ラダックにおける一妻多夫婚と父方平行イトコ婚、あるいは文化人類学へのいざない




「人類学者とはいずれ、故郷を喪失した旅する異人である。異人のまなざしをもって、あるいは外部からの視線を武器にして世界にあらたな認識をもたらそうと企てる者たち。」
赤坂憲雄 (2007)『結社と王権』講談社学術文庫

先日、とあるところで、ラダックの婚姻に関して文化人類学の観点からお話しする機会をいただき、20分あまりですがお話してきました。
伝えられなかったこともいっぱいあるし、もちろん伝えられなかった相手もたくさんいるわけで、僅かだけどその埋め合わせもしたいと思い、その講義の内容を少しやさしくして、詳細なかたちでブログに書くことにしてみました。
そもそも文化人類学って何?って思われているかたもいらっしゃるかもしれませんが、それは最後に解説しますので、とりあえず読み進めてください。

1.舞台:ラダックとは?

ラダックという地域はインド北部の山岳地帯、州でいえばジャンムー・カシミール州の一部です。ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の中に位置し、平均の標高は3500m。文化はチベットが広く浸透しており、中国のチベット本土では文化大革命の際に多くの文化財が破壊され、宗教的弾圧は今も続いているのに対して、ラダックでは中国のチベット本土よりもチベットらしさが残っていると言われています。1970年代に外国人に開放されてからは観光地化が進み、カシミールをはじめとして外部から商業目的で移住者が増え、街の発展と引き替えにチベットらしさは失われている——と書くと望ましくないことのようですが、中立的な言い方をすると——つまり昔ながらの生活や文化から次第に離れ、より近代的な生活が広まってきています。
今回は六月末から八月末までの二ヶ月間、ホームステイやゲストハウスでの滞在を中心に楽しんできました。調査目的ではないのですが、やはり人類学的興味からいろいろなことを聞いてきたので、ここにまとめます。


2.父方平行イトコ婚?

父方平行イトコ婚っていってもさっぱり意味不明だと思うので、定義から説明しましょう。
イトコはご存知の通り、親の兄弟の子供を指しますね。ちなみになんでカタカナになっているかと疑問に思う方もいらっしゃるかも知れませんが、人類学ではキョウダイ(兄弟も姉妹も指す)、チチ、ハハなどカタカナで書く習慣なんです。それ以上の意味は特にありません。
実はイトコには二種類あって、というか人類学者が二つに分けているだけかも知れませんが、平行イトコと交叉(交差)イトコがあるんです。
平行イトコというのは、親の同性のキョウダイの子供を指し、交叉イトコは親の異性のキョウダイの子供を指します。もう一度言うけどキョウダイは(siblingsの和訳なので)男女を区別しません。
たとえば、私を基準にしたとき(人類学では、基準・中心とする特定の人物をエゴというので、”私をエゴとすると”)、私の父の兄・弟の子供は平行イトコです(母の姉・妹の子供も然り)。一方、私の父の姉・妹(および母の兄・弟)の子供は交叉イトコになります。
あるいは、私には兄と妹がいるのですが、私の子供(この男女は関係ありません。どっちでも同じです)と、兄の子供は平行イトコになります。私と兄が同性だからです。一方、私の子供と妹の子供は交差イトコになります。これがなぜかきっちり説明できれば、あなたも立派な人類学者の仲間入りです。
あなたのイトコは平行イトコ?交叉イトコ?考えてみて下さい。ちなみに私にイトコはいません。。。


言語・文化によってはこの二つは言い方が異なる場合もあるので、やっぱり単に人類学者の都合で分けている訳ではないですね。日本語ではキョウダイを男女・年齢序列で区別するけど、英語では男女でしか区別しないのと同じようなものです。言葉で区別するってことはその文化にとってその区分がそれだけ重要ということです。なぜ平行と交叉イトコの区別が重要かというと、文化によってはそれが望ましい結婚相手、第一候補であったり、あるいは結婚がタブーとされる相手であったりするからです。もちろん誰が望ましいかとか望ましくないかは、文化によって異なりますので、父方平行イトコがいい、とどこでも思われている訳ではありません。

