学ぶことだけではなくて、今では就活のためのお膳立ても、最近は生活の面倒見まで大学がしてくれる。
ルソーは『エミール』のなかで、「子どもを不幸にする一番確実な方法はなにか。それは、いつでも何で手に入れられるようにしてやることだ」と書いている。自分の力で困難なことに取り組むことなく、誰かになにかをしてもらうことは生きる力を削いでいると思う。


本館建て替えに関しては、利便性の問題もあり、授業後に階段が混雑するとか、机が使いづらいとか、トイレが古いなどの問題も指摘されているし、教室数を確保するという課題もある。(ちなみに、教室不足の問題についてもオープンフォーラムで学長が言及したのに、なぜ今年度からL4のコマを減らしたのかわたしは理解できないのだが。)

学生に十分な学びを提供するために環境を整備することは重要であるとわたしも思う。
しかるに、不便だから建て替えるべき、古いから立て替えるべきというのは身勝手というほかなく、これも先に述べた堕落の問題に通じるものがあるように思う。すくなくとも、不便な場所であってもそこで学ぶ意義と、そのための代償を天秤に掛けるくらいのことはしてほしいものだが。

去年行われたシンポジウムで、卒業生の方がおっしゃっていて印象的だったのは、授業内のディスカッションで話し尽くせいないことは、よほど寒い日か天気の悪い日はD館のラウンジで、そうでなければバカ山の芝生の上でとことん議論した、と思い出を話していたことだ。環境に不備があるとかは気にしないで与えられた場所で十分に学ぼうとする気概があるだろうかと思い、わたし自身耳が痛い話でもあった。


今後、国からの補助金も減り、18歳人口も減れば、大学間の競争は激しくなる。そのとき、はたしてCDGのようなプランで戦えるのか。コンシューマリズムの波に乗り、学生に手を尽くしてお世話してあげるような大学になるのか。それが果たして、ICUが継承してきた理念と使命であるのかどうかが、議論されていないようにも思う。

同時にそれは、学生の主体性や自治の問題でもあるように思う。学生の自治権は縮小傾向にあり、大学側の権限が拡大する一方であり、同時に主体性を喪失した学生もそれを求めるようになる。

主体性や自治の能力というのは、実際に自治を行い主体的に行動することによってしか培われないという、循環の構造が存在する。大学が学生に過保護になれば学生もそれに依存するのである。つまり、大学が学生に干渉するということは、とりもなおさず、主体性のない学生しか育てようとしていないということであり、果たしてそれが大学という学びの場に相応しいことなのかどうかが今一度問われなければならないのではないだろうか。

かつて存在したICU農場。その後ゴルフコースとなり、
東京都に売却され野川公園となった。

3. 過去は誰のものか:公共性をめぐる問い(結びにかえて)

むろん、CDGには、文化財や歴史、利便性や学生の主体性といった問題に加えて、耐震性・安全性や、策定のプロセス、資金の問題、理学館との機能集約などの論点があるが、そうした問題群は、今までの質問や議事録などの資料(学内者のみアクセス可)を見ていただければ分かることだし、一般論ではなく「わたし」の言葉を語るというこのブログの趣旨とは異なるので触れなかった。

さて。


「過去は、誰のものか。」

とある歴史学の先生が問いかけられた。

「慰安婦」の問題を、かつての日本軍や慰安婦当事者だけの問題として捉えていては、きっと歴史からは何も学べないだろう。今を生きる人、それは女性の問題でもありうるし、夜の仕事をする人の問題でもありうるし、男性の性の問題でもありうるし、植民地支配や経済格差の問題でもありうる。慰安婦の過去は、誰かのものでもない。

けだし、中島飛行機三鷹研究所の歴史を、大学だけの問題、なかんづく学生の利便性の問題にだけ矮小化するのであれば、それは傲慢と言わざるをえない。

歴史とは、そしてまた大学も、ともに公共に属するものではないか。


政府が大学に干渉しようとする時代である。国旗の掲揚や国歌斉唱を行わない国立大学に税金でまかなわれているのだから、という異議が大臣から寄せられる。
しかし単純な話だが、税金とは政府、つまりお上のお金ではなくて、国民のお金である。だから、税金云々の話を持ち出すのであれば、国立大学が行う教育や研究への責任はお上ではなく国民にあるのだから、この批判は的外れだ。


大学の公共性とは、国立大学に限った話ではない。私立大学であるICUのウェブサイトには、「国際基督教大学は、基督教の精神に基づき、自由にして敬虔なる学風を樹立し、国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的としています。」と書かれている。教育や研究の成果を社会に還元しようとしない大学は、おそらくないだろう。


