「消極的プロテスト」

何かにプロテスト(抗議)する、というと相手を批判し、自分の正しさを主張するというかたちを取ることが多い。国会前のデモも、ヘイトスピーチのカウンターも、フェミニズムも三里塚も安保闘争もそうだった。


わたしはそういうの、苦手だった。
相手が間違っていると断言できるほど、自分が正しいとは思えなかった。確信するために十分な議論なんて、国会の中でも外でも行われていないことがほとんどだ。
せめて言えるのは、共感できるかできないか、それだけだったのかもしれない。

だから国会前には行かなかった。行けなかった。
わたしはそこに、自分の居場所を見いだせなかった。
あのとき、ラップ調のシュプレヒコールにのせて、繰り返し唱えられていた言葉のひとつに、「戦争法案絶対反対」があった。
わたしは安保法を「戦争法案」と言い切るだけの自信も、それに「絶対反対」と言うだけの強い意志も持ち合わせていなかった。

そして何より、一様に同じ言葉を唱える、あの同調圧力。わたしの大っ嫌いなもの。
だからさっさと退散した。いや、逃げた。




それでも、多数派の意見に、ただ彼らが多数派だというだけの理由で、同調したくはなかった。権力の側のいうことを安易に受け入れたくはなかった。しっかりと自分の頭で考え、自分の正しいと思えることを信じ、自分らしい言葉を語りたかった。
あのときのわたしの居場所は、どこにあったのだろう。どうやったら、流れに飲み込まれることなく、「抗議する人びと」の一部になることなく、自分の声をあげられたのだろう。




誰かに評価されること、見られること、好かれる/嫌われること……そんなことを気にして、自分を偽りたくはなかった。

自分の審美眼を磨くことなしに、モテるために自分を演じることも嫌だったし、
みんなが評価しているとか売れているという理由で、好きでもない本を読むのも嫌だった。
そんなことをしていると、自分がスカスカになっていく気がした。
誰が何といっていようと、わたしはわたしの世界を大切にしたかった。

そしてそれと同じように、他の人の世界も、できるだけ尊重したかった。




他人を否定したり、批判することなしに、自分は自分の居場所を作り、自分の思うままに行動する。
同調圧力には屈しない。
わたしはこれを「消極的プロテスト」と呼ぶことにした。


自分らしく生きることは、むずかしい。

まわりがスタンディングオベーションで拍手喝采を送っている中で、わたしだけ座っているには強い意志がいる。
自分のペースをつねに保っていられるほど、わたしの意志は強くない。
みんなが流行を追っているなかで、自分だけ時代遅れの好きな服を着ていたら、どんなレッテルを貼られることか。。

それでも、わたしはひとりじゃない、と思う。

なんとなく釈然としない思いを持ったまま多数派に流されている人もいるだろうし、多数派に与することで安心感を覚える人もいるだろう。本当はやりたくないのに周りがやっているから自分もやらざるを得ないと感じている人。仲間はずれにされるのが嫌で言いたくもない悪口を言ったり、かわいいと思えない服を着たり。そんな人もいるはず。

だから、わたしは同調圧力に屈しないで、自分の信じるように行動することで、その同調圧力に風穴を開けたい。着たい服を着て、自分のペースで行動して、自分の好きな音楽を聴き、好きな本を読む。

そうして自分の居場所を作ることで、居場所がないと感じている他のだれかの居場所を作ることもできるのではないかと思っている。
多数派はあんなだけど、そうじゃない選択肢もあるんだよ、と示すことで。

たとえば。
「普通」の道を歩むこと、つまり偏差値で選んだそれなりの大学に進むことしか選択肢になかった高校時代。きっと少数でも、そうじゃない道を選ぶ人がいたなら、わたしはあんなに息苦しい思いをして大学なんか行く意味が分からないと閉塞感にさいなまれることもなかっただろうな。


こんな人もいるんだ、じゃあわたしもここにいていいんだ、と思える場所を作るために。
そしてなにより、自分が自分でいるために。
わたしは圧力に負けずに、自分を信じ続けます。

強力なプロテストをするほどの意志も強さも持ち合わせていないけど、この世界の片隅にいる自分の居場所は、消し去りたくないから。

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