もう一つ重要な概念が父系制・母系制です。これは子供が父・母のどちらの一族に属するかを指す言葉です。日本では多くの場合、子は父の姓を名乗り、息子が父の財産を相続しますね。一方の娘は結婚相手の男性のところに属する。この場合父系と考えてます。母系制の場合、娘は母の家を相続します。
でも厳密に言うと、日本は父系制ではありません。ご存知のように、結婚して妻の方の姓を夫や子供が名乗ることもあるからです。いわゆる婿養子とかいう場合が、その典型です。父系・母系にとらわれないこのような制度を、「双系制」といいます。(この段落を読んで頭が混乱した場合は、読んだことを忘れて下さい。ここからは、便宜上、日本を父系制だと考えて話を進めます。)
父方平行イトコ、というと父親の兄・弟の子供を指しますが、父系制の場合、父方平行イトコは二人とも同じ一族に属します。例えば私(荒木)の父はもちろん荒木家です。また、私の父の弟(オジ)もまた、荒木家です。すると、オジの娘も結婚するまで荒木家に属します。つまりこの娘が私と結婚した場合、生涯荒木家に属し続けることになります。これが父方平行イトコ婚です。
では父方平行イトコ婚にどんなメリットがあるかというと、第一に、これはイトコ婚全般に言えることですが、親同士が兄弟なので深い繋がりがあることです。親しい相手ですね。揉めても親族の仲裁でなんとかなることが多い。第二に、財産が分散しないことです。私の父とオジは荒木家の財産を二人で分けることになりますが、私とイトコが結婚すれば分かれた財産はふたたび荒木家に集約されることになります。メリットは他にも色々ありますが、細かい話になりますので、とりあえずここまでにしておきます。

いとこ同士の結婚というと、近親婚? 近親相姦?? という言葉が思い浮かぶ人もいるかもしれません。でも、今の日本では、民法上は認められているし、実は近世までは(ヨーロッパでも)一般的に行われていました。Wikipediaの「いとこ婚」の項目を見てみれば具体例が山ほどでてきます。こんなに書き連ねる暇な人がいるんですねぇ。。。たとえば『源氏物語』でも、光源氏と、彼の最初の妻にあたる葵の上はいとこです。源氏の父・桐壺帝と、葵の上の母・母宮が兄-妹の関係だからです。さて、これは平行イトコでしょうか、交差イトコでしょうか…?

イトコ婚がタブー視されるようになったのは意外と新しく、明治以降の話です。明治に民法が制定されて、長子相続(長男が家を継ぐこと)が定められたので、強固な父系制が制度化されたことになります。江戸時代までは次男以降が家を継いだり、子供がいても養子や婿養子を取ったり、ということも珍しくなかったのですが、明治に入って長男は家を継ぎ、次男以降は都市や親戚のところに働きに出て、女性は家を出て余所の家の嫁に入ることが制度になり、規範になっていきます。いわゆる「イエ制度(家制度)」というやつです。そうすると女性が生まれた家系に留まることは望ましくないこととされて、イトコ婚もタブーになっていきます。伊藤左千夫の『野菊の墓』の世界は、まさにそれですね(わからなければ、恥ずかしいと思ってこっそり読んでおくこと)。

さて、次は、実際にラダックにおける父方平行イトコ婚の例をケーススタディとして見てみましょう。

3.A村における父方平行イトコ婚

私がラダックのA村(プライバシーのために伏せてあります。読者の方の中にはラダックに行く方がいるかも知れませんので、遠い国の話でも明らかにできないのです。)でイトコ婚を見たのは本当に偶然でした。ある時に特定の人物が話題になって、そのとき「彼はイトコと結婚したんだ」というから、人類学徒としての私が過敏に反応し、細かく訊いてしまいました。
本来、イトコ同士の結婚は、ラダックではタブーです。8世代(7世代という人も)前まで遡って血縁関係が認められる関係は、「同じ肋骨から出た」という表現をされ、近親婚として禁忌になります。
ではなぜA村の例はタブーに反するイトコ婚をしたのでしょうか?
これは実はラダックでは特殊な例なんですが、下位カーストみたいな一族がやった例なんです。だからちょっと、ラダックの普通の価値観では受け入れられないことも起こります。でもなぜイトコ婚を行ったのか?少し考えてみましょう。