同時にまた、大学が生み出す、「知」もまた公共に属するものであり、たとえば政府が行ったような、法人化によって特許を取らせることにインセンティブを与えるというのは大学の理念とは相容れないものがあるように思う。

こうした公共性をめぐる混乱の背後には、「公」という言葉のもつ意味の二重性があるように思われる。日本語での「公(おおやけ)」にはどうしても"公方様"のような「お上」というイメージが伴うが、public「公共」には開かれた、みんなのものという意味が大きいからだ。
たとえば日本語で「公有地」といえば公=国家のものだから一般人は入ってはいけない場所だが、英語でpublic spaceといえばオープンな、誰もが立ち入れる場所という、全く逆の意味を持つ。

大学、学問の使命とは決して「おおやけ」=政府の役に立つことでも、経済の役に立つことでもない。もっと広く社会に資することである。文系学部不要が論じられて久しいが、そのとき「役に立つ」と言われているのは「おおやけ」つまり国家とか、日本経済とか、限られた意味での「社会」の役に立つことに過ぎない。応用分野の自然科学や工学が「役に立つ」のは既成の何らかの枠組みの中で求められている前進という意味においてである。その一方で、その枠組み自体の妥当性を問うたり、枠組みの先に何があるのかを問うのは「不要」とされる「文系」つまり人文学や社会科学の役目であり、それもまたpublicに求められている知識である。だからこそ哲学や人類学が必要なのである。

学問と同様に、歴史の記憶もまたpublicなもの、公共のものであり、それを継承するために守り受け継いでいくことは、社会を生きるものの責任と考えてもいいのではないか。そしてその使命は、大学の公共性に通底するものがある。

その意味で象徴的な事例を挙げよう。明治大学の生田校舎は、戦前は「登戸研究所」という軍事施設であり、特殊兵器の開発が行われていた場所である。明治大学はここの一部を明治大学平和教育登戸研究所資料館として活用しているうえ、一切の軍事研究を禁止しており、今年一月にはその平和の理念を新聞の全面広告に打ち出した。大学の姿として尊敬すべき行動であると思う。

わたしはなにも、すべてを現状のままに本館を保存すべきと言っているのではないし、CDGをすべて凍結すべきと言っているのでもない。歴史遺産を保存するとして、ではどのように保存するかという問題、そして同時にどのように研究や教育の環境を整備するかという現実的な問題も存在するから、現実的な次元での解決策を見つけるために議論を今後も続けていきたいと思っている。だからオープンフォーラムには続けて参加してきたし、意見を投げ続けてきた。

「歴史」を錦の御旗にしていたずらに保存を主張する保守主義ではない。繰り返していうが、大学とは公共に属する存在である(だからオープンキャンパスという和製英語はちょっと意味が分からない)。その大学が、記憶の継承を行わず、かつ自らの利便性を追求するのであれば、それは大学としての存在意義にかんする問題であるからこそ、わたしは声を上げる。

それがひとりの卒業生の声として届くことを、また大学の理念に基づいて、民主的に対話が行われることを、そして学生たちが主体的に考え、行動することを期待している。




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大学の歴史については、以下を参考にした。

C.W.アイグルハート(1990)『国際基督教大学創立史:明日の大学へのヴィジョン』国際基督教大学。
高柳昌久 (2008)「中島飛行機三鷹研究所:その建設まで」『アジア文化研究』34: 123-32.
-----. (2011)「中島飛行機三鷹研究所:その疎開と終焉」『アジア文化研究』37: 63-94.
-----. (2015)「中島飛行機三鷹研究所:その稼働期」『アジア文化研究』41: 75-112.
武田清子(2000)『未来を切り拓く大学:国際基督教大学五十年の理念と軌跡』国際基督教大学出版局。
田中康博 (2016)「ヴォーリズの夢?:国際基督教大学本館建て替え問題をめぐって」『現代思想』44(21): 135-41.

他に
伊澤拓也「ICU本館 「戦争遺跡に」建て替え案に学生ら反対」『毎日新聞』2016年12月7日夕刊
伊澤拓也「旧陸軍ジェット戦闘機 幻のエンジン部品発見 ICU構内」『毎日新聞』2017年11月15日

登戸研究所については
赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会 (1991)『高校生が追う陸軍登戸研究所』教育史料出版会。
山田朗、渡辺賢二、斎藤一晴 (2011)『登戸研究所から考える戦争と平和』芙蓉書房出版。

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