「みつばちの大地(More Than Honey)」みつばちが人間にもたらすもの 

「人間の食料の三分の一は、ミツバチに依存している。」


植物種の八割はミツバチを介して受粉し、実を付ける。そのことなしに人類の食生活は成り立たない。
しかし今、ミツバチの多くが姿を消している。地域により異なるが、在来種の五割から九割が消滅したとも言われている。

原因は何なのか。
それが、この映画の主題。


映画はまず、ミツバチの生態と、人間とミツバチの関係を描いている。

スイスとアメリカ合衆国の養蜂業を対比的に描きながら、ミツバチを飼育し、かつ共生しているところを鮮明に写している。
スイスの養蜂は昔ながらだ。人の手でハチを捕り、それらを自分の小屋で飼育する。長閑な山岳地帯で、のんびりとした養蜂家の暮らしとともに、養蜂業も長閑で、自然と共にある感じがする。
一方のアメリカ合衆国は対照的だ。大規模な農業の手助けと養蜂業が互恵的関係にある。つまり、アーモンドの花が咲く季節になれば養蜂家はトラックにミツバチを満載し、ミツバチを放つ。そして十分な受粉が終われば、また別の地域で別の植物の受粉をさせる。これは、アーモンドの時期が終わるまでは他の蜜を取らないというミツバチの特性を活かしているのだ。
アメリカの方はいささか商業的で大規模であり、養蜂家も資本主義者を自認しているほどで、もう昔ながらのやり方は通用しないと語るが、いづれにしても人間とミツバチが切っても切れない縁にあることを十分に物語っている。

しかし問題はつねにつきまとう。
一つはミツバチの病気だ。ヨーロッパにしろアメリカにしろ、人為によってもハチの病気を防ぐことはできない。そこで使われるのは抗生物質。特にこの映画では、米国の養蜂家が、ハチに与える砂糖水に大量の薬品を混ぜて与えているのが印象的に映されていた。一方のスイスでも病気が発生し、こちらは対象の群をすべて硫黄で燻して処分する方法が取られる。だからといってこれを北米と欧州の対比と考えるのは早計だが、ここで言いたかったのは病気の問題に養蜂家も手を焼いているということだろう。
更に農薬や殺虫剤の問題もある。養蜂家だって農薬散布は嬉しくない。農薬はできればハチのいないときにやってほしいが、大規模農業ではそうもいかない。アメリカでもヨーロッパでも中国でも、農薬なしに養蜂は成り立たない。それらの農薬は、蜂蜜の中にも残留し取り除くことはできず、僅かとはいえ人体に摂取される。

悲惨な例が中国だ。毛沢東は人間の食料を狙う雀を退治をさせたが、その結果、虫の大量発生を引き起こした。今度は殺虫剤を大量に使用した結果、ハチが絶滅してしまった地域が出てきてしまったのだ。そこでは人の手で花粉が採取され、一つ一つ手作業で受粉が行われている。ミツバチのいなくなった世界を物語っている。
アインシュタインはミツバチが絶滅したら四年後に人間が滅びると言ったそうだ。(映画の中ではそう語られているが、本当はどうか知らない。)

もう一つの原因は種の移入と交代。アメリカの養蜂は今まで比較的穏やかなヨーロッパ種の蜂が飼育されてきたが、南米を介して移入した凶暴なアフリカ種が北米にまで侵入し、人が死ぬ事態まで起こっている。
養蜂家たちも、手を焼きながらも、アフリカ種を飼育する方にシフトせざるを得なくなった。凶暴な蜂は、米国内だけで数年のうちに十四人の死者を出した。しかし今のところ手立てはない。殺虫剤を使って中国の二の舞になるか?

この映画の特筆すべき点はその映像にある。最新の技術を駆使し、圧倒的な質の映像を使っているのだ。無人機やミニヘリコプターによるミツバチの追跡や、マクロや内視鏡によって女王ハチ誕生の瞬間や病気の様子を捉え、高速カメラでハチの交尾を写す。ちなみにハチは飛行しながら交尾し、終わったらオスは死ぬ。

冒頭のクエスチョンに対する答えは、ハチの病気、種の変化、薬剤、ハチのストレス、電磁波など、どれか一つではなくて、それら多様な要因が複合的に影響したのだろうと結ばれる。
だが映画はそこでは終わらず、もう一歩踏み込んでいる。つまりは文明批評だ。ハチは人間と共生していたはずの生き物なのだが、いつしか人間の都合によって家畜化された。そして今、ミツバチは力尽きようとしている。このハチの苦役には、ベジタリアンでも向き合わずにはいられない、と。
最後のシーンは、どんなに人がハチを支配しようとしても、ハチにはハチの生きようがあるということを示唆し、人間の傲慢を戒めているようにも思えるストーリーだ。

この映画では、養蜂されているハチについてしか描かれていなかったが、自然に生きているはずのハチについても語られている。たとえばTEDのこのトーク。http://www.ted.com/talks/marla_spivak_why_bees_are_disappearing
ここでは人間の農業によってハチの生息できる環境がなくなったというのだ。五十年代以降、北米では大規模なモノカルチャーが浸透し、さらに化学肥料を使い始めたことから、かつては畑に窒素を与える役割のあったと同時にハチを養っていた開花植物やアルファルファを植えなくなり、さらに単一栽培種の花の咲く季節しかハチが生きられなくなったのだ。
つまりいままでの要因をまとめると、ハチは病気によって体中が冒されていて、さらに食料砂漠(Food desert:食料品の入手手段が乏しい地域。過疎地など)に住んでいて、かつ手に入れても毒性があり帰り道がわからなくなってしまう危険がある、ということだ。
TEDトークでは個人で出来る解決法として、花を植えることと薬剤を使わないことが挙げられている。これはでも、モノカルチャーが浸透した北米に特に言えることで、日本ではあまり関係ないと思うかもしれない。映画についても同様で、日本の養蜂家はアメリカほど大規模の商業化されたものではない。

だけど、映画が伝えようとしているのはそういう単にハチの危機ではなくて、人間とミツバチや人間と自然、人間と他の動物種との関係性のことだ。人間が人間の都合に合わせて繁殖させ家畜化し、彼らのペースを無視して手を引っ張る。そのような生かし方に疑問を投げかける。

個人に出来ることは少ないかもしれない。消費者は主に消費によってしか行動することができない。大企業はその消費者の要望に応えるために必要な管理の仕組みを構築し可視化することが難しいので第三者に依頼したいし、そうすればブランド力にもなる。いわばその下請けとして機関が存在する。”フェアトレード”が典型的な例だが、それが実際に社会を救っているとは言い難い状況だ。
では悪いのは企業や事業者だろうか、といったらそうでもない気がする。例えばスターバックスがレインフォレスト・アライアンス認証の豆を使っていて、それがフェアトレードの理念を実は達成できていないからといったってスタバやアライアンスが悪いと一概には言えない。資本主義だけでは解決できない機能不全がどこかにあって、社会のために実際に機能しているのはもっと小さなアクションだ。Conor WoodmanのUnfair Tradeという本に詳しい。

それで、TEDトークの締めくくりには、人間が蜂の社会に学ぶべき事を掲げている。蜂は個体では小さい脳しか持たないが、集合的には高度に発達した社会システムを持っている。これは個々の合計よりも更に高いアウトプットになるのだ。

たんに人間が自然のなかで生きてるんだよっていうありふれたメッセージだけではなくて(それだけでは何の解決にもならないから)、もっと現実的な視点から鋭い文明批評をしている優れた作品だと思う。

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