一つの要素として、内婚制、つまり同じ集団の中から結婚相手を選ぶというルールが挙げられます。ラダックはいわゆるインドのカースト制ではありませんが、それでも社会的に下層に位置する職業や親族集団はいます。ラダックでは鍛冶職人がそれです。鍛冶職人の家系は、普通の人と結婚することは許されず、同じ下層階級の中から結婚相手を選ばなければいけません。(日本の部落民とか、昔の"えた"などもそうですね。)そうすると、イトコというのは最も手っ取り早い相手になります。
また、下位カースト特有の内向きな性格も考慮すべきでしょう。社会との接触の頻度が低い集団ですから、どうしても外との交流は少なくなり、社会的に疎外された集団になってしまいます。社会から孤立していると、同じ親族集団の中くらいしか結婚相手候補が見つからないという事態も考えられます。
一方、このイトコ婚と通して、兄弟の絆は深まります。自分の娘と兄弟の息子が結婚する訳ですから。そして、親族の結集が高まります。財産があるのかは分からないけど、財産は集中します。他方で、タブーを犯したことや、内向きな集団の性格を強めることによって、下位カーストらしさは再生産される、つまり、外から見てみれば、あいつらあんなことやってるし、やっぱり卑しい奴らだと思われ続けるきっかけになってしまうわけですね。

以上で父方平行イトコ婚の解説はおしまいです。ここには書かれていない色んな要素、イトコ婚のメリットとか理由とか、もあると思いますので、考えてみて下さい。
次は少し話題を変えて、一妻多夫の話に入っていきます。

4.一妻多夫(いっさいたふ)婚

一夫多妻(いっぷたさい)なら聞いたことのある人も多いかと思います。代表的なのはイスラーム圏で行われているものですが、一人の旦那さんに対して複数の奥さんがいるやつです。羨ましいですね。。。

一妻多夫はその逆で、一人の妻に対して複数の旦那さんがいる場合です。これは世界的に珍しくて、チベットを含めて世界でも片手で足りるくらいの箇所でしか確認されていません。現在は、ほぼ行われていません——と、去年の授業では教わりました。だから、実際に一妻多夫婚をやってる人を見たときは感激でした(そこで感激するのも失礼な話ですが)。
「複数の旦那さん」は、赤の他人同士であることもありますが、多くは兄弟です。稀に親子という場合もあると、文献には書いてあります。今回見ていく例は、兄弟が一人の妻を娶る例です。

5.B村における一妻多夫婚

インドにおいても、独立(1947)した頃に一妻多夫婚は禁止されました。ですがヒマラヤの辺境の村ですので、政府の統治もそこまで及ばず、実際には1990年代までは一般的に行われていたそうです。
一妻多夫婚のメリットって何でしょう。実は結構いっぱいあるんです。
まず、父方平行イトコ婚と同じく、家財が分散しないことです。たとえば私と兄が一人ずつの奥さんを娶ったら、荒木家が二つに分かれるわけで、私の父が他界した時に私と兄で財産を分けなければいけなくなるか、どちらか一方(たいてい、そういうのは兄)が相続して、もう一人は独立して生計を立てなければならなくなります。もし私と兄で一人だけ共通の奥さんを迎えた場合、荒木兄弟と奥さん(とその子供)で一つの”荒木家”になるわけです。実際、私がこの例をみたB村は非常に狭い谷間に住居が密集していて、その兄弟はその中でも特に土地の少ない家なので、二人で土地を分けるわけにはいかなかったのでしょう。もちろん、兄だけが相続して弟が独立するという手もありますが、そうすると弟が独立して生計を立てなければいけなくなるぶん、経済的な負担になることもあります。
第二に、人口抑制の効果もあります。なにせ狭いところで土地が限られていると、生産できる食料が限られてくる訳です。狭い荒木家の土地から生産される食物の量は変わらないので、子供が増えると食糧難に陥ってしまいます。すると、子供の数は少なくしておきたい。産む機械の数(皮肉ですよ)が少ないことは、ここでは都合のいい場合もあるんです。
第三に、労働力の集中と家族の繁栄の効果があります。じつは一妻多夫婚は土地の少ない人だけでなく、貴族的階級の間でも行われていた過去があります。一家の中で働き手が増えれば、家族が繁栄するからです。たとえば、私と私の兄が二人で荒木家の為に働く。私は鍼灸師をして、兄は会社員をすると、収入は二倍になります(なるといいですね、鍼灸師の給料は安いので)。忙しい時期には兄弟二人で畑仕事をして、農閑期には弟が都市に出稼ぎに行くとか、そういうこともできるわけです。そう考えると一妻多夫婚も悪くないなと思いますけどね。兄がせっせと働いて、私は稼ぎの少ない研究者になる、ってこともできるから。とはいえ、二人で奥さんを「シェアする」みたいなかたちになるのは、あまり快くありませんが。

