売れない絵描き、フランツ・カフカ

先日、Facebookに頭木弘樹さんの『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』の感想を書きました。(結構長いので、一番最後に載せておきます)

簡単に本を紹介すると、
常に前向きでやる気と希望に満ちあふれていたゲーテと、
常に後ろ向きで絶望の淵にいたカフカの、
名言を対比的に紹介しながら解説している本です。
前向きな言葉も重要だけど、やっぱり落ち込んだときには後ろ向きな言葉が響くこともあるよね。カフカは生前は認められることもなく寂しく過ごしましたが、私はそんなカフカに共感を覚えました。彼は、繊細でとても優しい人でした。


この本の中でもう一つ印象に残ったのは、絵です。
ゲーテは何でも器用にこなす人でした。文筆家として成功した一方で政治家としても、発明家としても活躍しました。そして、絵を描かせればプロ並みの腕前でした。というか、画家を目指していたこともあったくらいです。
これがゲーテの絵。(出典)





一方のカフカも、趣味で絵を描いていました。でも彼は絵でもその才能を見出されることはありませんでした。
彼自身、人に見せられるような代物じゃないと言っていましたし、見せてくれとせがんだ友人が粘った末に見たとき、「失望した」と言っています。
ではカフカの絵がそんなに酷かったんだろうか。。。
と思って見てみると、そうでもないんです。

これがカフカの絵。
いい絵でしょう?
私は絵には詳しくないんだけども、こういうデフォルメの仕方は現代のわたしたちの目から見れば心地よい。いまカフカが生きていたら、イラストレーターとしてそれなりに売れたのではないかとおもってしまう。それが、彼にとって良いことかはさておき。。

他にもカフカの絵は残っています。(出典)
馬と騎手(1909-1910)

走る人(1907-1908)

考える人(1913)

走る人(1912-1913)

1910年代前半と言えば、パブロ・ピカソやブラックがキュービズムの絵を描いていた頃。
カフカも絵に本格的に取り組もうと思いレッスンを受けたことがあったらしいけど、ほんの数回でやめてしまったらしい。もっと自由な場所で、自信をもって絵に取り組むことができれば、彼の人生はもっと違っていただろうなぁ。
でも、そうでないからこそカフカなんだと思う。自分に自信がなくてつねにびくびくしながら生きていて。内向的な人間は外に発信することなく自らの中で高めていきます。(そういえばTEDにこんなトークがあった。内向的な人が秘めている力について。これを見て自分はとても前向きになれたし、今のままでいいんだって本当に思った。)

生きている間認められなかったからこそ彼の苦悩があり、その苦悩と必死で戦い、もがき苦しみながら、愛に縋って、でもまた愛に苦しみながら生きたカフカ。私は大好きです。

そんなカフカの優しさを物語るエピソードを、頭木さんがTwitterで紹介していたので、それを紹介して終わりにしたいと思います。

カフカは晩年、といっても亡くなったのは40歳ですが、結核を患って転地療養をします。恋人のドーラが付き添っていましたが、彼は自分に死が近づいていると悟ると、ドーラを使いに出します。苦しんでいる姿を見せまいとしたのです。この時はもう会話すらできなくなり、専ら筆談で用を伝えていました。
それでもいよいよ最後の時になると、カフカをドーラを求めました。看護師はドーラを呼び戻し、ドーラは花を買って急いでカフカの元に走っていきました。
でも、そのときはもう遅く、カフカは息を引き取った後でした。それでもドーラはカフカに縋り、「フランツ、これを見て、きれいな花よ、香りをかいで!」と言いました。
すると、カフカは目を開き、香りをかいで、微笑んだそうです……





孤独と病と愛に苦しみながら生きたカフカ。そこに秘められた才能。それに触れたとき、同じように生きる事に苦しむわたしたちのかすかな希望になるような気がします。



Facebookに書いた感想を、以下にそのまま載せておきます。

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今年百冊目に頭木弘樹さん編訳『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』を選んだ。これが非常に面白かった。

簡単に言えば、とことん明るく前向きで自信家だったゲーテと、とことん暗く後ろ向きで自信がなかったカフカを対比させて、彼らの名言を紹介しながら解説している。

まずは装幀がとても凝っている。帯かと思った下の黒い部分は実は折り返しになっていて、広げると表の白い方にはゲーテをイメージした明るい絵が、裏の黒い方にはカフカをイメージした暗い絵が描かれている。これだけでもう、わくわくする。