ここまでは経済社会的メリットだったんですが、もちろんそれだけでは一妻多夫婚は成り立ちません。世の中はメリットや合理性だけで動いている訳ではありません。そこには精神的な動機というか、彼らが持っている文化的な価値観があるはずです。
これはラダックの中でも地域によって異なるんですが、一つには兄弟の結束がつよいことが言えます。兄弟が一つの社会的単位であって、結婚を通して妻と家がつながる。私たちは結婚を、一対一の関係と考えてしまいがちですが、ラダックでは必ずしもそうではありません。もちろん、精神的に抵抗感が全く伴わない訳ではありませんが。
地域によっては、長男の権限が圧倒的に強く、弟はそれに従属する立場である、という場合もあります。そうすると、家庭内の立場においても、子供への権利においても、性交渉の機会においても弟は常に兄の意思に従うしかない、ということになります。

一妻多夫婚をしてると男女比が偏るんじゃないの?と思われる方もいると思います。そうですね。しかも、一妻多夫でも結婚できるのは次男までで、三男以下は結婚できないという場合もあります。そうやって結婚できない人は、大体出家します。坊さんや尼さんになるのです。ラダックでは、特に女性は、一生を独身で過ごすというのは出家しない限り社会的に許されていません。
「父親」ってどうなるの?という疑問も沸くでしょう。彼らにも、当然ながら生物学的な父親、つまり誰の精子から産まれてきたかという概念はもちろんあります。そして多くの場合、子供はどの父親のものかは分かっています(月経周期と性交の日から計算する)。ですが、生物学的父親と社会的父親は別です。子供は、どの父親に対しても、同様に父親ですし、どの父親も同様に父として子供に接します。なぜならそれが、父親だからです。誰が生物学的父親かは、相続の時とかと除いて問題になりませんし、おおっぴらに語られることはありません。むしろ、それを話すことはあまりいいことと思われていません。私も最後まで聞けませんでした。

私たちは、「本当の父親」、つまり生物学的父親は誰かということを確かにしたくて、悩んだり苦しんだりしますが、それは生物学的父親と社会的父親が同一である、あるいは少なくともそうあるべきと思っているからです。彼らの中ではそんな違いは大した問題ではないのです。
ほかにもいろんな疑問があるかと思いますが、私もそこまで詳しくないし、長くなってしまうので、ここまでにします。詳しく知りたい方は、文化人類学の論文とかを読んで下さい。

6.まとめ:(文化)人類学とは?

ここまで、詳しく個別の事象を見てきたんですが、でも結局文化人類学ってなんなの?とか、なんで文化人類学ってこんなことしてるの?って思った方もいらっしゃるでしょう。
文化人類学ってなんでしょう。
まず、人類学という言葉から解説します。人類学とは、その名の通り人類を考える学問です(これでは抽象的すぎますね)。人類学と付く学問は、大きく分けて二つ、自然人類学(形質人類学, phisical anthrolopogyともいう)と文化人類学があります。イギリスでは後者を社会人類学といいますし、ドイツやフランスでは民族学ともいいます。(さらに文化人類学の下位領域として、○○人類学というのがあります。宗教、医療など)今では、文化人類学を人類学と言ってしまう事も多いですね。アメリカ合衆国をアメリカというようなものです。
いずれも出発点は、自分(当時はヨーロッパの白人)とは異なった人びとへの眼差しでした。黒かったり、背が高かったり、変な風習を持っていたり、そんな人びとを見て、彼らは問うた。奴らは、我々と同じ人間なのか?どのように異なり、なぜ異なるのだ?
自然人類学は、その違い、つまり「人種」を、身体的特徴から考察することに着目しました。次第にそれは進化によって生まれた違いだということがわかり、共通の祖先をもつチンパンジーの研究や、人類の祖先の化石などを通じて、人類がどのように進化したのか、どのような差異を持つのかを探求する学問になっていきました。
一方の文化人類学はというと、人種ではなく文化の方に注目します。最初は自然人類学と同様に、進化という説を用いて、西洋文明は進化が進んでいて、野蛮な文化は進化が遅れているのだ、と解釈していました。たとえば一神教を持っている西洋は優れていて、多神教はまだ進化が進んでいなくて、アニミズムや自然崇拝はもっと進化の低い段階にあると。これを「社会進化論」といいます。しかし、次第に文化とはそれぞれが環境に適応した結果であり、進歩の度合いは関係ない、文化に進んでいるとか遅れているというのはなくて、それぞれが固有の価値をもったものだ、と考えるようになりました。日本には日本の文化があり、イギリスにはイギリスの文化がある。どっちが進んでいるとかじゃなくて、みんなちがって、みんないい、ということですね。それでも、人はどのように異なり、どのように同じなのか、なぜその違いは生まれたのかという基本の問いは変わっていません。

注:そもそもアニミズム→多神教→一神教みたいな発展段階を「進化」と考えること自体、ダーウィンの進化論を誤って解釈しています。詳しく知りたい方は末尾の補遺をお読み下さい。

ちなみに文化人類学でいう文化とは、歌舞伎とかオペラとか、結婚制度とかに限らず、ひとつの集団が共有している概念・規範・知識・技術など様々なものをさします(ただし文脈によって、技術は含めないなど狭くなる場合もある)。たとえば言語(文法や語彙)も、結婚式もApple Watchも服装も音楽も手紙もLINEもTwitterも、QWERTY配列もフリック入力も文化だし、既読スルー禁止もキリ番踏み逃げ禁止もお絵かき掲示板も親指シフトもテレホタイムもネスケもカキコも文化です。え? 何それって? それはね…

少し話がそれましたが、つまり、自然人類学はわれわれ人類がなぜこのようなカタチで生きているのかと、自然へのまなざしから見つめる学問であり、文化人類学はなぜわれわれがこのようなスタイルで生きているのか、文化の側面から分析する学問なのです。人類の多様性と普遍性を、どういう視点から分析するのか、それが二つの学問の違いです。
したがって、文化人類学の目的は、上で書いてきたような個別の事象、この場合はラダックの結婚制度など、単にそれらを集めることではありません。
それらをもとに、もっと抽象的なレベルで、結婚とは何かを問い、さまざまな違いを元に人類がもっている文化の有りようや法則性、普遍性と多様性を解析することが目的なのです。
この場合で言えば、結婚の仕方は文化によってそれぞれ異なるし、父親という概念も日本とラダックでこれだけことなっている。それでも、結婚は家族の生活を担保し、子供の扶養の義務を明らかにし、一族と一族が接触するところだという点で変わらないということが、分かるかと思います。
大切なのは、異文化を通じて自らの文化を客観的に見てみることです。前の節で、わたしたちは「父親」をひとつのものとして考えてしまうけれど、それは生物学的父親と社会的父親の2つの位相を含んだものである、と書きました。こういう解釈を加えることで、わたしたち自身が持っている様々な概念(それらは往々にして無意識のうちに当たり前だと思ってしまっていること)を、すこし客観的に、一歩引いたかたちで見ることができるようになります。わたしたちの文化も、様々な多様なあり方のなかの1つにすぎないものだと分かります。こういう客観視のしかたを「相対化」といいますが、これは文化人類学のとても大事な要素のひとつです。


7.さいごに

最後に少し考えてほしいのですが、あなたにとって結婚ってなんですか?