ゲーテは明るい人でした。よく食べてよく飲み、お洒落で、画家や政治家としても幅広い分野で活躍し、仕事にも積極的で、恋愛を楽しんでいた。一方のカフカは、菜食主義で小食、お酒も飲まないし、地方の役人として地味に働き、できることなら働きたくなかったし、生前は文学において評価されることも少なく、いつも自信がなく、苦悩に浸りながら生きていました。
カフカは、「希望はたっぷりあります。ただ、ぼくらのためにはないんです」とか、「自分の位置というものに、まったく自信が持てない」と書いています。一方のゲーテは「希望はわれわれを救い出す」だとか、「生きているあいだは、生き生きしていなさい!」だとか、無責任なくらい前向きなことを書いているんですね。

私自身がカフカ寄りの、自信もなく後ろ向きな人間なので、当然カフカの方に共感を覚えました。人生は絶望。ゲーテのような明るい言葉にちょっとは共感したり、それでがんばらなくちゃって思ったりもするんだけど、結局は絶望のところに戻ってきます。それが、人間ではないの?前向きな人間はもとから前向きな言葉なんて必要としないで、前向きに進んでいくし、後ろ向きな人間には前向きな言葉も一過性の意味しかもたない。そんな言葉を信じて、頑張ってみた所でもともと前向きな人間のポジティブさに敵うわけないんだから。ポジティブ本やポジティブな言葉ばかり集めた名言集が多く売り出されているけども、無理に鼓舞してるみたいで白々しくないだろうか。
たしかに前向きさは必要だ。失敗したときにそこから学んでいって次につなげていくこととか。それは分かるんだけどね、後ろ向きに考えてしまうことは止められないし、外部に影響されて前向きになってもねぇ。
ハリウッドスターとか著名人が、諦めなければ夢は叶う、みたいな無責任なことを言っている。でも成功できるのは一部だし、成功した人だけがそんなことを言う特権を持ってるだけだ。残りの失敗する大多数の人に、彼らの言葉は通用しない。
北野武さんは「『やればできる』、そんな言葉に騙されるな」と言っているし、桝野浩一は「前向きになれと言われて前向きになれるのならば悩みはしない」という短歌を詠んでいる。

無理に前向きになろうとして自分の広げていこうとすること、つまりファウスト的衝動、よりかは、後ろ向きで傷つきやすい自分のままで自分の手の届く範囲のことをやりたい。
そう考えると自分には道家の思想があってるのかなって思う。自らなにかを為そうとするのではなく、天分をわきまえてことさらなことをしない。無為自然。

カフカはとても繊細で、優しく、謙虚すぎる人でもありました。
実際に役所の仕事では評価はされていましたが、いつかは自分の無能が露呈するのではないかと怯えていた。啄木が「友がみな我よりえらく〜」とか書いているが、カフカは騒音や視線や写真より自分のほうが価値がないと思っていました。一方で花や虫など、小さくて弱いものを慈しむ心を持っていました。ところでこの本で一番面白かったのは、ゲーテが「晩に、わたしは千匹のハエをたたき殺した」と書いた一方で、カフカは「かわいそうなハエを、なぜそっとしといてやらないのですか!」と、ペンションで出会った少女に怒ったことがあったそうな。
カフカはある日、人形をなくして悲しんでいる少女に出会います。カフカは少女に、「人形は旅に出ただけなんだよ」と慰め、それから毎日、少女に宛てて人形からの手紙を書きました。人形は外国に行って、色んなものを見たり、色んな人にあったりたくさんの経験をして成長し、最後は幸せに結婚しました、という手紙を、三週間かけて。なんて、優しい人なんでしょう。

ゲーテだって絶望の大切さを知らない訳ではないし、カフカも絶望したくてしてるわけではなく、希望を知らない訳でもありません。
われわれは落ち込んだときには無責任すぎるほど滑稽な明るい言葉よりも、絶望の中に生きた人の言葉を必要とするのではないでしょうか。そして希望が見えてきたときは、明るい言葉を起爆剤にして、高みを目指します。ポジティブな言葉の本は溢れているけど、カフカや啄木や太宰のように暗闇の中で共感できる言葉も同様に必要です。
陰陽論だとたとえば、陰と陽はどちらか一方では存在しなくて、お互いに行き来しながら、消長と平衡のあいだで均衡を保っています。ただひたすらポジティブでいるよりも、ネガティブになったりポジティブを励みにしながら、自分を見失わずにいたいものです

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