それは、幸せであったり、ゴールであったり、スタートであったり、人生の墓場であったり、楽して生きる手段であったり、なんでもいいんです。
でも忘れないでほしいのは、それが「あなたにとって」の結婚であり、無意識にあなたの育ってきた文化の属性を帯びているということです。
自分には、気付かない事も多いけれど、自分の中での秩序観があって、その中で物事を見て、行動します。その枠組みというのは、文化や人びとによって、全く異なります。
異文化や他者というのは、自分とは枠組みが全く異なったものが、別の秩序観に基づいて動いている物なのです。だから、そもそも枠組みの異なる異文化を見るときに、自分の枠組みが絶対に正しいんだと思い込んで、その枠に押し込めて見ようとするやり方は、暴力であると私は思う。結婚とはこうあるべきだ、だから一夫多妻や一妻多夫はおかしい、野蛮だ、間違っている、劣っている、みたいな考え方。だけど、一夫多妻を実践している人にとっては、結婚とは、私たちとは全く違った物なのです。その違いに優劣はない。私たちが彼らを批判したり、評価したり、見下したり、そんなことは決してできない。
それでも、やっぱり自分のなかでの価値観を取り払うことはできない。ああすべきとか、こうあるべきといった枠が、どうしても存在する。だから異文化は奇妙な物に見えてくる。それは、仕方がないことだと思います。文化人類学者が、その枠組みを持たずに生きている訳ではありません。(それでも、世間一般の価値観を逸脱した人も多いので、変わったひとが多いのは事実ですが。)
そうだとしても、自分の枠組みは一旦置いておいて、起きていること、他人がやっていることをありのまま見てみる、という姿勢が大事なのだと思います。人類学をやっていてよかった思うのは、自分の価値観が絶対じゃないことを知り、価値観の違いを受け入れられるようになったこと、少しは、少しだけだけど、自分中心の考え方をやめることができたかなぁと思うことです。
異文化が奇妙に思えることはあるけれど、それは自分の枠組みを外れているからそう思うのです。だから、変だなあと思ったときは、なぜ自分がそれを変だと思うかを問い、そして自分の枠組みの存在に気付くことから、他者理解は始まると思います。
尊敬する作家の田中真知さんがおっしゃっていたことですが、人は、表面的な情報だけで、他者を分かった気になったり、それで批判してみたりしがちですが、自分を捕らえている枠組みに気付き、それがかわっていかない限り、他者というのは理解できない。理解というのは、簡単なものではなくて、自分のことすらも分からない、寄り添うくらいしかできないのかもしれません。
自分とは異なる人びとを見たとき、それを批判したり、排除するのは簡単です。でも、それは世界を悲惨な方向にしか導かない。人類学は、差異を認めて、全ての人の尊厳を認め、共存を促すことのできる学問だと私は思います。エピグラフ(冒頭)に赤坂憲雄さんの言葉を引用しましたが、人類学者は、どこにいっても異なる他者、異人でしかありません。それは避けられない運命ですが、その差異を武器にして、世界のへの新たな見方を提示することはできる。自分たちが生きている社会が、世界の多様性のなかのほんの一部分にすぎないことを示すことが、この憎悪と偏見に満ちた世界で灯りとなるのではないでしょうか。自分とは違う人を受け入れないよりも、世界にはたくさんの異なった人がいて、それでもみんな自分と同じように生きているんだって思った方が、ずっと楽しく平和に生きられると、少なくとも私は、そう思います。



補遺:社会進化論について


ダーウィン進化論の核は、変異と自然選択と自然淘汰にあります。ある生物になにか変異が起きて、その変化の特徴その生物が生きる環境下で生存に有利に働けば、結果としてその特徴を持ったものだけが生き残ることになる。
たとえば有名な「右利きのヘビ仮説(左巻きカタツムリ仮説)」があります。カタツムリは多くは右巻き(時計回りに螺旋を描く)ですが、一定数左巻きのものがある。生物が変異を起こすのは稀だから、左巻きであることがカタツムリの生存になにかしら有利でないかぎり、ごく少数の左巻きはいずれ滅んでしまうので、左巻きカタツムリがある程度存在するということはありえません。これを説明するのが「右利きのヘビ仮説」です。ヘビは右巻きのカタツムリの殻の奥まで頭を突っ込んでカタツムリ本体を食べられるように、右の歯が多い場合が多い(これも進化の結果)のです。したがって、左巻きのカタツムリはヘビから身を守ることができて、生き延びて交尾の相手を見つけることができ、残された子供も左巻きの性質を受け継いだ場合、左巻きの子孫が残っていく…こんな過程をくり返して、左巻きのカタツムリは繁殖していきます。
「自然選択」というのは、カタツムリが自ら「左巻きになろう」と"選択"するのではなくて(当然そんなことはできない)、自然環境の中で生き残るために有利な変異が偶然起こることをいいます。また、その変異を有利にするような自然環境の状態を「選択圧」といいます。
変異がすべて進化になるわけではありません。たとえば人間の血液型はA,B,O,ABがあります。これも変異が生んだ結果です(ゴリラはみんなB型)が、べつにA型が生存に有利とかそういうわけではありません。だけどもし、A型とAB型の人だけを刺す蚊が繁殖して、その蚊がマラリアみたいな感染症を運ぶとしたら、、O型とB型であることは生存に有利になります。そしてO型とB型が多く子孫を残すことになり、いずれA型とAB型は滅びます。こうして、環境に適した特定の特徴をもった種が多く繁殖するのがダーウィンのいう「適者生存」であり、そうでないものが滅んでいくことが「自然淘汰」です。結果として、ヒトという種はO型やB型という特徴を獲得していく。これが「進化」の過程です。生物は複数の子を産むので生物の集団のサイズは大きくなるけれど、捕食や繁殖の機会は限られているから、生存競争がかならず起こります。そして、生存に適した特徴を受け継いだものたちが結果として生き残ります。これをくり返すことで、生存に有利な特徴を蓄積していきました。つまり人間は、二足歩行とか、脳の容積とか、いろいろな特徴についてこういう変異と生存競争・自然淘汰をくり返した結果、いまの形に進化したわけです。共通の祖先を持っているオランウータンも、別々の環境で生きることで、ヒトとは異なった選択圧がかかり、別々の特徴を獲得することをくり返して、いずれ別の種となっていきました。

つまり、進化とはゼニガメがカメールになってカメックスになる、というような、決まったひとつの道筋をたどるものではありません。ポケモンの進化は、生物学的には進化ではなくて「変態」に近い。青虫が蝶々になるような変化を生物学では変態(メタモルフォーゼ)といいます。海に生きるゼニガメたちは深い海に潜れるような大きい肺を獲得する一方で、沼のゼニガメは泥の中を潜って虫を捕れるような大きい爪を獲得して生存していくとか、環境に合わせた選択と淘汰による世代を超えた集団の適応の結果が進化なのです。

したがって、アニミズムや呪術が宗教に進化するとか、野蛮が文明になるとか、アフリカよりアジア、アジアよりヨーロッパが進んでいるとか、そういう1つの道筋を想定した「進化論」自体がそもそもダーウィン進化論を誤って解釈しているわけです。こういう考え方は「一系的社会進化論」といわれ、いまでは誤った物であるというのが定説というか、常識です。しかしながら、いまでも、文化について進化の考えを用いようとすると、文化を序列化することにつながるという批判が出てきますが、これは一系的な(ポケモン的な)「進化」の考え方にとらわれていて、正しくありません。

一線的社会進化論は滅びたけれど、社会進化論自体は今でも有効であると考えられています。上の社会進化論と区別するため、文化進化論や、多系的社会進化論という場合もあります。これは、文化がある特徴を獲得する過程をダーウィンの進化論的に解釈したものです。というか、ダーウィン自身が文化と生物の進化は似ている、と書いています。人から人へと伝えられる上に、ときに変化が起き、人が記憶できる容量は限られているので生存競争が起こり、適したものが生き残る。たとえば、言語は家族や教師など周囲の人から伝えられ、言文一致や常用漢字といった新たな用い方や、ナウいとか既読スルーみたいな新しい語彙が生まれ、生存競争に残ったものが生き残る。だから複雑な係り結びも旧字体もなくなったし、英語では昔たくさんあった不規則変化も今ではごく少数しか残っていない。

腕時計がApple Watchやスマートウォッチになることを「進化」という言い方がされることがありますが、これは進化論的には正しくない。ただの変異です。従来型の腕時計とスマートウォッチによる生存競争の結果として後者だけが生き残って、腕につける時計がすべてスマートウォッチになったときがはじめて「進化」したということです。

ただし、生物の進化と文化進化は相違点もあります。まず文化は遺伝子を持たないし、したがって親から子へだけ伝えられるわけではないし、さらにメンデルの法則も全か無かの法則も当てはまりません。つまり顕性と潜性(優性と劣性)もないし、2つのものの中間が継承されることもある。右翼と左翼の2つの文化のうち、どっちか片方が受け継がれるわけではなくて、中道とか中道左派・中道右派もあるように。さらに、文化進化は自然環境だけでなく、社会環境にも影響されます。だから昭和24年の「当用漢字字体表」から外された旧字体は戦後の日本では使用されなくなった。それにくわえて、文化の進化には流行や感情などのバイアスが掛かることも多い。ベータマックスがVHSよりも規格上は優れていたとしても、広告戦略や市場での競争に敗れて継承されなかった。さらにさらに、生物の進化は目的を持たない(カタツムリは生き残るために左巻きになろうと思うのではなく、偶然左巻きになった結果生き残る)のに対し、文化の進化は目的を持ちます(生き残るために腕時計にいろんな機能を詰め込もうとする)。

こうした自然の進化過程にはない文化独自の視点を加えつつも、実証的に文化進化論を研究する動きは盛んです。ちょっと前に流行ったミーム論なども、文化進化論のひとつです。ミームは批判も多いのですが、そうした視点を克服しつつ文化進化の過程を実証することで、社会科学と自然科学(文系と理系)の統合を図ろうとする動きも盛んです。

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